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吉阪隆正『乾燥~』で百人町再考 [大久保・戸山ヶ原伝説]

yosizakatizu2_1.jpg 都立中央図書館で『吉阪隆正集』より第12巻『地域のデザイン』を読んだ後、5Fカフェテラスでランチ。窓の正面が東京タワー。右を見れば竹芝桟橋辺り。そこで「あっ」と思い出した。

 昨年5月の練馬区立美術館「横井弘三の世界展」を観て、彼が若き日(昭和3年)に大島スケッチ旅行をした際の〝画と紀行文〟の書『東京近海 島の写生紀行』が、この図書館にあるのを思い出した。同書の長閑な時代の大島を楽しませてもらって、さてと仕切り直し~

 吉阪隆正全集の、今度は第4巻『住居の形態』と『乾燥なめくじ~生ひ立ちの記』を借りた。第4巻に〝百人町の吉阪邸の成り立ちと変遷〟が収録。だが、その部分は『乾燥~』の再編集だった。同書によって吉阪隆正の新たな諸々を知った。その中から幾つかをメモする。

★百人町の吉阪邸/大正12年(1923)、ジュネーブでシャトー暮しをしていた吉阪一家が帰国。百人町仲通り北側の柴田雄次氏の地に建てられていた大内兵衛(父の五高時代の友人で、当時は東大教授)邸を譲り受けた。ドウダンツツジの垣根内敷地真ん中にイギリス風ボーウィンドー(弓型に張り出した出窓)のある応接室。縁の下が三尺以上も高い大谷石ピロティの上に建てられた二階建て。床下に石炭ボイラー、応接室にユンケル(貯炭式)ストーブ。スケッチを見れば豪邸なり。それで夏は軽井沢の別荘へ。彼は昭和17年の召集までをここで過ごした。

★兵役/住居についての卒論調べで北支満豪へ。召集を受けて北京から姫路(実家は代々の造り酒家)の連隊へ。幹部候補生隊から満州飛行機の監督官、そして習志野で中隊長教育。南鮮の光州で終戦。百人町の自宅はB29空襲で焼失していた。 

★バラックを建てる/昭和22年(1947)、跡地にバラックを建てる。住宅に困っていた友人らにも敷地を解放。(同書掲載のスケッチを幾つか簡易模写しておく)

★ル・コルビュジエ時代/戦後最初のフランス政府給費留学生となってコルビュジエのアトリエ勤務。住居は〝薩摩会館〟こと日本館学生寮。映画「パリの空の下セーヌは流れる」に折り畳み小径自転車(プジョーかルノー製だろう)で走り抜ける吉阪の姿が一瞬映っているとか。あたしは隠居してから折り畳み小径自転車にのっている。

★帰国後に自邸設計/~をするも各国へ飛び回ること多々。昭和36年(1961)4月から翌年10月までアルゼンチンのツクマン大学招聘教師。帰国すると吉阪邸には大学の研究生らが入り、南米の留学生夫妻が土足で生活。邸宅を大改造する。

★吉阪邸の位置/吉阪邸の南側に「三葉マンション」が建って、母らが入居とあった。同マンションは今もあるから、行けば吉阪邸があった場所がわかる。この一画は冒頭紹介『大久保の七十年』を記したのが徳永康元で、今も徳永家の表札の家が残っている。昭和初期の百人町の面影が残る貴重な路地になっている。昭和40年から数年、この地から若き建築家らが大島に幾度も渡っていたんだと思った。

★江藤淳の連れ込み宿/「三葉マンション」の前に今はないが「KBマンション」があって、吉阪家の子らが入居していたとか。同マンションは元・温泉マークの建物で、流行らなくてマンションに改造と記されていたと記されていた。そこで「アッ」と思った。実は江藤淳が昭和40年(大島元町大火の年)5月に〝母の思い出が唯一のこる跡地〟を訪ね、温泉マークの旅館が建設中で痴態を写す大鏡設置を見て「顔から血がひくのを感じて眼をそむけた」から「私に戻る〝故郷〟などなかった」と記していたが、それを最初に読んだ時は、この辺には連れ込みホテルなどなかったはずだが、と思っていたんだ。それが吉阪隆正の記述でこの辺りにもそんな宿があったと認識した。

★崇拝者のその後/江藤淳は「崇拝者が死に絶えると、その神話化は霧散霧消する」と書き出して「夏目漱石論」をものにした。吉阪隆正もまた多くの建築家が崇拝するカリスマ的存在。今後にも注目したい。

(〝大久保と大島を結んだ建築家・吉阪隆正〟1~5はカテゴリー「週末大島暮らし」に収録。この項6のみ「大久保・戸山ヶ原伝説」とした。完)


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江藤淳の〝故郷〟探し(漱石付録4) [大久保・戸山ヶ原伝説]

etohisofu3_1.jpg 次に気になったのが江藤淳の生家。『作家の自伝75「江藤淳」』の年譜に「昭和8年12月25日、東京府豊多摩郡大久保町字百人町3丁目309番地に江頭隆・廣子の長男として生まれる」とあった。当時の地図を見ると、それは新大久保駅と大久保駅のほぼ真ん中から北への横丁を入って、陸軍用地までの中ほどか。

 江藤淳は『戦後と私』にこう記している。「昭和四十年五月のある日、家の跡を探しに行った私は茫然とした。もともと大久保百人町は山手線の新大久保と中央線の大久保駅を中心とする地域である。新宿寄りの一、二丁目は商店が多く、大久保通りから戸山ヶ原寄りの三丁目は二流どころの住宅地であった」

 江戸のツツジ名所の趣をとどめ、近所は学者の家や退役軍人の家が多く、ドイツ村(初期日本楽壇に貢献した外国音楽家たちが住む一画)もあったと記して~

 「私が茫然としたのはその一切が影もかたちもなくなっていたからである。そのかわりに眼の前に現れたのは温泉マークの連れ込み宿と、色つき下着を窓に干した女給アパートがぎっしり立ち並んだ猥雑な風景であった」

 そして「探しあてた家の跡にたどりつくと、私は新しい衝撃をうけた。敷地内に建ったという都営住宅は一軒をのこしてとり払われていた。更地にしたところに三階建の家が新築中であり、板囲いのあいだから見るとそれは疑いもなく温泉マークの旅館になると思われた。母が死んだのはつつじの季節であった。しかしつつじはなくて植込みのあったあたりも建築現場になり、職人がふたり痴態をうつすべき鏡を壁にはめこんでいる姿が見えた。私は顔から血がひくのを感じて眼をそむけた」

 江藤淳は「これが私にとっての戦後で、私に戻る〝故郷〟などはなかった」となる。子供時分の記述では、4歳で母が病死。父が再婚。戸山小学校入学も病弱で通学せず(どの本だったか、小便を漏らして登校拒否になったらしい)で、小3で義祖父の隠居所の鎌倉へ。昭和20年5月25日、B25の大空襲で生家焼失。数日後に父と共に庭に埋めた陶器を掘り出しに戻ったとも記していた。

 江藤淳『一族再会』でも自身のプロフィールを詳細に記している。空襲で母の思い出が唯一残る百人町の〝故郷〟を失くした。親族らが作って来た明治の結果が、この有様を招いたが「そうは言っても失ったものへの深い癒しがたい悲しみという私情ほど強烈な感情はない」と、彼は亡き母の姿を求め、さらに大日本帝国海軍を作った祖父、祖母の母や父らの姿を求めて明治へ遡って行く。

 その親族を簡単に記せば祖母の父・古賀喜三郎は、官軍・佐賀藩の砲兵隊として奥羽追討に参加し、帝国海軍へ。(半藤一利夫妻はそれぞれ長岡に疎開して薩長嫌いになったのとは逆だな) 退役後に「海軍予備校」を創立(後の現・百人町の海城中・高等学校。江藤淳が登校拒否した戸山小学校の前)。祖母は喜三郎と同郷出身の海軍兵学校主席の江頭安太郎と結婚。母の父は潜水艦作戦の専門家・宮治民三郎。

 江藤淳は〝故郷〟探しを親族に求めて、次第に明治政府を理想とする保守派志向を深めて行ったと思われる。その原点が百人町の母、生家を失った〝故郷喪失〟にあったと言ってもいいだろう。★挿絵は江藤淳の曾祖父で海軍少佐だった古賀喜三郎。


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我が地も漱石・荷風がらみ(漱石付録3) [大久保・戸山ヶ原伝説]

sousekisanbo1_1.jpg 漱石を荷風さんがらみで調べていたら、我が在住地一画に漱石死後の夏目家、荷風さんの弟らが住んでいたとわかった。茅原健著『新宿・大久保文化村界隈』を読むと、その資料引用に概ねこんな内容が記されていた。

 「明治45年生れの森村浅香(小説家豊田三郎の妻で、森村桂の母)が、大正13年から西大久保3丁目に在住。大久保通りを越えた戸山ヶ原の隣接地で、現・大久保2丁目。その辺りはお屋敷という程でもないが静かな住宅地。家の隣が早大の宮島新三郎、片上伸の両先生が前後して住んでいて、数軒先は帝大の和田健三先生。隣の横丁に永井荷風のお兄さん(実弟・威三郎の間違い)がいて、松岡譲(夫人は夏目漱石・長女)の家もあって、人力車に乗った漱石夫人を見かけたことがある」

 また『地図で見る新宿の移り変わり 淀橋・大久保編』には、森村桂の随筆『わが青春の街 新宿の田辺茂一のおっちゃんと』掲載。3歳まで西大久保に在住。疎開して小3(昭和23年)で同地に戻って家を建てた。19歳の時に父死去で、アパートに建て替えた。24歳の時に原稿書きの隣の部屋にヤクザが入居。追い出すまでの顛末を書いていた。また同書には徳永康元『大久保の七十年』も掲載。

 さて、話を進める。荷風さんの実弟は放蕩の兄を嫌って絶縁して母と住んでいた。住所は淀橋区西大久保3丁目9番地(現・大久保2-2-9)。ここで「エエッ」である。同番地は我がマンションの斜め後ろ辺り。(今は一帯がマンションばかりだが)

 これは2011年3月の弊ブログでも書いたことがある。東日本大震災で休んでいたブログ再開にあたって、地震で本棚の上の荷風全集が落下したと書き出して、荷風さんは関東大震災の3日後に、母の安否を確認すべく威三郎の家の門を叩くも、世情不穏に警戒した家人が門を開けない。見かねた隣人の〝紳士風だから〟の忠告でやっと門を開けてもらって母の無事を確認。母は実家・鷲津家が上野に避難と聞き、消息を尋ねてくれと頼む。

 麻布・偏奇館から大久保まで歩いて疲労気味の荷風さんに、威三郎の妻が同行。結局母の実家の消息は確認できず。クタクタの荷風さんは自警団に尋問されて弟の妻に助けられ、かつ彼女に背負われるていたらくで大久保に帰ってきた。荷風さん、こんな格好悪いことは「日乗」に書けないから、その日の日記は「初めて弟の妻を見る」とだけ記した。

 以上は松本哉『荷風極楽』からの引用で、それを読んだ時に、ひょっとして我がマンション辺りと思っていたが、それが間違いなしと確信した。そして同じ一画に夏目家も住んでいたという記述に遭遇。これは半藤末利子著『漱石の長襦袢』で確認した。同書に一言だけ「やがて夏目家は西大久保(番地は不明)へ、そして上池上へと移った」なる文があった。これで森村浅香述の裏がとれた。

 それは漱石が亡くなった7年後。鏡子夫人が長女・筆子と結婚した松岡譲に同居を頼む。松岡は漱石山房が後に文化遺産になると保存に動き出す。借家を大家より2万円で購入。山房を保存し、9人家族が住める豪邸を敷地内に建てた。大震災に住まいはビクともせぬが、山房が大きく揺れた。保存を心配して〝漱石山脈〟の門下生らに図るも、一番若い弟子・松岡の意見に誰も耳を貸さない。

 そのうちに漱石全集が売れ出して、鏡子夫人の浪費が始まった。昭和19年、松岡一家は長岡市に疎開。(筆子の娘・未利子は同じく長岡に疎開中の半藤一利と出会ったのだろう)。戦後、夏目家の地を東京都に払い下げ。かくして西大久保へ移転したのだろう。

 ★新宿区はいま漱石記念館建築中で今年9月に開館らしい。挿絵は漱石山房のベランダで寛ぐ漱石さん。なにベランダの手摺りが上手く描けていると。これは我が大島ロッジのベランダと同じ。ベランダの手摺りの作り方ってぇのは明治の頃から変わっていないんだなぁ、と妙な所で感心した。


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漱石「野々宮」の家は?(漱石付録2) [大久保・戸山ヶ原伝説]

natumezaka_1.jpg 武田勝彦『漱石の東京』が図書館にあった。漱石の小説に登場の東京各地の蘊蓄。川本三郎の散歩本と同ジャンルかな。同書を手にしたのは10年程前に氏の『荷風の青春』(1975年刊)を読んだから。同書は荷風さん24歳からの滞米・滞仏4年間の足跡を、実際に現地を訪ねて実像に迫った労作。氏もまた漱石・荷風の両書読み手なのだろう。

 『漱石の東京』は、自転車散歩好き小生にはお馴染の地がほとんどだが、今回は小生在住の「大久保」に注目した。まず〝三四郎〟が野々宮の移転先、大久保の家を訪ねて留守番をする場面。淋しい秋の宵の口に、大久保駅近くの轢死事件に遭遇する。

 さて、野々宮の家はどこだろう。氏は三四郎が歩いた道筋と轢死現場から推測して「現・百人町2丁目26番地の一画」と推測。その参考文献に東大名誉教授・大内力『百人町界隈』、東京外語大名誉教授・徳永康元『大久保の七十年』、千葉大名誉教授・清水馨八郎の昔語りを挙げていた。

 ここから伺えるが、当時の大久保は学者、画家、文学者、社会主義者、外国の音楽家など多数が居て〝大久保文化村〟が形成されていた。(今はコリアンタウンぞな、もし) その「百人町2-26」は現住所ゆえ、地図を見ればすぐわかる。大久保駅から東中野方向へ線路沿いに歩いた右側辺り。

 だが野々宮は寺田寅彦モデルで、寺田は百人町に住んでいないから漱石のフィクション設定。漱石はこの辺をよく歩き回っていて、他作家らが戸山ヶ原で漱石と会ったことなどを書き残している。そして当時の大久保在住者らが記した地名は、当然ながら当時表示ゆえ、現在地を確認するのに苦労する。

 そこで大久保の住所表示変更と発展過程を知るために明治、大正、昭和初期・中期の地図が必要で、手元に年代別の幾枚かの地図コピーあり。例えば国木田独歩が「明治40年に西大久保133に転居」とあれば、明治44年の地図を見て、それが現・大久保通りの金龍寺の反対側の道路際とわかったりする。

 また大正1年の地図は国会図書館デジタルコレクション「東京市及び接続部地籍地図」の下巻「豊多摩郡」の「大久保村百人町」がパソコンで閲覧できる。そんな遊びで小生は渡欧前の藤田嗣治の新婚所帯の表示を発見したことがあった。今回も前述の野々宮の住所確認に当時の地図、資料を見ているってぇと、小生在住地辺りに夏目家や荷風さんの実弟が住んでいたことを発見?して、ちょっと驚いた。(続く)

 ★写真は夏目坂「夏目漱石誕生地の碑」。かかぁが「今夜は餃子」ってんで、早稲田の「餃子の王将」でテイクアウトと決めた。我家から箱根山の戸山公園を縦断して早稲田へ。途中の白梅に二羽の「メジロ」。小さな池に望遠レンズの方。なんと眼の前にカワセミがいた。かかぁが餃子購入中に道路向こう側を見れば、この生誕百年記念の碑あり。スマホフレームに「やよい軒・海鮮チゲ」が入るのもご時世かなです。帰路、鳥の囀りに見上げると今度は「エナガの群れ」がいた。今日は好い日だった。


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『江戸名所図会』のツツジ [大久保・戸山ヶ原伝説]

okubohanaenomi_1.jpg くずし字の勉強がてら『江戸名所図会』シリーズを続けてきたが、ここはマイカテゴリー「大久保・戸山ヶ原伝説」の範疇・・・。同書(江戸後期)に「大久保のツツジ」の見開きの絵あり。本文はなく、絵に添えられた文を読む。

 大久保の映山紅(きりしま)ハ、弥生の末を盛(さかり)とす。長丈餘のもの数(あまた)株ありて、其紅艶(こうえん)を愛するの輩(ともがら)こゝに群遊(くんいふ)す。花形(くわきやう)微少(ちいさし)といへとも叢(むらか)り開(ひらき)で枝茎(しけい)を蔽(かく)す。さらに漫庭紅(まんていくれない)を灌(そゝく)か如く、夕陽に映(えい)して錦繍(きんしよう)の林をなす。此辺の壮観なるべし

 この頁も楷書とくずし字の混合文ゆえ、自分流にすべてをくずし字に直して書いてみた。くずし字、書道の初心者(自己流)には、何度書いてもうまく書けぬ。見かねたかかぁが「書道教室に通いなさいよ」と云う。 「映山紅(えんさんこう)=ツツジ、躑躅」で、ここでは「きりしま」のルビ。キリシマツツジのことだろう。泉鏡花の句に「紫の映山紅(つつじ)となりぬ夕月夜」がある。

ohkubotutujibun_1.jpg 鉄砲百人組がここに住み(百人町)、細長い宅地で内職のツツジ栽培を始めた。明治維新で廃れたが、明治16年頃からツツジ園が復活し、明治20年代後半に中央線の前身・甲武鉄道開通。「大久保」駅まで「ツツジ列車」が運行されるほど賑わったとか。

 新宿区の花がツツジに決まったのが昭和47年。それもあろう、歩道や公園はもとよりマンション・ベランダなどにもツツジが植え込まれた。かくして大久保の弥生五月は、鮮やかな映山紅に染まる。漫街紅に灌が如し。

 ・・・とは云え大久保は今や情けないことにギャルやオバさん群遊すコリアンタウンになってしまった。従って韓国、中国系の方々も多くが在住す。商店街アナウンスやすれ違う人々の言葉も、日本語はもはや数ヶ国語のひとつに過ぎぬ。あたしの住むマンションのゴミ出しルールもハングル、中国語、英語、そして日本語。加えてあちらの方々の話し声の甲高く大きなこと。怒鳴り合いの喧嘩でもしているかと振り向けば、携帯のおしゃべりだったりする。信号赤もわがもの顔多し。まぁ、それら人々は一部なのだろうが、目立つこと。他の街に行って、耳に入るのが日本語だけだと心(しん)からホッとする。

 これは新大久保ではなく、昨日の新宿でのこと。赤信号を五、六人の東南アジア系オジさんらが渡っていたが、ヤンチャそうな日本の若者たちは誰もが車来ぬも青信号になるまでジッと待ってい、これはちょっと素敵な光景だった。


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大正13年、戸山アパッチゴルファー現る [大久保・戸山ヶ原伝説]

apache1_1.jpg 大正12年9月1日に関東大震災が襲った翌年の1月、岡本綺堂が越して来る数ヶ月前の「東京日日新聞」に左記の記事が載った。世に言われる「戸山アパッチゴルファー」の報。題して「戸山ヶ原のゴルフ老人」。写真は「戸山ゴルフクラブの花形・明石雷一氏の夫人」。本文はこうだ。

 この十数年間、雨が降らうが雪が降らうが一日として戸山ヶ原に姿を見せぬことのない鳥羽老人は、わがゴルフ界の先覚者として且運動精神を眞に體得した人として稱されてゐる。老人がゴルフに親しみ出したのは持病の心臓病で餘命幾ばくもないと医師から宣告された明治四十年の春であつた。職業柄洋服仕立ての見本に送られた写真で外人がゴルフに親しんでゐるのを見て自分も一つやつて見ようと思ひ立ち苦心の末やつとクラブと球を手に入れ病身を運んで戸山ヶ原に立つた。無論クラブのにぎり方も打球方法も知らう筈がなく、数葉の写真を参考に兎も角球を打つことを練習した。姿勢の不恰好は當時から評判もので更に~」

 この新聞コピーは、あたしが有栖川公園の都立中央図書館でマイクロフィルムをコピーしてもらったもの。全文読む機会は滅多になかろうから全部引用です。ただしコピー不鮮明にて旧字、誤字はご諒承下されたし。

 「奇妙なのは手の握り方が普通の人と全然反體に左手を前にして握る。恐らく寫眞で見た打球後の姿勢を打球前の姿勢と感(勘)ちがへして手の入れちがつたままを真似た為であらうが、癖になってしまつた氏は今に自説を固執し決して握りをかへようとはしない元々運動に素養がないから技術は遅々として進まず長年間の研究で得た結果はドライブの最長距離が三十ヤードから四十ヤード程度で、若手の後進が二三百ヤードを平気で飛ばすのにくらべると十分の一にも及ばない。ただ草中に見失はれた球を逸早くさがし出すことが大の得意でこゝとにらんだ場所には百発百中決して球から五インチと離れたことがない。併し氏の目的は技術の進歩ではなく、短命を宣告された健康状態を運動によって回復して見せようとするにあり、この目的は見事に達せられた。心臓病は一年足らずのうちに奇麗に回復して医師をおどろかせた。併しそれにもまさるよろこびは従前の悲観的な気分があかるい世界にかはり仕事の能率が倍にも三倍にも上つたことだ。斯うして運動の有難味を体験した氏は十数年間一日も欠かさず起き抜けに原野に現れあけの烏や早起きの茶屋の婆さんをおどろかせながら日に三時間野原のかなたこなたと球を打ちまはった。最近この老運動家を中心に新しいゴルフ倶楽部が生まれたが、保土ヶ谷や駒沢のリンクが五百圓から千圓の入會金を〇しブルジョア気分をほこつてゐるに對しこの倶楽部は何こまでも地味に運動愛好の初心者を集めゴルフをもつと一般的なものにしようとしてゐる。なお入會希望者は市外戸塚町諏訪〇〇方ゴルフ倶楽部へ連絡すれば誰でも歓迎するとのこと。」

 なお、井上勝純著「ゴルフ、その神秘な起源」によると、鳥羽老人の姿を認めた洋行帰りの同好の士らが次々に加わって、次第にシュートコースが出来たとか。また球拾い名人は鳥羽老人ではなく原老人で、当時のボールは新品で1個2円(今日の1万円)也。ここで生まれた「戸山ヶ原ゴルフ倶楽部」の発会式は同月13日に行なわれ、会員80名が参加したとある。陸軍練兵場の兵隊がいない時間にもぐり込んでプレイする訳で、称して戸山ヶ原のアパッチゴルファー。しかし人数が多く、かつ大っぴらにやられるようになって、陸軍もついに黙認できずにゴルフ禁止と相成った。締め出された同倶楽部員たちは、やがて「武蔵野カンツリー倶楽部」設立に動き出すことになる・・・と書かれていた。

 大久保・戸山ヶ原は大衆ゴルフ発祥の地でもあったんですねぇ。多くの画家がスケッチをし、文士が散歩をし、時に梅屋庄吉の映画会社が野外撮影をした大正時代の戸山ヶ原でした。


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百人町上空ツェッペリン低飛行す [大久保・戸山ヶ原伝説]

kunieda1_1.jpg 岡本綺堂は関東大震災で麹町を焼け出され、1年3ヶ月の大久保暮しだったが、同じく麹町から移って約7年を百人町で過ごしたのが邦枝完ニだった。永井荷風に私淑し、荷風推薦で処女作「廓の子」が「三田文学」に掲載。同誌編集にも携わった。江戸の風情・情緒を主にした娯楽小説で人気作家へ。彼の長女で、俳優・木村功と結婚した木村梢が、少女時代を回想した「東京山の手昔がたり」(世界文化社刊)で「大久保時代」を書いている。

 麹町三宅坂で新婚生活を送った邦枝完二だが、母(姑)と嫁の仲が悪く、嫁と二人で大久保に移転。関東大震災の約半年前のこと。寂しくなった母は、嫁いびりをあやまって大久保に押しかけてきたとか。場所は大久保百人町で岡本綺堂宅の隣と書いてある。邦枝が先だから、後から岡本綺堂が引っ越してきたってことだろう。隣とは東西南北のどっち隣だったのだろう。「すぐ裏は陸軍練兵場の戸山ヶ原が見渡す限り広くあり、江戸の頃より躑躅の名所と言われただけあって、何処の家にも躑躅の花が美しく咲き競う町であったという」。

 大震災は「大揺れに揺れた家は壁に隙間が出来たり、茶棚のもの全てが落ちて割れたりはしたが、誰も怪我もなく無事であった」そうな。梅屋庄吉邸の震災被害も少なく、この辺は地盤が固いのかも。そのうちに襲って来るという大地震に、ちょっと安心なり。さて、著者はそこで大正15年11月に生まれた。産まれたのは市ヶ谷・一口坂の産院。梅屋庄吉といい、なぜか「市ヶ谷・一口坂~大久保」の縁が重なる。

 著者が大久保暮しではっきり思い出せるのは、ツェッペリン(235mの飛行船)だと書いてあった。「近所におせんべ屋があり、そこの娘さんが私を可愛がってくれて、その日も遊びに行っていた。二階から物干台に出ていた時、私たちの真上を大きな灰色のものが空一面を覆うようにゆっくりゆっくりと横切って行った」。余りの驚きでひきつけを起こして、母に抱きかかえられて医者に行ったとか。昭和4年の夏、世界一周の途中で霞ヶ浦飛行場に降りたツェッペリイ伯号だろう。

 なお邦枝家の先祖は、徳川慶喜公と共に駿府に行き、江戸は麹町平河町に戻ってきた旗本らしい。昭和5年に平河町に戻った国枝完二は昭和6年「歌麿をめぐる女達」をはじめで流行作家へ。永井荷風全集には彼の「おせん」の序文や、「偏奇館雑談」(荷風・邦枝)が収録されている。

 次回は邦枝完二が大久保に越してきた数ヶ月前の「東京日日新聞」に載った「戸山アパッチゴルファー」の記事を紹介。


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岡本綺堂、1年3ヶ月の大久保暮し [大久保・戸山ヶ原伝説]

kidounikki.jpg 大正12年9月1日、関東大震災。この時、百人町の梅屋庄吉は避暑で千葉の別荘にいた。9日になって梅屋邸の様子がわかる。「瓦、壁落ちるも母屋、倉庫、盆栽、フィルム全部無事」。13日になって若者7名に米を背負わせて上京。亀戸からは徒歩になった。(車田譲治「国父孫文と梅屋庄吉」)

 この大地震で、麹町元園町(元園町1丁目19番地=現・麹町2丁目12番地)の家が焼失し、17歳からの日記、蔵書、家財を失って大久保に引っ越してきたのが岡本綺堂だった。その地は大久保百人町三百一番地。綺堂53歳、大正13年3月18日だった。「生まれて初めての郊外生活なり」と日記に書いた。百人町の家の下見がこう書かれている。「駅から遠くないところで、靴屋の横丁をゆきぬけた左の角、家の作りはなかなかよい。九畳、八畳、四畳半二間、三畳三間で、庭は頗る広い。家賃は百三十円、少し高いやうにも思はれるが、貸屋普請でないのと、庭が広いのが気に入って、これを借りることにほぼ決定。」 ガーデニングも愉しもうと鋤・鍬も買って、18日に引っ越し。

 同文の後に括弧括りで子息・岡本経一氏がさらに克明な説明を記している。「山の手線新大久保駅を降りて中央線の大久保駅にむかって二つ目の横町を右折して行くと戸山ヶ原に突きあたる。その左側か大久保百人町三百一番地である。庭が百坪以上もあり、玄関脇に桜の大木があって、その花盛りには目印になるようであった。五月になると大久保名物のつつじの色が一円を明るくした。江戸以来のつつじ園はもう一軒も残っていないが、どこの家にも庭があって、いろいろなつつじの花色がめざましかった。(中略) 家の裏側から北に見渡される戸山ヶ原には、尾州候の山荘いらいの遺物のような立木の中に、陸軍科学研究所の四角張った赤煉瓦の建物と、明治製菓会社の工場にそびえている大煙突だけが目立った。季節によって変化のある郊外風情であったが、いまは新宿区百人町二丁目十二番地、戸山ヶ原もすっかり開発されて、昔を偲ぶ夢もない」

 なお岡本綺堂は明治5年、高輪泉岳寺生まれ。父は佐幕党で奥州白河から横浜・居留地に潜伏して、英国公使館のジャパニーズ・ライターになる。公使館が麹町に移って、岡本家も明治14年に麹町に移転。「半七捕物帳」の三浦老人の住居を大久保に設定したのは偶然だったらしい。百人町の暮しは、麹町元園町に新築の家が完成と同時に終わっているが、その間の人気作家の日々の暮しが日記に書かれていて興味深い。★参考は昭和62年青蛙房刊の「岡本綺堂日記」(編集・発行は子息・岡本経一)。写真は同書の写真ページ。★百人町の岡本綺堂宅があった辺りの写真は「2011-12-22」に掲載。


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大久保・梅屋邸で孫文・栄慶齢の結婚披露宴 [大久保・戸山ヶ原伝説]

imeyahon1_1.jpg 昨日の続き。・・・梅屋庄吉は映画ビジネスで稼いだ金を、孫文の革命に注いだが、孫文は明治44年(1911)の挙兵に失敗。だがこれが起爆剤になって革命のうねりが生まれた。孫文は逃亡先のロンドンから帰国し、明治45年1月1日に臨時大統領に就任。清は276年の幕を閉じ中華民国が樹立。しかし北京には未だ清朝政府があり、孫文は和議をすすめる袁世凱と対立。孫文が辞表を出して、袁が第二代臨時大統領に。孫文、わずか45日間の就任だった。

 一方、梅屋も慌ただしい日々を過ごしていた。小会社乱立の映画界を強固にすべく、4社連名で「日活」設立に奔走。だが明治45年の明治天皇崩御で株価暴落。取締役を辞任。日活のお家騒動が始まった。彼は改めて「Mカシー商会」の名で映画事業を再開。一方の孫文は袁派に追われて日本に亡命。梅屋邸の庵(屋敷と撮影所の間の、梅屋が盆栽を楽しんだ庵。梅屋は昭和4年に中国から国賓として招待された際に、孫文像と共にこの庵も送った<贈った>そうな。これは同年3月3日の「東京毎夕新聞」に載っているらしいから、縮刷版で読めそう)に隠れた。やがて日本政府も亡命黙認で、孫文は同庵と原宿の“中山寓”を行き来して、さらなる革命への準備に奔走。

 その間に、梅屋庄吉はインド革命で亡命中のバラカトゥラーと孫文を自邸で逢わせたりもした。インドからの亡命仲間の一人が、新宿・中村屋にカレーを伝えたボース。ここでまた余談・・・彼は中村屋店主・相馬愛蔵・黒光の娘・俊子と結婚して帰化したが、その前に俊子をモデルに日々絵を描き続け、彼女との結婚を切望するも黒光に拒否されたのが画家・中村彝(つね)だった。彼は傷心の伊豆大島暮らし(島の露天混浴風呂“浜の湯”脇公園に胸像有り)、島から帰った後の目白のアトリエは目下、新宿区が保存・記念館に準備中。また愛蔵の浮気に苦しむ黒光に恋し、彼女の苦悩を彫刻で表現したのが日本のロダンこと荻原碌山。両手を後ろに跪いて天を仰ぐ顔・・・、あの「女」像は余りに有名だ。

 大正4年(1915)11月、孫文は前夫人と離婚し、27歳下の財閥・宋家次女でアメリカ留学のキャリアを有し、孫文の英文秘書をしていた宋慶齢と結婚。仲人は梅屋夫妻で、結婚・披露宴は大久保の梅屋邸で行われた。犬養毅など錚々たる要人が列席し、大久保は時ならぬ華燭の賑わい。宋慶齢は孫文亡き後に「中華人民共和国副主席」。自身が亡くなる直前に「中華人民共和国名誉主席」の称号が授けられている。ここ大久保・百人町には、中国革命と日中友好のかくも重要な地といえましょう。

 この事実や梅屋の業績は、残念ながら日本・中国に知れ渡ってはいない。それは彼の遺言・・・「ワレ中国革命ニ関シテ成セリハ、孫文トノ盟約ニテ成セルナリ。コレニ関係スル日記、手紙ナド一切口外シテハナラズ」によって、遺族や関係者が秘めて来たため。辛亥革命100周年を経て、ようやく日が当たりだしたばかり。2010年8月の上海万博の日本館で「孫文と梅屋庄吉展」が開催。同年9月には北京で「孫文、宋慶齢と梅屋壮吉展」開催の運びになった。なお宋慶齢の妹・美齢は蒋介石夫人。蒋介石亡き後はアメリカに移住。むろん蒋介石も大久保・梅屋邸に足を運んでいた。

 また梅屋夫妻は大正10年に世を騒がせた柳原白連(歌人・びゃくれん)と東京帝大生で宮崎滔天(とうてん)の息子・宮崎龍介との恋も陰でバックアップしていたことが、梅屋壮吉の曾孫・小坂文乃(現・日比谷松本楼の取締役)により平成21年刊「革命をプロデュースした日本人」で明らかにされている。大正時代に長谷川時雨によって書かれた「近代美人伝」の白蓮の記に、今の世に著された小坂著をもって、はじめて白蓮の恋の真相も明かされた感がある。

 梅屋庄吉はその後、千葉・岬町の別荘で昭和9年に67歳で亡くなった。その別荘暮しは百人町・梅屋邸に某が借り住んでいたたためと小坂著に書かれているが、車田著には実名が載っていた。某は昭和11年の「二・二六事件」の理論的首謀者として処刑。梅屋邸は昭和21年に処分されたらしい。

 今は韓流ブームで湧く大久保だが、この地にはかくも偉大かつ壮大な日中のドラマが眠っていたのですね。詳しくは写真の両著をぜひどうぞ。


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大久保に梅屋庄吉の映画撮影所が・・・ [大久保・戸山ヶ原伝説]

umeyatei1_1.jpg 先日の公示地価で、新大久保のコリアンタウンが1.6%上昇。ブームが地価を上げるとは稀有なりとニュースが報じていた。街は様変わりして異国のようになってしまった。昔の大久保・戸山ヶ原を偲んで、かつてホームページで「戸山ヶ原・戸山荘伝説」と題した地元の歴史調べをしたことがある。当ブログでも改めて「大久保・戸山ヶ原伝説」のカテゴリーで復活させることにした。その第1弾は、明治42年にできた百人町の梅屋庄吉・大久保撮影所物語。参考は車田譲治「国父孫文と梅屋庄吉」(六興出版)、小坂文乃「革命をプロデュースした日本人」(講談社)、田中純一郎「日本映画発達史(1)」(中央公論社)。

 「大久保駅」際から北へ。現・社会保険中央病院に突き当たるまでの細長い地が、新宿区百人町2丁目23番地。明治42年(1909)、梅屋庄吉がこの地を詩人・西条八十の実父から1500坪(車田著では3000坪)を購入して邸宅と映画スタジオを作った。武蔵野風景そのままの地で、林を刈って千坪ほどを撮影用にした。現在のキリスト教関係の施設「学生の家」と「テニスコート」、隣の「スポーツ会館」辺り(写真)に現像所、大小道具倉庫、化粧室、弁士や技師や楽士らが住む寮とオープンセット。その南側(大久保駅寄り)邸宅は玄関が大理石の門柱4本と重厚な門扉。入ると大型外国車2台、洋風二階建てに森や池を配した庭。梅屋庄吉の家族と門下生、撮影所スタッフなど百人が住んだとか。

 ここで梅屋庄吉のプロフィール。長崎で貿易・精米を営む梅屋家の養子。子供の頃から侠気発揮で武勇伝いろいろ。明治25年に一攫千金を賭けた事業で失敗し東南アジアに逃亡。シンガポール、香港で写真館を経営。ここで中国が植民地化されるのを防ぐために清朝(しんちょう)打倒を図る孫文と出逢って盟友の契り。資金援助を約束した。写真館は革命の梁山泊と化した。梅屋庄吉はシンガポールでの映画上映で成功し、明治38年(1905)に帰国。パテー社から輸入した極彩色映画フィルムを4、50巻を持ち帰って各芝居小屋で映画興行。本格的に映画ビジネス参入の「Mパテー商会」を設立。当初の屋敷・社屋は千代田区九段北・一口坂。事務所、現像所、弁士養成所などを設け、十数の配給館を設けた。同社制作映画は明治41年の中村歌扇「曽我兄弟狩場の曙」。その一帯は「Mパテー横丁」と呼ばれるほど活気を呈したらしい。

 ここで余談(1)・・・永井荷風の少年期に俳句や小説面で啓発した蘇山人こと羅臥雲は大清公使館の通史官の息子で、清国に帰国するも胸疾で日本で療養。明治35年に亡くなった。荷風は「日和下駄」の最後を眉目秀麗の清客・蘇山人への別れの句で締めくくっている。忘れ得ぬ畏友だった。これまた当時の清国の逸話。 余談(2)・・・昭和53年に一口坂にポニーキャニオンが移転して同社の全盛期を迎えたことがあった。アイドルから人気ロッカー、実力派ミュージシャンが出入りし、周囲に関連会社も出来たりしての活況。あたしも同社に入り浸っての仕事が長く「あぁ、明治の一口坂にも同じような活況があったか」と面白く思った。同社創業者らは映画畑出身者が多かったと聞き及んでもいる。

 話を梅屋庄吉に戻そう。彼はオッペケペー節の川上音二郎の「本郷座・大楠公」の芝居を、本郷座裏の空地で撮って大ヒット。貞奴もこの芝居、映画を観たのだろうか。併せて浅草に映画常設館も続々誕生。ニュース映像を撮ったり、英国から記録映画「旅順開城の実況」を輸入するなどの事業発展で手狭になったこと、自社撮影所を持つために新宿・百人町への移転だった。それまでは市外で撮影したり、戸山ヶ原などで野外撮影していたらしい。

 大久保撮影所の第一号作品は、板垣退助の要請で明治42年に両国・国技館(大鉄傘)で上映の「大西郷一代記」。さらに白瀬中尉の南極探検にカメラマンを帯同させて、明治45年に全国公開。この収益金で探検費、隊員と船員の手当ても賄ったとか。梅屋庄吉はこれら映画ビジネスをはじめの収益を、孫文の辛亥(しんがい)革命の軍費や武器調達に惜しげもなく注いでいた。話が長くなったのでまた明日~。

 追記:国会図書館デジタルコレクションの大正1年「東京市及接続郡部地籍地図・下巻」の「豊多摩郡」の目次より「大久保村百人町」より「大久保村大字大久保百人町字仲通北側西部」に<Mパテ撮影部>有り。


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尾張藩下屋敷「龍門滝」 [大久保・戸山ヶ原伝説]

owarisimoyasiki1_1.jpg 13日に新宿中央図書館で「餌差町」を調べていたら、『尾張徳川家下屋敷跡Ⅱ』」と題された2003年刊の「早稲田大学学生会館建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書」を見つけた。同地より尾張藩下屋敷、俗に「戸山荘」の「龍門滝」遺構が発見されたのだ。

 尾張藩下屋敷跡は現・戸山公園。自宅7Fより東に展望の一帯で、先日の紅色の空写真をアップしたばかり。この写真のこんもりした小山が東京一の標高を誇る玉円峰、通称「箱根山」。この山の左裾奥辺りが現・早大学生会館辺りで、、その工事にあたって「龍門滝」遺構が出てきた。尾張藩下屋敷は興味尽きぬ趣向が凝らされた庭で、その関連書を読み漁っていた時期があり、この「龍門滝」発掘に小躍りした。

 その当時、十数年に亘って名古屋「御園座」に年に一度行く仕事があって、その「龍門滝」遺構がそのまま名古屋「徳川園」に移築再現されると知って、御園座帰りにわざわざ工事現場を見に行ったりした。むろん完成された「龍門滝」も見、写真も撮ったが、フィルムカメラでネガも紙焼きも今は探し出せぬ。そんな経緯があっての遺跡発掘報告書。わくわくしながら読んだ。

 他に借りた本は、かつて吉増剛造さんと下町を歩きながら対談していただいたことがある諏訪優さんの『田端日記』、荷風さんに習って年譜調べをしてみたこともある『大田南畝』(沓掛良彦著)、そして松田道生著『大江戸鳥暦』。

 『大江戸鳥暦』まえがきに・・・江戸時代に今のよう双眼鏡や鳥類図鑑があったわけではないのでとあり、思わず「そりぁ~嘘だろう」。江戸後期は飼鳥が大ブーム。滝沢馬琴が飼鳥(最初はウソを飼った)を始めると、それっとばかりに鳥屋が次々に珍しい鳥を持ち込んであっと言う間に100羽になったとか。馬琴自らも娘婿に絵を描かせて図譜を作るなどで、この頃にすでに鳥の飼育書や図譜が20冊余。(細川博昭『大江戸飼い鳥草紙』参考)。同書は川柳から鳥の小話集だが、まえがきで興醒めはちょっとキツイ。


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