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鶉衣5:剃髪辨‐隠居して坊主に [鶉衣・方丈記他]

barikan1_1.jpg 大田南畝が『鶉衣』に注目したキッカケは「借物辨」で、あたしが最初に興味を持ったのは「剃髪辨」だった。あたしらの世代は概ね長髪。40代の某日、にわかに長髪がうっとうしく思った。当時は佐内坂に若い者の事務所があって、あたしは曙橋に事務所を持ってい、曙橋の床屋で衝動的に丸坊主にしてもらった。床屋を出ると頭皮にすぅすぅと風のそよぐ感あって「こりゃ爽快なり」と撫で回したもの。以来、坊主頭。最初は床屋へ行っていたが、そのうちに自分で電気バリカンで刈るようになった。そんなワケでこの「剃髪辨」には共感するところ大だった。

 剃髪辨(ていはつのべん) すべて天地の間、その理(ことわり、道理、わけ)ありて姿あるべく(それぞれ理由があって、それぞれの姿がある)、すがたありて後、名はあるべし。いでや(さてまぁ)世をのがれて(隠居して)うき世の名をあらためんには、その姿まづあらざらむや。

teihatu1a_1.jpg (百人一首の和泉式部「あらざらむこの世のほかの思ひ出に今ひとたびの逢ふこともがな」あり。「あらざらむ」=「アリ」の未然形「アラ」+打消の「ザラ」+推量「ム」=まづいないだろう。司馬遼太郎は〝改めなければならない〟と現代訳しているが〝その姿はまづないだろう〟と訳すのがいいだろう(素人のあたしが何を言うか)。氏は白髪ふさふさがトレードマークだったゆえ、剃髪の心境はわからなかったかも。

 今やさかやきの世間をやめては(月代=武士の頭上部を剃った部分。武士の世界にいることを辞めては)、神儒(神道者、儒者)の束髪(総髪にして束ねた髪型)にや(疑問・反語)似せん、釈氏(僧侶)の剃髪にやならはんと、模稜の手(「もうようの手=曖昧な態度に)思へるも、かりそめ(その場、間に合わせ)ながら生涯の仕上なれば、一大事の分別にありけり。(続く)


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鶉衣4:大田南畝の序 [鶉衣・方丈記他]

uzurajyo1_1.jpg まずは四方山人(大田南畝)の序を筆写し( )内に自己流解釈。

いしに(以丹し=往にし=去る)安永のはじめ、すみだ川ほとり、長楽精舎(長楽寺とは?)にあそびて、也有翁の「借物の辨」を見侍り(はべ・る=「あり・をり」の謙譲語・丁寧語)しが、あまりに面白ければ、うつしかへり侍りき。(校注に安政元年なら南畝二十四歳、也有七十一歳とあり)

それより山鳥の尾張のくに(山鳥は尾張の枕?)の人にあふごとに、この事うち出てとひ(問い)侍りければ、金森桂五(尾張藩の俳人。狂歌名は傘衛守・からかさのえもり)、うさぎの裘(かはごろも)にハあらぬ『鶉衣』といへるもの二まきをもてきてみせ給へり。

翁なくなりぬときゝて、なを馬相如(裘も馬相如も「漢書」逸話ゆえ無学のあたしは解釈を省略)が書のこせるふみもやあるとゆかしかりしに(ゆかし=好奇心で知りたい・見たい・聞きたい。「シク活用」で「ゆかしかりしに」)、細井春幸・天野布川に託して、その門人紀六林のうつしをける(をいた)全本をおくれり。

まきかへしみ侍るに、からにしきたゝまく(校注:古今集は「唐錦を裁つ」を「唐錦を立たまく」としているが、ここでは「絶た+まく」にしたらしいとある)をして、とみに(急に)梓のたくみ(版木の匠)に命じて、これを世上にはれぎぬ(晴衣=世間に公開)とす。

uzurajyo2_1.jpg翁の文にをけるや、錦をきてうハおそひし(錦を上におそって?)、けたなる袖をまどかにして(角袖を丸袖にして)、よく人の心をうつし、よく方(ほう)の外(常軌の外)に遊べり。

鶉ごろもの百むすび(ボロボロ衣裳)とハ、みづからいへることのはにして、くつねのかわ(狐の皮)のちゞのこがねにあたらざらめや。(当たらざらめや。同じ語用で「思はざらめや」「匂はざらめや」「逢はざらめや」などよく使われる。「~ないわけがなかろう」の意。否定「ず」の未然形「ざる」+推量「む」の已然形「め」+感嘆「や」)

右のたもとのみじかき筆は(「論語」に右の袂は短い方が使い易いとあるそうな)、なへたるもはづかしけれど(萎えたるも恥ずかしいけれど)、たゞにやはと、へにもはれにも(褻にも晴れにも=いいも悪いも、いつでも)かいつけ侍りぬ(書いてしまいました)。四方山人

 なお『鶉衣』が大田南畝・編で蔦屋重三郎より刊行されたのは前編三冊が天明七年で、後編三冊が天明八年。南畝が三十九歳と四十歳の時。(その後、続編三冊、拾遺三冊は石井垂穂による編録で計十二巻十二冊が文政六年に名古屋の永楽屋東四郎から出版) 


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鶉衣3:宗春に仕えた苦労 [鶉衣・方丈記他]

kanseinokaikaku2_1.jpg 横井也有と尾張藩の事情をもう少し知りたい。也有が尾張藩の御用人を務めた父・時衡の家督を継いだのは享保十二年(1728)、二六歳の時だった。その二年後に宗春が尾張藩主になった。宗春の兄・継友が八代将軍継承の闘いに破れたゆえ、宗春と吉宗は因縁の間柄。

 吉宗の倹約施策「享保の改革」に比し、宗春は「温知政要」をもって藩政にあたった。藩主になった翌年。沿道の人々が腰を抜かさんばかりの派手な衣装・行列で名古屋入り。歌舞伎座を京都、江戸、大坂に次いで名古屋にも設け、遊郭もつくった。尾張に商店も人も増えて大繁盛。“尾張芸どころ”の礎となった。

 しかし藩には吉宗(公方)派の附家老がいて、伝統の勤皇系もいる。用人らは右往左往、ハラハラドキドキ。横井也有もキリキリ舞いだったろう。やがて吉宗の怒りが爆発。宗春は火事焼失の江戸上屋敷(市ヶ谷、現防衛省)を新築するも、中屋敷(麹町、現上智大)に隠居謹慎。吉宗没後に宗春は隠居謹慎のまま名古屋・下屋敷へ。この時、宝暦四年(1754)。也有が五三歳で隠居した年になる。

 海音寺潮五郎『吉宗と宗春』(昭和14年刊)は小説ゆえ二人の確執、闘いが吉宗創設の御庭番の暗躍も交えて面白く書かれている。也有は『鶉衣』にこう書いている。~官路の険難をしのぎ尽し、功こそならぬ、名こそとげね、ほまれのなきは恥なきにかへて、今此の老の身しりぞき、浮世の塵を剃りすつべきは、いかでうれしとおぼさざるや。

 『鶉衣』は大田南畝がこれは面白いと蔦重の手を煩わせて刊行させたが、この時の大田南畝の事情にも注目したい。『鶉衣』前編刊の前年、天明六年は徳川家治没で田沼意次が老中を解任。天明七年に吉宗の孫・定信が老中就任。定信は吉宗と同じく厳しい倹約令「寛政の改革」で世を締め付けた。狂歌・戯作者らのパトロンだった勘定組頭・土方宗次郎は死罪。恋川春町を死に追いやり、宿屋飯盛は江戸払い。山東京伝は手鎖五十日の刑で、蔦重は財産半分没収。大田南畝は土方の援助もあったか吉原・遊女を身請けしてい、首がヒヤリとしたに違いない。彼は狂歌、戯作者との交流を絶って学問吟味に挑戦した。

 南畝は下級武士(徒歩組)。横井也有のようは上級武士ではなかったが封建下の宮仕いの悲哀に共感するところ大だったのではないか。大田南畝による也有『鶉衣』出版にはそんな思いも秘められていたと推測するがいかがだろうか。前段はここまで。次は『鶉衣』の四方山人(大田南畝)の序へ。


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鶉衣2:也有翁とは [鶉衣・方丈記他]

yayuou1_1.jpg 『鶉衣』本文に入る前に、横井也有とはどんな人物や。新宿図書館蔵書の「横井也有」を検索してみれば僅か数冊のヒット。しかも単独の書はなく、何人もの評伝のなかの一人。まず寛政十年刊の三熊花顛の文・絵、伴蒿渓の校訂『続近世奇人畸人伝』(五巻五冊)が、中野三敏校注の現代語訳で「中央クラシックス」より出てい、そのなかに「横井也有」の項があった。

 也有(やゆう)。横井氏、俗名孫左衛門、尾張の士也。篤実、謹厚にして文雅を好み、殊に俳諧に長じ世に名有。(芭蕉流を喜びてしかし定れる師なしとぞ) 閑田子、一とせ彼国に遊びて其著述『鶉衣』、『うらの梅』といふ俳諧体の文集をみるに、そのさまいやしからぬのみか、鼓舞自在、比類なく覚ゆ。はた生前をよく知る人にあひて其行状をきくに、文章にかゝれたる趣と言動一致なるに感ず。そして伝え聞く人となりは~として多少の逸話が追記されていた。

 次に磯辺勝著『江戸俳画紀行』(中公新書)の最初の項が「横井也有~楽しき隠居暮らし」。~尾張藩で千数百石どりという、大名に近いような身分の上流武士であったが、五十三歳で家督を譲って隠居。俳諧に遊びつつの悠々自適の日々を過ごし、八十二歳で死んだ人物。勝手にしてくれ、といいたくなるような結構なご身分である。著者は也有の身分を妬たんでいるのか。あたしは貧乏隠居だが、也有翁をそんな風に妬んだ眼でみたことはない。

 次がぺりかん社刊の徳田武著『江戸詩人傳』。漢詩人評伝集。横井也有の項で、彼の漢詩から「荘子」の養生思想が読み取れると指摘。名利を得るより、自己の資質にしたがって、貧しくも精神の自由を得、肉体を安んじさせ、この生を愉しもうとする思想が伺えるとし、『鶉衣』にも荘子の思想の反映がいたる所に見られると分析。また注目すべきは、彼の隠棲を考えると徳川宗春の失脚事件が欠かせぬの指摘があったこと。

 宗春と吉宗については次回に記すが、也有は名古屋尾張藩の用人ゆえ、吉宗に反抗する宗春の無茶振りに藩内右往左往のなかで仕えていたはず。ほとほと宮仕えがいやになったと思われる。なお同書には也有句集『羅葉集』(明和四年)巻頭に収められた「横井也有肖像」が掲載されていたが、ここでは「国文学名家肖像集」の横井也有像を着色模写で遊んだ。


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鶉衣1:『鶉衣』に至る辨 [鶉衣・方丈記他]

iwanamiyuuya_1.jpg 昨年、山東京伝の黄表紙『江戸生艶気蒲焼』、大田南畝の?洒落本『甲驛新話』の筆写・解読+挿絵模写〝遊び〟をした。さて、次は何にトライしようかと思った。某日ふと自身ブログの閲覧を覗けば「也有翁剃髪の弁かく語り」が閲覧されていた。「そうか、横井也有『鶉衣』の筆写・解読〝遊び〟が面白そうだ」と膝を叩いた。

 幸い「早稲田大学古典籍データベース」に横井也有『鶉衣』(坪内逍遥旧蔵)が公開されていた。前篇・後編・続編・拾遺の全四冊で尾陽・東壁堂蔵。巻末に名古屋本町通七丁目、永楽屋東四朗、日本橋出店がクレジット。毛筆に違いはなかろうが、ボールペンのような版木文字。現存する『鶉衣』はほとんどが写本らしいが、これは誰がどんな筆で書き、またどう彫ったかも気になるところ。

 手元に岩波書店刊「日本古典文学大系」の『近世俳句俳文集』(麻生磯次校注の『鶉衣』収録)あり。岩波文庫の堀切実校注『鶉衣』(上下)も販売されていた。司馬遼太郎による『鶉衣』(抄)の現代語訳収録の河出書房新社刊『日本の古典/蕪村・良寛・一茶』が図書館にあり。教材が揃っている。

 かくして昨年の『江戸生艶気蒲焼』『甲驛新話』に次いで、今年は『鶉衣』のくずし字筆写と解読遊びにトライ。全編は無理だろうから前編のみ。いや、隠居遊びだ。お気に入りの項のみトライが気軽でいいだろう。

 だが残念ながら『鶉衣』は文字だけ。ビジュアル遊びをどうするか。まずは岩波文庫『鶉衣』表紙にあった本人直筆の自画像と歌を模写。歌は「世をのがれたる前津の庵に老の春をむかへて門に見る松やむかしの友ふたり」。空間をたっぷりとって小さな文字と自画像。閑寂感が漂う俳画だが、ここは文字も絵も大きくしたアレンジ模写。まずは横井也有『鶉衣』のはじまり・はじま~りの辨。


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