SSブログ

牛込氏7)『大胡系牛込氏の研究』を読む [牛込シリーズ]

usigomesi_1.jpg 著者は牛込博康氏。まず『牛込氏と牛込城』によって、自分の祖先が徳川家旗本の牛込氏ではなく、江戸幕府初期に足立の庄屋として分家した牛込氏であることがはっきりしたと記している。足立の牛込氏末裔と思われる著者が、江戸時代初期までの大胡系牛込氏の歴史を探ったのが同著。以下、小生注を()で加えつつのお勉強で、簡単要約してみます。

 大胡氏初代は大胡太郎重俊。鎮守府将軍(陸奥に置かれた軍政の長官)藤原秀郷(俵藤太)の5代渕名大夫「兼光」の長男(足利大夫成行)の3男。(藤原秀郷は平将門追討で源氏・平家と並ぶ関東支配の武家諸氏の祖になった。父は平安前期~中期の貴族)。渕名大夫「兼光」は上野国佐位郡渕名(伊勢崎市)の郡司。足立大夫「成行」は足立の郡司になった藤原成行。(ちなみに「西行」も俵藤太から9代目の武家生まれ。秀郷流奥州藤原氏と遠縁で、陸奥への2度の旅も納得です)

 さて、大胡太郎重俊から5代目あたりまでが大胡城主だろうか。「元弘の乱」(鎌倉時代末期の幕府VS後醍醐天皇の闘いで隠岐流刑の天皇が、隠岐を脱出して新田義貞勢を加えての討幕戦に勝って京都凱旋)で鎌倉幕府に仕えていた大胡牛込氏の所領は新田貞義の手に渡った。

 この時代は勝ったり負けたりの乱戦続き。生き残った大胡一部は、後の戦いで所領を奪取し、また大胡別流は足立、磯子、銚子など各地にも散った。この辺の詳細は省略。では大胡系牛込氏はいつ牛込に移住したか。大田道灌が「田島の森の赤城神社」を番町(牛込御門内)に遷座したのが寛正1年(1460)ゆえに、それ以前に大胡系牛込氏が「赤城神社」を勧請していたことになる。

 一方、暦応3年(1340)に鎌倉公方・足利義詮の意によって「江戸近江権守」が牛込郷を預かっていた。南北朝内乱が関東にも飛び火で、応永23年(1416)の上杉禅秀が足利持氏・上杉憲基に反旗の乱。「牛込江戸氏」は上杉方の太田氏指揮下に入り、後の太田康資が北条氏康への反旗で失敗。牛込江戸氏も大胡系牛込氏の背後に潜んだらしい。(江戸氏関連書も多数。お勉強テーマは無限です)

ryukeiusigome.jpg かくして江戸憲重氏は、隣地の大胡重方と姻戚関係を深めて、文安6年(1446・宝徳元年)に江戸氏所領の桜田、牛込領を牛込氏に譲渡して身を隠した。早大「下戸塚遺跡調査」で「安倍球場跡地で多数建物跡を発見」は、牛込流江戸氏の屋敷跡と推測されているらしい。

 天文24年(1555。弘治元年)、大胡系牛込氏・重行の子の勝行(大胡平五郎)が北条氏から宮内少輔の官位をもらったのを機に大胡から牛込へ改姓。大田道灌が移した「赤城神社」を現在地に遷座。その後、勝行から勝重へ相続。勝重が徳川家旗本になった際に幕府から与えられたのが小日向・龍慶橋の屋敷。(嘉永2年・1849年の江戸切絵図を見ていたら、牛込濠の牛込御門の先、飯田橋の船河原橋を渡って神田川を遡った最初の橋=龍慶橋の右に「牛込常次郎」屋敷があった)。

 またこの頃に、二人の兄弟(大胡氏の子・房光=島根牛込氏、江戸氏の子・平四郎=栗原牛込氏)が足立の大庄屋として分家されたらしい。同著の概要はこんな内容だろうか。小生、東京生まれながら関東武士の歴史に疎く、またの機会にお勉強したく思っています。

nice!(0)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。