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鬼王神社~新宿コロナを救い給え [散歩日和]

kioujinjya1_1.jpg 「軍艦マンション」の道路反対側に「稲荷鬼王神社」あり。永井荷風『日和下駄』に「淫祠」項あり。「淫祠」注解に「神道で認められていない神を祀った社や祠」とあり、本文に「淫祠は大抵その縁起と、またその効験のあまりに荒唐無稽なことから、何となく滑稽の趣を伴わすものである」「理屈にも議論にもならぬ馬鹿馬鹿しいところに、よく考えて見ると一種物哀れなような妙な心持のするところがある」と記し、同神社を「湿瘡(しつ)のお礼に豆腐をあげる」と記していた。

 今は湿瘡ならぬ、歌舞伎町のコロナ感染が収束せず。それを笑うか「ホストクラブ」と思しき大型宣伝カーが走り、都知事選の小さな宣伝カーが走り回っている。さて「稲荷鬼王神社」について。説明は諸々あるも、ここは「新宿観光振興会」サイトを参考にする。

kioumizubati3_1.jpg ~承応2年(1653)に戸塚の諏訪神社境内の「福瑳稲荷」を勧請。天保3年(1832)の当地百姓が熊野から勧請の「鬼王権現」を合祀して「稲荷鬼王神社」。江戸時代から豆腐を備えれば、湿疹・腫物に特効ありとか~の説明。

 「由比正雪の乱」から「承応の変」。その翌年が承応2年。武断政治と浪人らの不満が渦巻いた時代に、諏訪神社から「福瑳稲荷」を勧請。同稲荷の詳細がわからない。諏訪神社は我が家辺りも氏子地域内。「鬼王神社」辺りも地域を広げていたのだろうか。

 「天保3年に百姓が熊野より〝鬼王権現〟を勧請」もよくわからない。天保年間は伊勢参り、熊野参りが盛んも百姓が勧請できるものなのだろうか。平将門の幼名「鬼王丸」がらみ説もある。まぁ、よくわからないのが淫祠・小祠なのだろう。

kieiezukio.jpg 写真中が門前の「邪鬼頭上の水鉢」。これは新宿区指定文化財。教育員会の看板説明は~ 文政年間の頃の制作。うずくまった姿の鬼の頭上に水鉢を乗せた珍しい様式。水鉢左脇には、区内の旗本屋敷にまつわる〝伝説〟を記した石碑があって~この水鉢は文政の頃より加賀美某の邸内にあったが、毎夜井戸で水を浴びるような音がするので、ある夜、刀で切りつけた。その御家人に病災が頻繁に起こったので、天保4年(1833)当社に寄進された。台石の鬼の肩辺にはその時の刀の痕跡が残っている」。鬼王権現が勧請された翌年のことらしい。

 写真下は「江戸切絵図」。「花園神社」の右上に「稲荷鬼王社」。隣に別当「大乗院」。職安通りは昔「大久保新田通り」。その先に「長光寺」(島崎藤村の三人の子らが葬られた)がある。現・大久保通りには今もある「全龍寺」があり、その手前の「鬼王社」も気になる。各寺院に新宿コロナ感染が収束しますようにお祈りしたくなってきた。

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