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『定家明月記私抄』(小生抄3)後鳥羽院の歌人へ [鶉衣・方丈記他]

sadaie_1.jpg 文治2年、25歳。西行69歳の勧めで『二見浦百首』を詠む。著者・堀田は西行を「遁世後も後鳥羽法皇、崇徳天皇、入道信西、平清盛、源頼朝、藤原秀衡など権力中枢との交渉盛ん。出家というも政僧・黒幕・フィクサー部分濃厚人物」と記す。

 建久元年(1190)、定家29歳。従四位下。西行没。建久3年、31歳。後白河院没。鎌倉幕府開府。安徳天皇が退位せぬ間、三神器の宝剣なしで後鳥羽天皇が即位。

 建久4年、母「親忠女」没。定家は母39歳の子。母は元・藤原為隆の妻。後の画家・隆信を生んだ翌年に夫が出家。定家父の俊成は為隆の姉妹「為忠女」を妻に4人の子がいたも「親忠女」を迎えた。「為忠女」の前にも「顕良女」がいて妻妾同居。子は27名ほど。「群婚的多妻多夫」風習の名残りとか。

 父の和歌の師は、為隆・為忠女の父・為忠。そして定家は22歳で、父の歌の弟子の娘15歳と結婚。子を3人生んだ後に離別。その33歳の時に西園寺実宗女と結婚。西園寺家系になって「先妻哀れ」と著者。定家はその後、父の同じく27人を設ける。彼もまた妻妾多数か。常々病弱と言いつつ「まったく、よくやるよ」と著者は笑う。

 建久7年、35歳。父の家を離れて九条兼実(定家より13歳年長。摂生・関白。実弟は慈円。子女は内大臣良経、のち摂生の良経、のち後鳥羽天皇・中宮の任子)近くに家を構える。前途ありと思えるも、11月に兼実が関白罷免で九条家衰退。定家、生活苦続く。

 建久9年、37歳、仁和寺宮より「定家親子に50首和歌」詠進を求められて奮闘。著者はこの時の歌で『新古今集』に入る「春の夜の夢の浮橋とだえして嶺に別るゝ横雲の空」は『古今和歌集』の「風ふけば峰にわかるる白雲のたえてつれなき君か心か」の本歌取りで、〝夢の浮橋〟は『源氏物語』最終帖題名と解説。同年、後鳥羽天皇は4歳の子を土御門天皇として院政へ。著者は「院政=責任回避体制」と解説。

 正治元年(1199)、38歳。源頼朝没。定家は禁色を聴(ゆる)された(位ある色織物が許された)姉妹らに何かと助けられる生活。荘園(播磨の吉富、越部。伊勢の小阿射賀。そして兼実より賜わった銚子の三崎)からの収入も、各地頭が力を持ち始めてままならず。

 正治2年、39歳。7月に妻の弟・西園寺公経からの手紙で、後鳥羽院が百首を募っている計画が伝えられる。父に賄賂の贈り方を教わりつつ大奮闘。この百首によって、定家は九条家歌人から、後鳥羽院直属の歌人・藤原定家となる。

 翌・建仁元年(1201)、40歳。後鳥羽院は相変わらず破廉恥遊戯も、和歌に熱中で「和歌所」設置を命じる。寄人11名。後に鴨長明らも加わって計14名。著者は蹴鞠・管弦・連句・賭弓・双六ら諸芸能の一つとしての和歌。その和歌所は「精神の遊戯空間」と分析。

 写真は国会図書館デジタルC『小倉百人一首』より定家の歌「来怒(ぬ)人をまつ不の浦の遊(ゆ)ふな紀(き)尓(に)屋(や)くもし保(ほ)の身も古(こ)が禮(れ)つゝ」

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