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新宿から『海行かば』 [散歩日和]

umiyukaba3_1.jpg 新宿「職安通り」(歌舞伎町裏)に通称「軍艦マンション」あり。1970年竣工。昔はホステスさんが多数入居も、今は「シェアハウス+soho」で若い方々が入居とか。

 過日、「軍艦~」と流れる雲を見て、何気なく「雲行かば~」と呟いた後で、その歌をよく知らないことに気が付いた。奈良時代の大伴家持(万葉集の編纂者)の歌。それを千年余も後の昭和12年(1937)に信時潔作曲で代表的軍歌になった。

 「海行かば水漬(みず)く屍(かばね) 山行かば草生(む)し屍 大君の辺(へ)にこそ死なめ かへり見はせじ~」(天皇のお側で死ねるなら海で死ぬも、野で死ぬも後悔しません)

 「天皇陛下バンザイ」と死んで行く帝国思想・戦意高揚に利用されたらしい。「YouTube」で同曲歌唱を聴いたが、やはりよくは知らぬ歌だった。では「何故に曲題を知っていたか」。きっと多くの戦争映画によってかなぁと思った。

daibutu2_1.jpg 大伴家持の歌は、東大寺大仏がらみ。政治中枢にいた藤原4兄弟が「天然痘」で相次いで死んだ。荒廃する世に、聖武天皇が救いを仏教に求め、東大寺大仏建立を思い立った。だが大仏に塗る金不足。そこに「奥州で金発見」の報。天皇は古より近衛兵的な存在なれど、今は地方(富山)に飛ばされていた?越後守・大伴家持に改めて天皇への忠誠を求めた。それに感激した大伴が作った長編詩の一節が「海行かば~」。

 そう知れば、おぉ、その450年後の西行晩年の陸奥への旅も、東大寺大仏がらみだったじゃないかと思った。興福寺・東大寺の衆徒が反平氏で蜂起し、平軍勢が火を放って両寺焼失(治承4年・1180)。その再興を後白河法皇~重源上人~そして69歳西行が大仏塗金の金寄進を陸奥へ依頼すべく旅立った。平泉からの砂金勧請は1回分(砂金450両)が京へ届くも、義経平泉入りによって頼朝に阻まれた。

 目下、新宿はコロナ収束ならず増加中。歌舞伎町近くに在住する身にはサバイバル的日々です。そんな中で「軍艦マンション」~「海行かば」~奈良時代の「疱瘡流行」~大伴家持~東大寺大仏~西行へ想いを馳せたひと時でした。

 写真上は「軍艦マンションと雲」。写真下は「小倉百人一首(菱川師宣画)」の中納言家持(国会図書館デジタルコレクションより)と小生画の西行似顔絵。昨日の東京都コロナ感染者55人。

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