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仙寿院墓地下にトンネル(4) [千駄ヶ谷物語]

senjyuinboti_1.jpg 「江戸名所図会」と「絵本江戸土産」両方に「仙寿院」が描かれていた。江戸時代に遡る前に、現「仙寿院」を見てみる。

 建築中の国立競技場の南角前、ビクタースタジオのある交差点から西を見れば眼前に「千駄ヶ谷トンネル」あり。

 その上を通っている道路は? だがトンネル上は仙寿院の墓地と知って仰天した。これは東京オリンピックの際に、代々木選手村から国立競技場への道を造るべく、強引に墓地下にトンネルを掘って「オリンピック道路」にしたらしい。

 ネット上では有名な〝心霊スポット〟。「埋葬された霊の皆さんが行政の暴挙に怒って化けて出る」と記されていた。ならば明治通り側からトンネル(写真上)をくぐってスタジオ入りして制作されたビクター音源は、霊の洗礼を受けて完成ってことになる。

senjyuinn_1.jpg サザンオールスターズの14枚目の30曲入り2枚目アルバム『キラーストリート』に表題インスト曲あり。この「キラーストリート」は仙寿院の墓地ではなく、青山墓地横を走る道ゆえの〝キラー〟らしい。

 仙寿院へは、同交差点角から入れる。寺院に迫るほどビッシリと詰め込まれたお墓。えらく窮屈な佇まいです。「法雲山仙寿院沿革」説明看板の創設由来は「江戸名所図会」に依るとして、それ以後の沿革説明文を読んでみる。

 「江戸期において隆盛を誇った当山も明治維新の変革(廃仏毀釈?)によって衰微し、明治十八年には火災によって全山焼失。その後、里見日玞(体尊院日玞上人)により復興されるも、昭和十八年戦災で再び全山焼失した。更に昭和三十九年、東京オリンピックの道路工事などによって寺観は一変したが、昭和四十年には本堂、書院を再興。昭和五十九年には書院、客殿を増改築し、昔日には遠く及ばずながら復興し現在に至っている」

 かくして「江戸名所図会」や「絵本江戸土産」に描かれた長閑で広い寺院情景とは雲泥の趣になった。しかもお墓の下に道路トンネルとは魂消た。東京オリンピックでは日本橋(川)の上に首都高速を走らせるなど、行政の無茶振りに呆れたが、ここにもそんな無茶があったかと改めてそう思った。

 では次に、懐かく良き江戸時代の「仙寿院」へ思いを馳せるべく「江戸名所図会」と「絵本江戸土産」の世界へ。

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明治改造に取り残されて(3) [千駄ヶ谷物語]

sendagayatizu2_1.jpg 千駄ヶ谷「鳩森八幡神社」一帯についての多少を知ると、概ね次のように時代大別が出来そう。

 ①江戸時代の長閑な暮らしと風景。②明治政府による御所・神社・公園などの大改造。③朝鮮戦争~東京オリンピックまで千駄ヶ谷駅周辺にあった〝連れ込み旅館〟全盛時代。④現在の新国立競技場・アパレル系商店・寺院混在状況。

 なんとも複雑な経緯を有した一帯です。まずは②明治政府による御所・神社・公園などの大改造について。同地域を囲んで北から東へ広大な「新宿御苑」~「神宮外苑一帯」~「赤坂御用地」が連なっている。反対側の西側が「明治神宮・代々木公園」。それぞれの設立経緯を簡単にまとめてみる。

 「新宿御苑」は徳川家康が江戸入りして家臣・内藤家に与えた広大地のなかの下屋敷。明治になって牧畜園芸改良の試験場になり、明治12年(1879)に皇室献納で「新宿植物苑」。皇室のゴルフコースも出来ていた。昭和24年(1949)に国民公園になって一般開放。当時、幼児の吾輩はオタマジャクシ採りに夢中になって池にドボンと落ちた。泣きながら大木戸門前の親戚の家へ走った。

 「明治神宮外苑一帯」。江戸時代は各藩下屋敷や御鉄砲場などで、明治19年(1886)に陸軍用地になって練兵場、陸軍大学などが移転して来た。当時の地図を見ると、千駄ヶ谷駅~信濃町駅を北端に、青山通りまでが広大な青山練兵場。その陸軍が代々木に移転(代々木公園、代々木体育館、渋谷公会堂、NHKなど)後の昭和1年に(1929)に明治絵画館、銀杏並木、記念記念館、運動場、野球場、競技場が造営された。

 その南側が「青山霊園」。明治5年(1872)に美濃郡上藩主・青山家の下屋敷跡に開設。ここの外人墓地調べで幾度も通ったことがある。

 「神宮外苑」のさらに東側が広大な「赤坂御用地」。元紀州徳川家の上屋敷で、明治維新に接収され皇室に献上。御所、各宮邸、赤坂御苑、迎賓館など。

 「明治神宮」は肥後藩主・加藤家別邸や彦根藩・井伊家の下屋敷。明治7年(1874)に明治政府買上げで「南豊島御料地」へ。明治45年(1912)の明治天皇崩御で、大正9年(1920)より造営開始で明治神宮へ。

 これらによって、延々と続いてきた江戸時代の環境・景観が一変した。それら施策に囲まれるようにポツンと取り残されて、江戸時代の面影を残したのが「鳩森八幡神社一帯」と云えそう。

 こう理解すれば、次に明治以前(江戸時代)の同地域がどうだったかが知りたくなってくる。そこで「江戸名所図会」をひも解けば「千駄ヶ谷八幡宮・千駄ヶ谷観音堂・仙寿院・竜岩寺」が描かれていた。次に「絵本江戸土産」を見れば「青山新日暮里・仙寿院・竜岩寺」などが描き残されていた。次回はこれら図会から千駄ヶ谷の江戸散歩です。

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国立競技場から富士塚へ(2) [千駄ヶ谷物語]

hatomoritop_1.jpg 過日、足裏の痺れや腰の調子の塩梅が良く、久々に1万余歩のウォーキングで国立競技場まで歩いた。そして再び国立競技場へ。今回は新宿御苑沿いのコース。御苑が終わった目の先が「東京体育館・国立競技場の建築現場、神宮外苑」だった。

 競技場を一周後に、東京体育館から「鳩森八幡神社」へ向かった。寛政3年(1789)造築の都指定有形民俗文化財〝富士塚〟に登った。眼下左に今話題の将棋会館。同神社周辺にミニ商店街あり。昔の門前の名残りか。他に観音寺、瑞圓寺、千寿院。思いがけず毛深く濃密な感じで〝奇妙な不思議感〟を覚えた。

 この妙な感覚は何だろうか。帰宅後に地図を見れば「鳩森八幡神社」辺りは、大公園「新宿御苑~神宮外苑一帯」から広大な「赤坂御用地」へ続き、反対側に「明治神宮・代々木公園」。その狭間地と理解した。

IMG_6457_1.JPG 明治政府によって大変貌を遂げた広大な御所・公園・神社地域に囲まれて、ここだけにポツンと残った江戸の名残り。〝妙な感覚〟の所以はそこらしい。(追記:後日、千駄ヶ谷駅両側に都内有数の〝連れ込み旅館〟があったと知った。〝毛深く濃密な感じ〟はソレも影響していたか)

 ウォーキングや自転車散歩で都内彷徨の小生だが、何故か今までに「鳩森八幡神社」周辺を訪ねたことがなかった。その理由も探らなければいけない。(追記:都内有数の〝連れ込み宿街〟と知って、そう云えば十代の頃に、そう知って、踏み込んではならない怪しい地域と認識していたような記憶が甦ってきた)

 道路からみれば「明治通り」と「外苑西通り」に挟まれた〝素通り地域〟。我家からJR利用ならば「新大久保~新宿~千駄ヶ谷」。地下鉄ならば大江戸線「東新宿~都庁前に戻って~国立競技場」。一帯の散歩中に急きょ帰宅となればJR「信濃町~新宿~歩いて新宿三丁目~東新宿」。

 歩けば近いのに、かく不便な地で馴染もなかった。改めて他ルートを探せば「東新宿・副都心線」で2駅先が「北参道駅」。これは便利そうだが同駅開通は平成20年(2008)で馴染が薄い。利用するとしても明治神宮、原宿手前、代々木への下車駅で、同駅から「鳩森八幡神社」一帯へ行こうと考えたこともなかった。やはり特別の縁や事がなければ、足が向かぬ地域だったのだろう。

 同地は、あの万年ノーベル文学賞候補の村上春樹が、国分寺からジャズバー「ピーター・キャット」を移転した地らしい。「村上春樹好き」は多いが、小生はその名を口にするのが、何故かなんとなく気恥ずかしい。

 かくして「近くて遠き地域=千駄ヶ谷一帯」に偶然のように迷い込んで、遅まきながら同地に興味を抱いた。散歩の達人・永井荷風もこの地域には踏み込んでいない。野田宇太郎『改稿東京文学散歩』も触れていない。川本三郎はこの地域に言及しているや。いやきっと昭和30~40年(オリンピック前まで)頃の〝連れ込み宿街〟全盛期の通俗小説の舞台にはなっていたような気もするが~。

 まぁ、周辺を歩けば国立競技場の建築過程も見物出来るし、しばしウォーキング定番ルートになりそうです。写真は富士塚看板と、富士塚頂上から社を撮ったもの。

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国立競技場へ往復1万余歩(1) [千駄ヶ谷物語]

kyougijyo1_1.jpg 4年前の秋のこと。横浜で「五姓田義松展」を観た後に煉瓦街へ向えば、足裏に酷い痺れ。慌てて大病院へ行った。MRI検査で「脊椎狭窄症」と診断された。

 若い時分は山登り。ウォーキングにも凝って、さながら韋駄天のように都内疾駆。歩き過ぎて踵を痛めた。それでも今度は鳥撮りで野を歩き回った。「もう歩けないのか」と愕然とした。

 脊椎狭窄症は、薬治療のみでらちが明かない。自己流ストレッチや腰痛体操。少しづつウォーキング。やがて5千歩、小1時間ほど歩けるようになった。

 そんな矢先の昨年の大島暮しで「草アレルギー」。脛が酷くかぶれた。これは病院の薬一発で治ったが、汗をかくと顔や頭が痒くなった。これもアレルギーらしい。酷暑と汗を嫌って、夏の間はずっと冷房装置の部屋に閉じ籠った。歳を取るとワケ分からぬ病気が襲う。

 涼しい季節になって、ウォーキングを再開。身体がすっかり衰えて、歩くのがえらく辛い。「歳をとると、こうして歩けなくなって行くんだ」と思った。まだ頑張れる歳だろう。歯を食いしばって自宅~新宿伊勢丹の往復、小1時間のウォーキングを再開。少しづつ背中の筋肉の辛さが薄らいでいった。

 先日、伊勢丹を越えて歩き続けた。原宿手前を左折。国立能楽堂脇を経て東京体育館のドーム横へ。あれまぁ、眼前に国立競技場の骨格が聳えていたじゃないか(写真)。かく帰宅すれば1万数千歩。ここまで歩ければ「脊椎狭窄症」とは言えまいぞ。家に籠って衰えきっていた筋力も、どうにか復活と認識した。

 話は変わるが、国立競技場の現場を観ていて、この現場の過労死の青年がいたことを思い出した。きっと五輪開幕時の華やかな最中にも、青年の死を思い出すだろう。NHKや電通でも青年が過労死。中小企業には、そうした事例がさらに多いような気もする。

 人の営みの裏にはビッシリと罪が張り付いている。日本の歴史然り、日本の風景の至る所で、そんな罪が満ちている。なんだか千駄ヶ谷には〝いろんなこと〟が詰まっているような気がするので「千駄ヶ谷物語」に取り組んでみる。

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