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渡辺淳一『女優』①島村抱月旧居と大久保 [大久保・戸山ヶ原伝説]

simamurahogetu.jpg 同小説は島村抱月と松井須磨子の物語。最初の盛り上がりは明治45年7月末(翌月から大正元年)。抱月の市子夫人が夫と須磨子の不倫デートを突き止める場面。抱月が府下戸塚諏訪町の宅を出ると、市子は中山晋平(書生で住込み中。後の作曲家)に、夫が行くと言った九段の天野博士宅へ向かわせ、自身は女学生の娘を連れて須磨子を見張りに行く。

 須磨子宅は「大久保駅」の東へ2本目の路地の奥。見張っていると須磨子が駅で切符を買う。市子すかさず「同じのを2枚~」で買ったのが「高田馬場」までの切符。須磨子が〝次の駅・高田馬場〟で下車。そこに夫がいた。二人は駅から200m先の天理教会横を右に曲がって雑木林(山手線外側の戸山ヶ原)へ。そこで二人を捕まえた。

 須磨子「死んでお詫びをします」と戸山ヶ原に走り、抱月は自宅で妻に咎めらsumako.jpgれ、酒を飲んで「ラブは命だ。死にたい」と戸山ヶ原へ。翌日になると小説は何故か須磨子の住所が余丁町19番地外山豆腐店方の離れになっていて、もうグチャグチャです。余丁町の坂には坪内逍遥邸(二人が通う文芸協会・演劇研究所を併設)、坂を下った左に永井荷風邸(断腸亭)。共に両者旧居の史跡看板あり。荷風が慶應義塾『三田文学』創刊で、逍遥が『早稲田文学』の総師。

 さて、ここからが難問解決です。まず「諏訪の抱月宅」探しから。『我が町の詩・下戸塚』に「戸山新道の西に水道道路があり、そのあたりに島村抱月は新築2階建てに住んでいた。住所は諏訪町65。だが「戸山新道も水道道路も諏訪町65」もわからない。

 諏訪町~大久保駅~早稲田駅~戸山ヶ原~余丁町。なんだ!我家を取り囲んだ愛のスキャンダルじゃないか。わからないではやり過ごせない。諏訪町は現・高田馬場1丁目。大正時代の「東京市及び隣接郡部地籍図」をも調べるもわからず。

suwacyo65bann_1.jpg ネット調べで、明治通り風景を写して「島村抱月旧居遠景」としたサイトを発見。芳賀善次郎『新宿の散歩道』の戸塚地区地図にも明治通り沿いに「抱月旧居跡」の記入を発見。文章は「戸塚2丁目交差点から明治通りを南に行く。明治通りの池袋~新田裏の開通は昭和6年。コクヨ城西営業所の所が抱月の旧宅跡である。彼は41歳の時に薬王寺町から当地に建てた新築新居に移って来た」とあった。

 当時の地図を見れば現・諏訪通りも明治通りも細い路地に過ぎず。その一画に建っていたのだろう。抱月宅は明治通りの現・諏訪通りと早稲田通りの真ん中辺りらしいとわかった。

 次に「大久保駅」の次の「高田馬場」で下車も~おかしい。「大久保駅」の次は「東中野(柏木駅)」だろう。「新大久保駅」ならば次が「高田馬場」。しかし新大久保駅は大正3年開業で、小説の明治45年7月末には開業していない。

 ここまでが小説の約1/3までの検証? 以上2日にわたってのお調べ遊びでした。写真は国会図書館デジタルの「近代日本人の肖像」より。

 ★7月4日に、島村抱月「諏訪町65番地」判明を当時の地図入りで記しています。

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