方丈記10:大飢餓。金より粟を [鶉衣・方丈記他]
方丈記9:『平家物語』へ寄り道 [鶉衣・方丈記他]
方丈記8:平清盛、凋落の始まり [鶉衣・方丈記他]
方丈記7:突然の福原遷都 [鶉衣・方丈記他]
方丈記6:京都に辻風襲う [鶉衣・方丈記他]
方丈記5:長明の翻弄された人生 [鶉衣・方丈記他]
方丈記4:京都大火 [鶉衣・方丈記他]
方丈記3:内乱と大災害を経て [鶉衣・方丈記他]
方丈記2:波乱の京に生まれ [鶉衣・方丈記他]
方丈記1:先入観なしが肝心 [鶉衣・方丈記他]
硯の海に遊ぶ [鶉衣・方丈記他]
絵を描き始めて横井也有『鶉衣』の筆写・解釈が中断された。今日は同著「四芸賦」より、絵についての記述に注目。その部分はこう始まっている。
~そも又画ばかり(ほど)位(品格)の品々(さまざま)なるはなし。能画(よい絵)のうへは(ついては)さらにいはず(改めて言うまでもない)。鳥羽絵(漫画)の男は痩せてさびしく、大津絵(旅土産の絵)の若衆は肥えて哀れなり。うき世絵は又平(岩佐又兵衛)に始まり菱川(師宣)に定り、今、西川(祐信)につきたるといふべし。旅籠屋の屏風には、芥子か牡丹か知れぬ花咲きて、人より大きなる鶏の、屋の棟にとまりたるこそ目さむるわざなれ(興ざめのさま)。又は藪寺のふすまには、遠水(遠くの水)に波高く、遠人(遠くにいる人)の目鼻あざやかに、帆かけ舟に乗りて跡へ走る(風の逆に走る)、これらも絵にあらずとはいはざるべし(絵ではないとはいえない)。
デッサンが滅茶苦茶でも、絵は絵に違いないと言っている。真面目あらざる小生は、弊ブログで菱川師宣(もろのぶ)の春本『好色いと柳』と『床の置物』の各「序」を筆写したことがある。大田南畝が横井也有の同著を出版したのは天明7年(1786)。也有翁はその3年前に没ゆえ、彼が語る浮世絵は歌麿、北斎らを知らず。同章の最後を筆写する。
~俳諧師の絵は、上手下手の沙汰なしとて、翁(芭蕉)も跡をのこし給へば、我も我流の筆ぬらしそめて、破れ鍋の画賛をかけば、綴蓋(とぢぶた)の望みてありて、こゝかしこにちりぼふ。あハれ恥しらぬわざながら「はゞからず書きちらすはよし」と、吉田の法師を無理なる荷担人(かたうど)にして、此年此硯の海に遊ぶ事にぞありける。
小生も、哀れ恥知らぬわざながら、はばからず下手な絵をネット上に書き散している。
24:隅田川涼賦‐狂宴後のもの哀しさ [鶉衣・方丈記他]
老人の碁会は仙家(せんか。仙人の棲家)のかげをうつし、役者の声色は芝居もこゝにうかぶかとうたがふ。卵子々々、田楽々々、瓜・西瓜、三味の長糸(切れても使える長い弦)売る声、西南(下流)にかしがましく東北(上流)に漕ぎめぐる。風呂をたく船、酒をうる船、菓子にあらぬ饅頭あり、鼓にあはぬ曲舞(鼓なしで扇子の拍子での曲舞・くせまい)あり。あるはみめぐり(三囲)、深川にうかれ、あるは両国の橋にとゞまる。遊ぶ姿ことごとなれども、たのしむ心ふたつならず。それが中にも、猶浅草の浅からぬちぎりたがへし、待乳山の待やわぶらんと、ふけ行く空に漕ぎわかれて、里にひかるゝ人もあるべし。
「かしがましく=囂し」。うわっ、こんな字なんだ。「囂し=かしかまし、かまびすしい、かしまし」。「姦しい」ではない。漢和辞典で「姦しい=みだら、よこしま」。
「風呂をたく舟」は今も「湯舟」の言葉が残っている。川移動の湯舟人気から銭湯が生まれた。最初の銭湯は、江戸城を造るための資材運搬水路で今もある「一石橋」から「和田倉濠」への掘の「銭瓶橋」際に誕生した。ネットに湯舟図があったので漫画風カットで描いておいた。「待乳山の待やわぶらんと」の「わぶらん=侘ぶらん=侘しく思う」。
さるはいかならむ遊びも、おなじ心におもてをならべて、見もしきかばと、こゝにだに物のかなしく事たらはぬ心地せむも 、はたにくからず、やゝ(あぁ)銀河の水東西にながれ、「あなにくのやもめがらす」、ひま白き松に啼きかはせば、さしも所せき舟も皆いづち行きけん。霧わたるそなたに漕ぎきえて、瓜の皮のみたゞようと暁の名残こそ、見しには引かへてまた哀なれ。
「さるはいかならむ遊びも」は「さるは(然るは=とは云うものの実は)いかならむ(如何ならむ=〝推測するに〟どうであろうか)遊ぶも」になる。「おなじ心におもてをならべて」は「同じ心になってみれば」の解釈でいいだろうか。
次の文も同じように解釈しつつ読む。「見もしきかばと(見るか聞いたならばと)、こゝにだに(だって)物のかなしく事たらはぬ(足らぬ)心地せむ(責む=辛い)も、はた(それでもやはり)にくからず(憎くない」。
これを私流現代文にすれば「~とは云うものの、実は遊びというものを推測するに、あちこちも同じ気持ちになってみれば、見るか聞くかしても、ここにだってもの哀しく満ち足りない辛い気持ちもあって、特別に憎いというほどのことでもない」。
「あなにくのやもめからす=可憎病鴉=遊里で夜明けに別れを告げるカラス」。「ひま白き松に啼きかはせば=松の隙間の(夜明けの)白い空にカラスが啼き交わせば」。「さしも所せき(塞き)舟いづち行くけん=あれほどビッシリだった舟は、皆どこにゆくのだろうか」。(隅田川涼賦・完)
23:隅田川涼賦‐狂はざるはなく [鶉衣・方丈記他]
京に四条の床(川床)を並ぶるより、爰に百艘のふなばた(舟端)をつらねたるは、誠に都鳥の目にも恥ぢざるべし。舟として諷(うた)はざるはなく、人として狂ぜざるなし。高雄丸(納涼船。以下のもみぢにかけて)の屋形の前には花火の光もみぢを散し、吉野家が行灯の影には、蒲焼のけぶり花よりも馥(かうば)し。幕の内の舞子は、鶯声聞くにゆかしく、舳先の生酔(酒に酔った人)は、鵆足(ちどりあし)みるにあぶなし。伽羅薫物(きゃらたきもの=香木+香りを合わせた練り物)のかほり心ときめきて、吸物かよふ振袖は、燭台のすきかげいとわかく、大名の次の間には、袴着たる物真似あり。女中の酒の座には、頭巾かぶりし医者坊あり。かしこにとよむ大笑ひはいかなる興にかあらん。こゝに船頭のいさかふは、何の理屈もなき事なり。
「並ぶるより」の文法解釈に手こずった。助動詞「る」ではなく、「並ぶ」のバ行下二段活用「べ・べ・ぶ・ぶる・ぶれ・べよ」の連用形「ぶる」。「並ぶ(とき)より」だろうか。
「ざる」が繰り返し出てきた。「ざら・ざり・ざる・ざれ」。打消し「ず」の連用形+あり=ずあり」の転用とか。「恥ぢざるべし=恥ではないだろう」。「諷はざるはなく=歌わぬ他はないだろう」。「狂ぜざるなし=狂わずにはいられない」か。
これが「さるべき」だと「然るべき(しかるべき)」で、まったく違ってくる。古語は濁点のあるなしがハッキリしないから「さる・ざる」の区別がややこしい。文脈で判断する他はない。「けぶり」は煙。
文法の勉強と、同文が描く隅田川狂宴で老朽化脳ミソが混乱してきたので、自転車を駆った。行先は山手通り、環七を横断して中村橋の練馬区立美術館。開催されるは明治の浮世絵師?「小林清親展」。「向島桜」と題された絵に、桜の下の露店に「はしけ豆」の看板。艀でもあるかと思ったが「はじけ豆=弾け豆」。これも濁点なし。大川は「橋場渡舟」の絵もあったので、ちょっと真似をしてみた。
22:隅田川涼賦‐也有から漱石 [鶉衣・方丈記他]
(一行目下から)数々の橋こえ過ぎ、両国の河づらにこぎ出づれば、風はかたびら(単衣)の袖さむきまで吹きかへすは、秋もたゞこの水上より立初(そ)めるなるべし。椎の木(両国と厩橋の間の東岸ににあった名木)の蝉日ぐらし(蜩)、けふもくれぬと啼きすさみ、岸の茶屋茶屋火影(ほかげ=灯の光)をあらそふほど、今戸あたりのかけ船(停泊の船)もともづなを解き、糸竹をならして、をのがさまざま(己が様々)にうかべ出ぬ。
よく使われる言葉の復習。「初む=そむ」で「咲き初めし」など。~しはじめる、はじめて~するの意。「べし」の基本義は現状判断から「そういうことになるに違いない」。推量、予定、当然、適当、可能、意志、必要義務など。「すさみ=荒ぶ、進ぶ、遊ぶ」と意の範囲は広いが、ここでは「盛んな勢いで事が起こる」。「ともづな=纜」。船尾からのもやい綱。「糸竹=和楽器の総称」。「糸=琴や三味線などの弦楽器」「竹=笛や笙などの管楽器」。
前回に記した「牛込揚場丁(町)」から舟に乗って浅草へ行くシーンは、夏目漱石『硝子戸の中』に描かれている。これは兄から聞いた姉たちの芝居見物の様子との前書きがあって、~当時(明治初期)は電車も俥もない時分で、姉たちは猿若町(浅草寺の裏側)の芝居小屋に行くのに、家(夏目坂)を朝早く出て筑土を下りて柿の木横丁から(牛込)揚場へ出た。そこの船宿にあつらえておいた屋形船に乗って御茶ノ水~柳橋~大川に出る。流れを遡って吾妻橋、今戸の有明楼に着けて芝居小屋へ行った。贔屓役者の楽屋部屋にも行って、来た路を同じ舟で揚場まで戻ってきた、という一日がかりの芝居見物。侍じゃなかったが名主ゆえの華麗なくらしがあったと書いてあった。
我が家7F部屋の眼下東に広がる戸山公園向こう際に、若松町から早稲田に下る「夏目坂」がある。そこに代々名主の夏目家があって漱石の生家。家運衰退後に生まれた漱石は里子に出されたりして、名主時代の華麗な暮しを知らず、兄から当時の話を聞いている。
一昨日のこと。かかぁと日本橋に買物へ行ったのだが、橋のたもとで日本橋川から佃島辺りまでの周遊クルーズ船に乗った。舟で大川にも出たゆえ也有や漱石の姉たちの気分をちょっと味わったことになる。えらく楽しかったので、機会があれば日本橋川クルーズ、神田川クルーズなどにも乗ってみようと決めた。
21:隅田川涼賦‐牛込から舟に乗って [鶉衣・方丈記他]
隅田川涼賦 水無月(新暦では七月中旬から)のあつさの、けふことにさめがたければ、いざ隅田の川風に扇やすめばやと、牛込といへる所より舟出して「まづ涼しおし出す舟に芦の音」などたはぶれて竿をめぐらすに、舟はもとより一葉のことごとしからず、破子(わりこ)も場どらぬ趣向ながら、けふの乗合に手なみしれるくせものもあればと、樽一ツはいかめしくつきすえたり。
也有は十九歳より延べ九年余が江戸詰めで、その時の隅田川遊び。「牛込といへる」とは、飯田壕から舟が出たのだろう。神田川沿いに隅田川に出る。尾張藩上屋敷は現・市ヶ谷防衛省、中屋敷は現・上智大辺り、下屋敷は現・戸山公園で、どこからでも牛込は便がいい。
ここまで読んだ数日後のこと。「おまいさん、日本橋の〝奈良県アンテナショップ〟で上辻豆腐店の〝大和揚げ〟を買ってきてくれよ」ってんで自転車を駆った。するってぇと神楽坂下と飯田橋駅の間の「牛込揚場跡」碑に気付いた。~江戸時代には海からここまで船が上がってきた。全国各地から運ばれて来た米、味噌、醤油、酒、材木などがこの岸で荷揚げされたので、この辺は〝揚場〟と呼ばれた。第二次大戦後もしばらくつかわれていて~の説明文。その隣に広重『絵本江戸土産』第八編の「牛込揚場」が紹介されていた。なお広重は団扇絵「どんどんの図(牛込揚場丁)」も描いている。これは牛込御門の堰で滝のように〝どんどん〟と水音が聞こえる下で、若旦那と芸者衆が舟に乗り込む図。
「扇」は古語読み「あふぎ」。「扇休め」いい言葉ですねぇ。つづく「ばやと」は「ば・や=自分の動作の実現を希望する。意志を表す。~したいものだ」と。「一葉のことごとしからず=一葉の事事然ず」で「一葉のそれぞれがそうではない」の意か。「破子=破籠(わりご)=内部に仕切りを設けた運搬用弁当箱」。「場どらぬ趣向=かさばらないような工夫」。「つきすえたり=築き据えたり」。
也有が牛込から舟に乗った文を読んだ後で、牛込揚場丁(町)跡の碑を見て、日本橋まで走って奈良県の〝油揚げ〟を購った〝揚げ〟尽くしの余談。夏目漱石の小説にも、牛込から舟に乗って浅草に芝居を観に行くシーンがあるとか。それは次回に記す。
20:武蔵野紀行‐「な~そ」のお勉強 [鶉衣・方丈記他]
今とても猶端々には、其広き野の迹のこれりと聞きて、見にまかりける。案内するをとこの聾なるも、時鳥きくしらべならねばと、其日の興にして、亀ヶ谷・下富などいへる村々を過ぎて、かの野に出でぬ。誠に四方に木竹もなく、草さへも今は霜がれはてゝ、哀に物すごき原のさま也。 武蔵野やいづこを草のかげひなた
武蔵野は雑木林イメージがあるも、草木もない野だったとは驚いた。調べれば「照葉樹林~焼畑農業~草原・原野~田畑・薪にする楢などの雑木林」の変遷があったと知った。安土桃山時代の歌人・一色直朝に「むさしのは木陰も見えず時鳥幾日を草の原に鳴くらん」がある。也有が訪ねた武蔵野はすでに〝今は家つらなり田畠と変じて〟いたのだから、そこに和歌で詠まれた武蔵野イメージを探し求めたのだろう。
そこら見めぐりて「枯野にもすゝきばかりは薄かな」。 くれ行く空をおもひやりて「武蔵野に露ひとつなし冬の月」。 又の日、野火留といふ所を尋ね侍り。こゝは『伊勢物語』に、「けふはなやきそ」とよみし跡なれば、里の名もかくよぶ侍るとか。業平塚とて、さびしきしるし今も残れり。歌のこゝろをしらな、枯草に吸ひがらなすてそ、とたはむれて、「こもるかと問へば枯野のきりぎりす」
「けふはなやきそ」「吸ひがらなすてそ」の「な~そ」は古語の有名な言い回し。「な~そ」は~に連用形の動詞が入って~するな、~してくれるな。禁止の終助詞「そ」が副詞の「な」を呼応する。「なやきそ=焼いてくれるな」「なすてそ=捨ててくれるな」。北原白秋に「春の鳥 な鳴きそ鳴きそ あかあかと 外(と)の面(も)の草に 日の入る夕(べ)」がある。
『伊勢物語』は「なやきそ」の次はこう続いている。「若草のつまもこもれりわれもこもれり」。ここから也有は「こもるかと問へば枯野のきりぎりす」、枯野なのにキリギリスはここに籠るのだろうかと詠っている。
また前回に加舎白雄の「妻も子も榾木に籠る野守かな」を挙げたが、年長(七歳上)の同じく蕉風復活を志した佐久間柳居が、野火止で「吸殻を追ふて踏消す枯野哉」を詠ってい、也有は「枯葉に吸ひがらなすてそとたはむれて」と記している。
調べれば調べるほどに也有俳文の深さが分かってくる。ここにきてやっと岩波文庫の堀切実・校注から離れて、少しづつ自分流解釈が出来始めているか。
19:武蔵野紀行‐今は茶にたく枯尾花 [鶉衣・方丈記他]
庚申のことし霜月のはじめなりけり。江戸を出でて、清戸といふ所に旅よりたびのかりねも十日あまり。母やある子やもてるあるじに咄もやをらなじみそめて、此あたりの事など尋ねきくに、昔はこゝももと月の名におふ武蔵野なりしよし、今は家つらなり田畠と変じて、霜おく草の名にもあらね大根・牛蒡のことにめでたき里なりと語る。 武蔵野は今は茶にたく枯尾花
庚申(かのえさる、こうしん)について。「干支(えと、かんし)=十干と十二支の組み合わせ六十を周期とする数詞。庚申は五十七番目。『鶉衣』は元文五年(1740)の庚申で、近年では1980年、2040年になる。
さて元文五年は吉宗に逆らった藩主・宗春が隠居謹慎させられて、藩主を宗勝が継いだ翌年。也有は諸々の激務から特別休暇でももらったか、のんびりと江戸近郊を十日余りの旅寝。緊急呼び出しがあるやもしれず、清戸(清瀬)辺りで遊んでいたのだろう。
「母やある子やもてるとあるじに咄も=母もいて子も持つだろう主人に咄も」の意だろう。「も」のリフレイン。これは也有より36歳年長で蕉風復興に力を注いだ加舎白雄が野火止で詠んだ「妻も子も榾火(ほたび)籠る野守(のもり)かな」を意識した文と思われる。こんなことは誰も指摘していなくて、小生が野火止の歴史を探っていて気付いたこと。「榾火(ほたび)」。「榍=ほだ=囲炉裏や竈にくべる薪(たきぎ)」。
「やをらなじみそめて=やおら(ゆるやかに)馴染みて」だろう。「ここももと月のなにおふ=此処も元・月の名に負う」。句「武蔵野や今は茶にたく枯尾花」は、武蔵野は今や人家が多く、風情あった彼尾花も茶を炊く材になっているよ。
也有は武蔵野のどの辺を歩いたのだろう。「亀ヶ谷・下富などといへる村々を過ぎて」と後述している。そこは現・埼玉県所沢市に今も地名が残っている。西武池袋線「清瀬」駅の北、関越自動車道の所沢インター近く。「亀ヶ谷」の北に「下富」地区がある。同地域は元禄時代の大老・柳沢吉保が川越藩主だった元禄九年の検知で四十九戸の記憶があるそうで、今は新興住宅地。
小生も6年前の鳥撮りで「柳ケ瀬川」沿いを延々と歩いたことがあって、間近でカワセミを観察し、またセグロセキレイが流水の中に頭を突っ込んで採餌する姿を初めて観たりした。也有も野鳥を観ただろうかと、なんとなくこの辺りの江戸中期の景色が想像できなくもない。
鶉衣18:飛鳥山賦‐酒宴可の花見 [鶉衣・方丈記他]
けふはこの事かの事にさはる(障る)事あり、あすは飛鳥山(あす・飛鳥山の語呂)の花みんみんと(見よう見ようと?)、心に過ぐる(上代語。過ぎる)日数もやゝ弥生(やゝ・弥生の語呂)の廿日あまり(新暦で五月上旬)、尋ねし花は名残なくちりて、染めかはる若葉の其色としもなきも(新緑の季節の感だが)、春を惜しむ遊人は我のみにあらず、爰に酒のみ、かしこ(彼処)にうたひて、此夕暮に帰るさわするゝも、中々心ふかきかた(深いおもむき)におもひなさる。「ちり残る茶屋はまだあり花のもと」
山下千里のまなじりさはる(目に障る)物なくを、らうらうと霞みわたれる田野村落の詠(なが)めえならず、きせるをくゆらすこと暫時あり。「雲雀より田打へ遠し山の上」
「飛鳥山賦」の「賦」は古代中国の韻文の一つ。叙情的要素より羅列的に描写する文体。「えならず=副詞(え)+四段動詞(成る)の未然形+打消しの助動詞(ず)=並大抵ではない、普通ではない」。「雲雀より田打へ遠し山の上」は、山の上では空で鳴くヒバリより田を耕す姿の方が遠くに見えるよの意。
絵は広重「名所江戸百景」の飛鳥山。上野の花見は酒が御法度だったので、庶民は飛鳥山で酒宴したそうな。さて、也有は尾張藩用人の父を継いだ後、二十九歳で江戸勤番。六代藩主・継友没から七代の宗春に仕えた。だが宗春は将軍・吉宗の倹約施策に逆らって、真逆の「温知政要」で華美・享楽を展開。よって元文四年(1739)に吉宗に隠居謹慎させられた。最初は尾張藩中屋敷(現・上智大)に謹慎で、新藩主は宗勝へ。也有がこの文を記したのは寛保元年(1741)、四十歳。波乱万丈の尾張藩の江戸勤番はさぞ大変だったろう。冒頭の〝この事かの事さはる事あり~〟に愚痴を言いたい心情が吐露されている。かくして花見の時期を逸しての飛鳥山。それでも楽しかったと健気なことを記している。
鶉衣17:煙草説‐神龍の働き [鶉衣・方丈記他]
そも(いかにも、本当に)煙草の徳も、むかしより人かぞへ古(ふる)して、今さらいふもくどければ、かの愛蓮(中国栄代の周さんが〝蓮は花の君子〟と言った愛蓮説)にならひて此類の品定せむに、酒は富貴なる者なり、茶は隠逸なる者なり、たばこはさしづめ君子の番にあたりて、用る時は一座に雲を起し、しりぞく時は袖のうちに隠る。こゝに神龍の働きありといふべし(いやはや、えらく煙草を持ち上げたものだ)。
下戸と妖物(ばけもの)は世にすたれて、下戸は猶少からず、今や稀なるたばこぎらひにして、野にも吸ひ山にも吸へば、たばこ入の風流、日々にさかんで、きせるの物ずきとしどし(年々)にあたらしくて、若輩の目を迷はせども、楠が金剛山の壁書をみて思ふに(楠正成が壁に武具の使い方を書いたそうで、それに習って~)、たばこははさがね(乾燥しない)を専とし、きせるはよく通り、灰吹はころばぬを最上とこそ。さらば色みえでうつろふ花の人心にも(移ろいやすい人の心だが)、畢竟(結局)そのものゝ本情・実情をうしなはざれとなり。
あたしの子供時分には「羅宇(らう、らお)屋」が蒸気装置を組み込んだリヤカーを「ピー」という音を発しつつ曳いて来た。祖母は死ぬまで煙管党だった。刻み煙草は「ききょう」。亡くなった後も、家には祖母の煙管があって、いつかそっと自分の抽斗に仕舞い込んだ。はて、何処へ行ってしまったか。「羅宇屋」を知っている最後の世代だろう。
絵は浮世絵に描かれた煙草盆。竹の円筒状が「灰吹(はいふき)」。吸い終わったら灰吹にポンッと叩き捨てるか、プッと吹いて落とす。丸い容器は「火入」だろう。火種が入っている。これらをセットした煙草盆は手提げ型、桶型、箪笥型、さらには蒔絵が施されたものと様々。横井也有はここまで煙草を愛したが82歳の長寿だった。肺がん、禁煙が騒がれたのは平成10年以降じゃないだろうか。
鶉衣16:煙草説‐江戸情緒たっぷり [鶉衣・方丈記他]
やごとなき(やむごとなし=捨ててはおけぬ、別格な)座敷に、綟子張(もぢばり=麻糸をもじって荒く織った布=綟織を張って漆を塗ったもの)の煙草盆をあたま数に引きわたしたるより(人数分の煙草盆を渡されるより)、路次(露地)の待合に吸口包みたるは(煙管の吸口を袖口で包み拭くのは)、にくからぬ風流なれど、さすがに辞儀合(じきあい=挨拶などを交わす)に手間も取るべし、只木がらしの松陰に駕立てて、継ぎせる(繋ぎ合せて用いる携帯用煙管)取りまはせば、茶屋の嬶(かか)のさし心得て、鮑がら(鮑の殻)に藁火もりてさし出したる、一瓠千金(いっこせんきん)のたとへも此時をいふにや。また雲雀など空のどかに、行先の渡場とひながら、畑打(はたうち)のきせるにがん首さしあわせて(煙管の雁首を交わし合って火をもらう)一ぷく吸付けたる心こそ、漂母(へうぼ、ひょうぼ=洗濯する老婆)が飯の情よりうれしさはまさらめ。
煙管の江戸情緒が眼に浮かぶようです。「綟張」「畑打」「辞儀合」「漂母」「鮑殻」などすべて「広辞苑」に載っている。「一瓠千金」はネット検索で「千金一瓠」があった。「瓠=カク、コ、ひさご、ふくべ、ひょうたん。瓢箪で作った容器」。船が沈した時にはコレが千金の値になる意らしい。転じてつまらない物でも役に立つ。文脈から「何でもないことのようだが、素晴らしいことだ」と訳すのがいいか。
絵は煙管(キセル)。左から「火皿」、雁首並べて待っていろの「雁首」「羅宇」「吸口」。徳川宗春は吉宗にさからって、派手な衣装で長さ二間の長煙管をくゆらせたとか。本当かいなぁ。
鶉衣15:煙草説‐琴・詩・酒より優る [鶉衣・方丈記他]
夜道の旅のねぶたき(眠たき)とて、腰に茶瓶も提(さ)られず、秋の寝覚の淋しきとて、棚の餅にも手のとゞかねば、只この煙草の友となるこそ琴・詩・酒に三ツにもまさるべけれ。揬(て扁+突=くど=竈=かまど、へっつい)のもえ杭をさがしたるは、宰予(さいよ=孔子の門人)が昼ねの目ざましにて、行灯に首延したるは小侍従の待宵の小侍従ならむ。達磨は九年の壁にむかひて、炭団の重宝を悟り、西行は柳陰にしばし火打の光を楽しむ。
「論語」引用・もじりが多いので、中国古典選『論語』(上下、吉川幸次郎著)の古本を購った。「宰予が昼寝の目ざましにて」は「公治長五」にあり。「宰予昼寝 子曰 朽木不可雕也 糞土之牆 不可杇也~」。宰予は昼寝ばかりしている。孔子は朽ちた木に彫刻はできぬ、悪い土で壁は塗れぬように、彼を叱ってもしょうがない。まぁ、そんな意のことが書かれているそうな。徂徠は「昼日中から女とねている」と解釈したそうな。昼寝から眼めてへっついの燃えさしで煙草の火をつけた、なぁ~んてことは書かれていなかった。
「待宵の小侍従」は「平家物語」の「蔵人伝」の行灯に首延したる、からとか。背が低い女房(奥向きの女性)ゆえに〝小侍従〟の名がついたそうな。あたしは哀しいかな「論語」も「平家物語」も頭に入っていないから、読みつつニヤリと味わう妙には至らぬ。「達磨」が本当に炭団で煙草の火をつけたかも知らない。いや、これは「だるま葉」が代表的〝葉たばこ〟のことだろう。「西行法師」は旅をしながら酒と煙草をこよなく愛したとは容易に想像できる。次を読む。
されば出女(宿場の客引き女)の長ぎせるは、夕ぐれの柱にもたれて、口紅兀(はが)さじと吸ひたる、少しは心づかひすらんを。船頭の短ぎせるは、舳先に匍匐(はらばひ)で有明の月を詠(なが)めながら、大海へ吸がら投げたるよ、いかに心のはれやかならむ。
あたしはチェーンスモーカーだった。一日に四十本余。だが一度の禁煙でスパッと止められた。コツを教えよう。吸いたいと思うのは「ニコチンスキー」という奴が囁いてくるからで(と擬人化して)、そいつと闘えばいい。負けず嫌いな人は、簡単に〝彼〟との闘いに勝てる。
鶉衣14:断酒辨‐花の留守せん下戸ひとり [鶉衣・方丈記他]
けふより春の蝶の酔心をわすれ、秋のもみぢも茶の下にたきて(白楽天の~林間に酒を煖めて紅葉を焼き~のもじり。酒ではなく茶を紅葉で焚き)、長く下戸の楽しみに老を待つべし。さもあれ(然も有れ=結果はどうあれ)此誓ひ、みたらし川に御禊(みそぎ)もせねば、たとへ八仙の一座なりとて(中国の酒豪八文人の座であっても)、まねかば(招かれれば)柳の青眼に交り(柳は青の縁語。白眼に比した青眼=親しみの目つきで交わい)、吸物さかなは人よりもあらして(諺:下戸の肴荒らし)、おなじ酔郷(酔中の趣)に遊ぶべくじは(「べし」の連用形。~すれば)、いざ松の尾の山がらすも月にはもとのうかれ仲まと思ふべし。(山カラスも月の夜の浮かれた仲間と思うだろう)。花あらば花の留守せん下戸ひとり
同句のような絵が、重長版「絵本江戸土産」に見つけた。これは今も昔も同じ〝場所取り〟の光景かも。さて、小生も若い時分は連日飲み歩いていた。新宿には交際費で落とすツケの店が数軒。そんな某日、事務所から出て、まず自動販売機のビールを煽るとジーンとアルコールが染み渡る〝えらい快感〟。「あぁ、これが酒飲みの身体・心境か」と思ったもの。
かくして酒の失敗数知れず。今は酒が飲めなくなったが、そろそろ花見の季節。今は下戸には有難い「ノンアルコール」もあって、飲んだフリで酒席のバカ話に付き合うも容易になった。
4年前の3月11日です。新宿御苑の寒桜にメジロの戯れる景を愉しんで帰宅後、あの大地震に襲われた。アンティークを収めた食器棚を押さえつつ、自分の部屋の本棚から書籍が次々に落下するのを見ていた。
鶉衣13:断酒辨‐下戸となりて [鶉衣・方丈記他]
小生のこと。何年か前に飲んだ後で気分が悪くなった。しばし酒を控えていたら、飲めなくなっていた。内臓が悪いのかしら。四十年余、酒は欠かさなかったが、なんだ!飲まずにいられるじゃないか。誰もが己の酒歴を振り返りながら也有「断酒辨」を読むのだろう。
もとより季杜(りと=唐の李白と杜甫。共に酒飲みとか)が酒腹(しゅちょう=酒を飲める腸)もなければ、上戸の目には下戸なりといへども、下戸なる人には上戸ともいはれて、酒に剛臆の座をわかてば(ごうおく=剛勇と臆病の座。分けて座らせたことがあった)、おのづからのむ人かたにかずまへられて(数まふ=数えられて)、南郭が竿(う)をふきけるほども(南郭は竿=彼は竿・笙は吹けぬが、三百人の奏者のなかに交って吹く真似を装ったの故事。飲めぬのに飲めるように装って)、思へば四十の年にもちかし。
されば(然れば、そうだから)衆人みな酒臭しと、世に鼻覆ひたる心はしらず。まして五十にして非を知りしかと(中国の故事。五十にして四十九年の非を知り)、かしこきためしにはたぐひも似ず(賢き通例の類に似ず)。
近き比いたましう(痛ましい、ここでは苦しいか)酒のあたりけるまゝに、藻にすむ虫(甲殻類で〝割唐〟なる虫がいるらしい=われから=我から)と思ひたつ事ありて、誠に一月の飲をたてば、身はなら柴(楢柴=楢の枝=馴れにひっかけた)の木下戸(生下戸=全く酒の飲めない人)となりて、花のあした月の夕べ、かくてもあられるものをと(かくしてそうあってみれば)、はじめて夢のさめし心ぞする。(もう少し続くが、次へ)
現代文に訳さずとも、知らぬ言葉調べをし、繰り返し読めば意が伝わってくる。「身はなら柴の木下戸となりて」は拾遺集の「手枕の隙間の風も寒がりき身はならはしの物にそ有ける」からとか。
なお「上戸・下戸」は飛鳥時代後期からの律令制で「大戸・上戸・中戸・下戸」なる身分があって、婚礼の席などでその順で酒の量が決められていたそうな。もっとも飲めぬ身分が下戸だったとか。
鶉衣12:借物の辨‐女房の貸し借り [鶉衣・方丈記他]
なべて世にある人の衣服・調度をはじめて、人なみならねば恥かしとて、そのためにかねをかりて世上の恥はつくらふ(繕う)らめど、人の物をかりてかへさぬを恥と思はざるは、たゞ傾城(遊女)の客にむかひて、飯くふ口もとを恥かしがれど、うそつく口は恥ぢざるにおなじ。
かくいへる我も借らぬにてはなし。かす人だに(だって、でさえ)あらば、誰とてもかり(仮り・借り)のうき世に、金銀・道具はいふに及ばす。かり親・かり養子も勝手次第にて、女房ばかりはかりひきのならぬ世のおきてこそ有がたきためしなれ。かる人の手によごれけり金銀花
★「らめど」は推量「らむ」の已然形「らめ」+ど「が」=~ているだろうが。★いきなり遊女の比喩で驚いた。遊女は飯食う口を恥ずかしがっていても、嘘をつくのは恥ずかしがらないと言っている。吉宗の緊縮政策に逆らって宗春は尾張に遊郭もつくったが、用人だった也有もそれに奔走されたや。
★仮養子で思い付くのは曲亭馬琴。確か嫡男で医者の宗拍が病死し、孫を武士にすべく同心の御家人株を百三十両で買って信濃町に移住。孫が元服するまで遠縁の青年を仮養子にした。解約に際してはそれなりのお金をむしり取られていたような。
★「かりひき」は、校注で稿本(手書き本)に「借り引き」とあり「貸し借りすること」とあった。「女房の貸し借り」なら谷崎潤一郎と佐藤春夫の「細君(千代子夫人)譲渡事件」を思い出す。千代子夫人もしたたかで第三の男がいたそうな。
★「かる人の手によごれけり金銀花」の句は「「借る:刈る」をかけて、刈る(借る)人によって金銀(金銀花)も汚れようの意。金銀花は吸葛(すいかずら)忍冬(にんどう)の花。季は夏。蔦状の半常緑で他の木に絡みつき。初夏に白、後に淡黄色に変わる唇形の花を咲かせる。小さな、こんな花らしい。機会があれば見て撮ってみたい。
鶉衣11:借物の辨‐貧楽を忘れて [鶉衣・方丈記他]
そも(さて)顔子(がんし、孔子の高弟)は陋巷(ろうこう)にありて、いかきのめし(竹の笊の飯?)瓢箪酒に、貧の楽をあらためず(改めず)とや(詠嘆の=ということだ、~とさ)。さるを今(時は移って今)世の人々借金の山なして「是を苦にすれば限なし、百までいきぬ身を持ちて、さのみは(然のみ=それほど、たいして)心をかなしめむや。一寸さきはやみの世ぞ」と、放言に腹うちたゝきて(打ち叩きて)、「我は貧に安んじたり」など、おなじ貧楽の引ごと(引用)にいふは、やるせなき心のはらへ(祓へ)まらめど(なろうが、なっていようか)、まことは雲水(雲泥)の間違なり。
★「貧の楽=貧楽」は「論語」より。貧乏であるためにかえって気楽であること。いい言葉だなぁ。小生も遊ぶお金がない。借金をしてまで遊びたくもなく、机に向かって(お金を遣わず)『鶉衣』読みを愉しんでいます。「論語」は古代中国が生んだ書だが、その現・中国は賄賂塗れの世になっているとか。
★日本では国の借金が千兆円を超え、プライマリー・バランス健全化のメドもなく、原発事故から4年になるというのに仮設・避難生活も続き、貧困母子家庭も待機児童も多いというのに、総理はあちこちの国に行っては得意気に「ン十億円援助」の声明を発し続けている。日本・日本人がテロの標的にされたのもそのせいらしい。本当に困った人です。どなたか彼に「貧楽」を教えてやって下さいよ。(参考:現在の日本の政府債務残高は千三十五兆円。国内総生産比205%。戦時期に並ぶ。福島県から全国に避難している方は約12万人。仮設やみなし仮設生活者は約4万戸。「東京新聞」より)
鶉衣10:借物の辨‐僧の金貸し [鶉衣・方丈記他]
むかし男ありて、身代(家計)もならの(奈良の=ならず)京春日の里にかす人ありて、かりにいに(借りに往に)けるより(昔、男がいて家計成らず、奈良の春日の里に金を貸す人〝春日〟がいて借りに行った)
やごとなき(やんごとなしの略、やむごとなし=捨ててはおけぬ事情で)雲の上人も(高貴な方も)かりにだに(借りたって)やは(いやそうではなく)君は来ざらんと露ふか草のふか入し給へば(深入りしてしまえば)、鬼のやうなるものゝふも、露月比より(十一月頃より)は地蔵顔(ニコニコ顔)して、人にたのむもかりがねは、尾羽うちからして、春来てもこし地へかへらず。(貧相な姿となり、春が来ても雁のように来る前の地に戻って行かない。返済しないだろう)
かりの宿りに心とむ(とむ=求め)なと、人をだに(強調)いさむる(諌む=いましめる)出家達も、借らでは現世の立がたき(難き)にや(疑問・反語の意を表す)
二季(盆暮れ)の台所には掛乞の衆生(かけごひのしゅじょう=売掛代金をとりたてる音)来りて、色衣(しきえ=僧)の長老これが為におがみ給へば、又ある寺には有徳の知識(金持ちの知僧)ありて、これはこちから借しつけて(金貸しをして)、きり(返済日)の算用滞れば、貧なる檀方(檀家)を呵責し給ふ。かれもこれも共に仏の御心にはたがふ(背く)らむとぞ(~と言われている)覚ゆる(思われる)。長いのでここで切って次回へ続く。
「かりの宿り」を司馬遼太郎は〝仮りの宿〟としているが間違い。「かり=貸す、借す」+「宿り=すまい、家」=「金貸しの家」が正しい。「伊勢物語」のもじりなどあって無教養の小生は「古語辞典」首っ引きでも難しかった。
鶉衣9:借物の辨‐玉ともちるなり [鶉衣・方丈記他]
大田南畝が『鶉衣』に関心を寄せるきっかけとなった「借物の辨」を読む。 久かたの(月の枕詞)月だに(でさえ)日の光をかりて照れば、露また月の光をかりて、つらぬきとめぬ玉ともちるなり。
”つらぬきとめぬ玉ぞちりける〟は百人一首の文家朝康の下の句。貫き通して止めぬ玉が、真珠か数珠かのように散る。ここまでの意は、月でさえ日の光を借りて照る。露も月の光を借りて輝いて玉と散る。
むかし何某のみことの、このかみのつりばりをかり給ひしより(山彦が海彦に釣り針をお借りしたが)、まして人代に及んで(人の世になって)、一切の道具を借るに、借すものもたがひなれど、砥(といし)の挽臼のといへるたぐひは(云える類は)、借すたびに背ひきく(低く)、鰹ぶしはかりられて、痩せてもどるこそあはれなれ(心が痛む)。
(だが)金銀ばかりは得(利子)つきて戻れば、もと(元=はじまり、おこり)かる(借る=借りる)事のかたきにはあらぬを(敵ではないのに)、かへす事のかたきより、今は借る事だに(でさえ)たやすからず。(続きは次回へ)
大田南畝は、この也有『鶉衣』を世に出した前年に吉原・松原家の新造・三保崎を身請けして妻妾同居した。下級武士・御徒歩組の身で吉原の遊女を身請けできる金があるわけもなく、誰かがお金の援助をしたらしい。それは当時の文人らのパトロンで勘定組頭・土方宗次郎だろうと揶揄されている。その土方は田沼意次に代わって老中になった松平定信の最初の粛清で横領罪で斬首される。天明9年=寛政元年で。定信の「寛政の改革」はここから始まっている。
大田南畝は松平定信が老中になると、身の危険を察知して狂歌仲間と絶縁。学問吟味に挑戦する。そんなこともあって南畝には「借物の辨」に痛感するところ大だったと推測される。
古くは「貸す」を「借す」とも表記された。写真は「月の光を借りて貫き止めぬ玉」の図。
鶉衣8:六十齢説‐夫だけのはぢ紅葉 [鶉衣・方丈記他]
五年前のブログに「ブログ記し六十半ばのはぢ紅葉」なる題をアップし、これは也有翁の「六十てふ身や夫たけのはち紅葉」の戯れ句と記していた。当時は「くずし字」が読めず、現代訳文を読んでいた。改めて「六十齢説(むそぢのよはひのせつ)」の原本筆写・釈文です。
上壽(じょうじゅ)ハ(は)百歳、中壽ハ八十、下壽ハ六十とかや。蒲柳多病の身の、いかで(如何で=どうして)六十の齢に至り、かの壽の数にハつらなりけん。けふハ長月の四日(元禄十五年九月四日生まれ)、我生れたる日なりけり。世の人の賀(年寿、賀の祝い)とてもてさハくハ(もて騒ぐは)此日なり。
妹あり妻あり男女の子と(ど)もあり。かれらは心にハうれしとも、めてたしとも(嬉しとも目出度しとも)思はゞ思ひもすらめ、只犬馬の年老たるにこそあれ。もしハ(若しは=もしくは、あるいは、または)かなたこなた(彼方此方)に詩を乞ひ和歌もとめなと(求めなど)して、世にしられ顔なる、我に於てハいと耻かし。
必(ず)音なせそとかねていましめて(予て戒めて)さる事せず。げにや(実にや、本当にまぁ)古人の耻多しといひけん、我は愚に知らずとも、人はかぞへても笑うらんを。六十てふ(といふ)身や夫(それ)たけのはち(ぢ)紅葉
この時代の文書は濁点がないので、ここは濁点かなと推測すると容易に読める。「は=ハ」も多い。「耻」は「恥」の俗字。「すらめ」は「す」+「らむ」已然形=~するだろうか。「只犬馬の年」は諺「犬馬の齢(けんばのよわい)=たいしたこともせず、ただむだに年をとること。
「音なせそ」は手こずった。「平家物語」に「かかる折節に音なせそ」あり。解釈文に「この時期に騒ぐべきでない」とあり。与謝野蕪村句に「音なせそ叩くは僧よ鰒(ふくと)じる」。古語辞典(旺文社)に「はせそ」はない。ネット検索「学研全訳古語辞典」で「なーせーそ」。連語。副詞「な」+サ変助詞「す」の未然形+終助詞「そ」=するな。難しく考えなくも「な」は禁止。~するな。「音なせそ」=物音をたてるのを禁止、静かにしていろの意か。ややこしいゆえ、ここは丸暗記がよろしいようで。
鶉衣7:剃髪辨‐潔く [鶉衣・方丈記他]
「剃髪辨」の最後を読む。~されば遍昭(僧正で平安歌人)がよみけん(「けむ」を「けん」と発音して。~たという)たらちね(父母、ここでは母)も、今は世におはさねども(御座す=おはす=いらっしゃる+ねども=いないけれども)、官路の険難(役人生活の厳しさ)をしのぎ尽し、功こそならね(ね=打消し「ず」の已然形)、名こそとげね、ほまれなきは恥なきにかへて、今此老の身しりぞき、浮世の塵を剃りすつ(捨つ、棄つ)べきは、いかで(如何で、どうして)うれしとおぼさざらんや(覚えないことじゃない)。かゝれとてこそ撫で給ひけめと、こゝにうたがふ心もなし。
以下、理屈っぽいので中略する。~わが頭、道にいらねば入道ともいひがたく、人に教へねば法師にもあらず、禅門でもなし坊主にてもなし、(略)我を坊主とも法師ともよばゝよぶ人に随(したがふ)べし。剃りてこそ月にまことの影法師
「官路の険難を~」の文には、吉宗に反抗した宗春の施策に右往左往しただろう用人の一時も休まらぬ苦労の日々がしのばれる。あたしはここを「フリー人生の険難を~」として自身を慰めている。「剃髪辨」を読む人は、誰もが「官路」を自分の人生に書き換えて読んでみるかも。人それぞれに生きる道は難しい。
「剃髪」は俗世との潔い一線のようでもある。墓前にお坊さんを呼ぶ。坊主頭のあたしがいて、薄毛を隠したような髪型のお坊さんが読経し説教をする。参列者は両者の頭を見比べつつ、どちらが未練がましく生きているかと苦笑抑える光景が展開したりする。
いい歳の歌手が若き時分に歌った〝恋愛ソング〟を老体を晒しつつ唄っている。その見事な黒髪は白髪を染めたもので、恰好いい髪型のカツラを外せばハゲがある。観ちゃ~いられない。「ちあきなおみ」の辞め方の潔さを想う。
昔の子供は坊主頭が多かった。父がバリカンで刈ってくれた。その都度あたしは泣いた。バリカンの歯が毛を噛み(挟み)込む痛さ。あたしが泣けば、父も苛立った。今想えば、あのバリカンは父が軍隊時代に使っていたもので、切れ味が鈍くなっていたのだろう。父はまた皮ベルト状でカミソリをシャッシャァと研いで、顔をあたってくれた。恐怖感を覚えるほどの切れ味。あたしは大人になっても、あのカミソリは使えない。さまざまに想いが膨らんでくる「剃髪辨」です。
鶉衣6:剃髪辨‐夏を旨とすべし [鶉衣・方丈記他]
2月9日夕刊に栄久庵憲司さん(85歳)の訃報。工業デザイナーの草分けで巨匠、「GKデザイングループ」代表。白く長いお髭がトレードマークだった。あたしは未だ長髪の頃で、仕事にやや倦んで「つり掘・喜楽沼」(西武新宿線・上井草駅?近くの旧早稲田通り沿いで、90年代に埋立られたらしい)へ遊びに行った。ヘラ鮒の底釣り。子供時分の釣りを思い出して竿を握ってみた。そこに「喜楽会」なる倶楽部があり。会長が栄久庵さんだった。釣りが終われば近所の喫茶店で「釣り談義」。メンバーは六、七人で話は釣り以外によく飛んだが、その中心に白く長いお髭を撫でつつの栄久庵さんの笑顔があった。氏の実家はお寺さんだった。楽しい思い出をたくさんいただいた。合掌。栄久庵さんを思い出しながら『鶉衣』の「剃髪辨」の続きへ。
さるも(然るも=そういうも)心にまなぶ事なく、かの三教(仏教、儒教、神教)のよしあしもわかたねば(分かた・ねば=判断できなければ)、只あけくれ(明け暮れ=朝夕=毎日)の自由を思ふに、かれは(総髪は)夏あつく、これは(坊主頭)は冬寒し。
げに(実に)揚洲の鶴(中国故事で、一人で良い事を独占したいと願う心)は、あたまにだに(だに=推量で~でさえ、=でだった)なかりけり(頭のことだって何とかならん)。これを吉田の法師(吉田兼好)にとへば、冬はいかなる所にもすまる、あつき比わるき住居はたへがたしとぞ。(『徒然草』:家の作りやうは、冬はいかなる所にも住まる。暑き比わろき住居は耐えがたき事なり、夏をむねとすべし、がある) 是こそ此為の師なりけれ。
誠に頭巾といふものあらざらむや(「あら」+「ざらむ=ないだろう」+反語の「や」=あるだろうか、あるではないか。冬には頭が寒くても頭巾があるではないか)。(剃髪すれば)手水・行水にさはる(触る)ものなく、襟に垢しみず、枕に油つかざらむは、心も共に清かるべし(「清く+ある」の短縮形「清かる+べし=清いに違いないだろう)。夏をむねとこそと思ひ定めて、つゐに剃るにはきはまりぬ。(続く)