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赤坂真理『東京プリズン』(34) [千駄ヶ谷物語]

akamari1_1.jpg 保科順子著『花葵~徳川邸おもいで話』に、GHQ接収で「マッジ・ホール」と名を変えた徳川邸を訪ねる記述があった。そこの将校らが何をしていたかは書かれていないも、将校クラブと聞けば〝松本清張的勘〟でクンクンと探りたくなる。クン!と反応したのが赤坂真理の小説『東京プリズン』(2012年刊、毎日出版文化賞、司馬遼太郎賞、紫式部文学書)だった。

 『東京プリズン』は、16歳少女が米国ハイスクール留学の進級に「東京裁判」見立てで「昭和天皇は戦争犯罪人である」を肯定するディベートに立つことになり、それを自身の母子の女系物語に絡めた内容。同小説を書くに至った理由を「そもそも私の家には、何か隠された秘密があった」で、母には英文科時代に津田塾を出た人から東京裁判資料の下訳を誘われて千駄ヶ谷の「マッジ・ホール」に出入りしていたキャリアが明らかになる。

 ネット掲載の著者インタビューで「それは事実で、父もGHQ通訳していた」と語っていた。著者は小説のなかで千駄ヶ谷をこう記す。「マッジ・ホールはGHQ接収前は徳川宗家になった徳川家達邸で、大河ドラマの天璋院篤姫が晩年を過ごした場所。つまりは、私たちは何代か遡ればすぐ江戸時代に到達してしまうのに、江戸時代をまったく断絶した共感不能なものとして感じている。マッジ・ホールは江戸と明治の断絶の象徴のようにそこにあったのだが、そこを通った昭和の人間は、すでにそれに思いを馳せることはできなかった。私たちは明治維新と第二次世界大戦後という大断絶を二度経験していて、それ以前と以後をつなぐことがむずかしくなっている」

akasakasinsyo_1.jpg そう、千駄ヶ谷の最も大きな魅力は、それら時代断絶の溝が幾つも秘められているところだろう。江戸時代の長閑な郊外情景と明治維新・大日本帝国の溝。寺社だけでも神仏習合、別当寺、神仏分離、廃仏稀釈などの溝。明治天皇を祀った明治神宮内苑と外苑の狭間の千駄ヶ谷。学徒出陣の舞台「明治神宮外苑競技場」と戦後の2度のオリンピック。軍部愚挙に耐え忍んだ日々とGHQ接収によるアメリカ文化の影響。戦前の高級住宅地と戦後の連れ込み旅館街のギャップ。そうした時代の断絶、溝の宝庫が千駄ヶ谷なんですね。

 そんな千駄ヶ谷に触れると、日本とは?を改めて考えたくなって来る。著者も同小説刊の2年後に、日本の諸状況に次々とクエスチョンを投げかけて日本再構築を試みる『愛と暴力の戦後とその後』(講談社現代新書)を著わしている。著者がそこから何を掴んだかは定かじゃないが、著者の今後の問題だろう。

 小生は、そうした断絶と激変の度に、日本人は何かを得て、大事な何かを失って来たような気がしないでもなく「千駄ヶ谷散歩」はウォーキングの域を超えて頭クラクラになる。軽い気持ちで始めた「千駄ヶ谷物語」。鴨長明『方丈記』全文くずし字筆写と同時進行だったが、『方丈記』が終わっても『千駄ヶ谷物語』は終わる気配が未だなし。困惑しつつの続行です。

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戦前・終戦時の記録・思い出(33) [千駄ヶ谷物語]

sibuyatosyo_1.jpg 読みたい本があって、渋谷区中央図書館へ行った。同地は元池田侯爵邸跡。池田侯爵を調べれば、鳥取藩主14代の池田仲博。なんと!徳川慶喜の5男じゃないですか。池田侯爵の嗣子没で、彼は同家次女・亨子に婿養子。池田侯爵家を相続・襲爵。かつて「徳川慶喜は自転車好きだった」で登場の、父と共にポタリングの〝彼〟だった。

 同邸の庭設計は著名な長岡安平で、鴨池のある典型的な貴族庭園だったらしい。池田家が同邸処分後の昭和12年に「海軍館」(海軍資料展示。現在は原宿警察署)が、昭和15年に「東郷神社」(日清・日露戦争の英雄・東郷平八郎を祀る)が建った。図書館はその一画に在り。

 お目当ての書を借りて閲覧予定だったが「貸出致しましょうか」に誘われ、渋谷区立図書館利用者カードを作ってしまった。ならばと地域資料コーナーで以下3冊を借りた。各書の概要を記す。

 『千駄ヶ谷昔話』(渋谷区教育委員会)は大正末期~昭和初期の千駄ヶ谷1、2、3丁目通り、千駄ヶ谷大通り、観音坂通り、北参道、鳩森小学校界隈、代々木駅前など全15地区の当時の詳細地図(店舗名入り)と説明で構成。

 雨宮央樹著『原宿わんぱく物語』:空襲で焼け野原になった原宿・神宮小学校(表参道の青山同潤会アパート裏)の青空教室で授業再開の少年が主人公の小説7話。米兵が子供らの頭からDDTを吹き掛けるのに抗議した新任女性教師。それに応えて石鹸をくれた日系二世兵との交流。彼は肺炎で入院中の級友母の為にペニシリンも調達。

 秘密トンネルから明治神宮へ忍び込んで池の鯉を捕った話。隠田川の清流、代々木練兵場から巻き上がる赤土を含んだ「練兵場颪(おろし)」。GHQ指令で各学校設置の奉安殿(御真影と教育勅語を納めた)の取り壊し作業。ラジオにかじり付いて聴いた放送劇「鐘の鳴る丘」や全米水上選手権の古橋選手らの活躍実況。爆弾でさらに深くなった東郷神社の爆弾池に潜り赤フンが絡まっての瀕死体験。絵画館前池での水遊び、同潤会アパート在住だった大投手スタルヒン家の少年との交流~。

 家城定子著『原宿の思い出』:海軍館の明治通り反対側の「吉川酒屋(空樽問屋)」で少女時代を過ごした方の思い出。隣が團琢磨家。当主は岩倉具視の遣米欧使節団で米国で鉱山学を学んで三井財閥総帥へ。昭和7年に血盟団員に暗殺された音楽家・團伊玖磨の祖父。明治通り反対側の実業家・池田亀三郎邸の思い出。池田侯爵邸跡に海軍館や東郷神社が建つ経緯。そして実家の空樽倉庫は「民芸」稽古場へ。原宿3丁目町会や明治神宮の見世物小屋のこと。

 さらには原宿・宮廷駅の北側一帯、数万坪を有した徳大寺侯爵邸跡地(千駄ヶ谷3丁目)に政治家・永井柳太郎、経団連会長・植村甲午郎、龍角散の藤井家、江利チエミ(チエミ御殿・洋館。林真理子のモデル小説「テネシーワルツ」に注目)、片岡仁左衛門などが続々移転してきた話。片岡仁左衛門65歳、妻26歳、女中12歳と65歳は、昭和21年3月に12歳女中の兄(22歳、座付き見習い作家として住み込み)の食糧難の恨みで斧で全員殺害された。

 徳大寺侯爵は明治店天皇の侍従長・徳大寺実則。父は徳大寺公純で公家・鷹司政通の子。実則の弟が侯爵・西園寺公望。西園寺の私設秘書・原田熊雄(鳩森八幡神社近くに在住)の「原田日記」は「東京裁判」で140記述の採用。千駄ヶ谷や原宿の高級住宅地に住む貴族・軍人らの名を知れば、千駄ヶ谷物語は「東京裁判」へと誘われます。

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千駄ヶ谷周辺のGHQ接収(32) [千駄ヶ谷物語]

palace_1.jpg 終戦翌月の昭和20年(1945)9月18日、明治神宮外苑はGHQ接収で「メイジパーク」となって米将兵運動場になった。野球場が「ステートサイド・パーク」で内野に芝生が張られた。競技場が「ナイル・キニック・スタジアム」(ナイル・キニックはアメリカン・フットボールの名選手名)。共に照明塔新設でナイトゲーム可能に。神宮プールは「白人専用プール」、相撲場が「メイジボール」でボクシング場。中央広場にはテニスコート、ソフトボール場などで「神宮レクリエーション・フィールド」、日本青年館は「メイジ・ホテル」。そして徳川宗家邸が将校クラブ「マッジ・ホール」へ。他には現・原宿警察署の地にあった「海軍館」(海軍将校会館)も接収。将校家族用に現・明治通り沿いのBSテレビ朝日の地に建っていた和洋折衷の池田侯爵(鳥取藩主)邸の一部、その向かいの團琢磨邸跡のドイツ大使・武者小路金共(実篤の兄)の洋館も接収。

 「ステートサイド・パーク」は米軍優先ながら、戦後初の6大学野球OB戦、早慶戦、大相撲夏場所(国技館接収のため)、プロ野球初の日本選手権試合なども行われた。また「ナイル・キニック・スタジアム」では早慶サッカー定期戦をはじめ陸上競技も行われた。「プール」ではトビウオ・古橋広之進選手が活躍。そして昭和27年(1952)に接収解除。

 「代々木練兵場(代々木の原)」(92.4万平米)は合衆国空軍兵と家族のための団地「ワシントンハイツ」へ。兵舎と家族住居827戸に学校、教会、商店、将校クラブなど。昭和27年(1952)のサンフランシスコ条約で日本占領終了も、今度は安保条約で〝在日米軍〟となって引き続き駐留。全面返還されたのが昭和36年(1961)11月で、その後の東京オリンピック選手村・競技場用地になった。

 千駄ヶ谷の西側が「ワシントンハイツ」ならば、東側の現・国立劇場や最高裁判所辺りの2万坪が「パレスハイツ」(写真。国会図書館デジタルのモージャー氏撮影より)もあった。同ハイツ返還は昭和33年(1900)11月。そして青山霊園東側、現・国立美術館の地にあった旧陸軍第一歩兵師団第三連隊(麻布三連隊。2.26事件で多くの反乱将校が所属)、第一連隊(現・東京ミッドタウン)も接収。現在のその一部「赤坂プレスセンター」の名で「星条旗新聞社」、ヘリポート、米陸軍宿舎「ハーディー・バラックス」は接収されたまま。

 GHQはかく千駄ヶ谷周辺の多数施設接収だが、同時に「神道指令」(国家神道の廃止、政教分離)。国立競技場を除く「明治神宮内苑・外苑」が国から離れて「宗教法人・明治神宮」へ。さらに現在は、外苑北側・信濃町は「創価学会の街」と化していて、北参道際には「神社本庁」(日本会議の主団体)があり、代々木に共産党の本拠地。

 いかなる宗教団体、政治団体にも属さぬ小生は、この辺を散策する度に胸底に戸惑いを覚えざるをえない。それら真ん中に位置する千駄ヶ谷は、なんともスリリングな町とも云えます。次は赤坂真理小説『東京プリズン』を読む。

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東京大空襲から接収へ(31) [千駄ヶ谷物語]

IMG_0990_1_1.JPG 久保田二郎、獅子文六が記す千駄ヶ谷も、戦争末期に大空襲に遭う。『東京大空襲~未公開写真は語る』を見ると、昭和19年(1944)11月27日空襲の原宿付近の被災写真が冒頭18頁に渡って掲載。婦人らのバケツリレー(消火作業)の原宿竹下口付近、現・原宿警察署の地にあった「海軍館」(海軍将校会館)破壊写真、瓦礫の中で拝礼する東郷神社神官の姿など。

 昭和20年2月19日には、代々木練兵場の高射砲によってB29が千駄ヶ谷5丁目に墜落の記録がネットにあった。そして3月10日の「下町大空襲」で死者8万余人。秋尾沙戸子著『ワシントンハイツ』第1章が「青山表参道の地獄絵図」。4月13日の「山の手空襲」を記している。渋谷~宮益坂~青山通りは一面焼け野原。「青山墓地に逃げろ」の合言葉も、逃げ切れぬ人々が表参道口の安田銀行(現みずほ銀行)前へ殺到。夜間で鉄扉閉鎖ゆえ焼死体が2階の窓まで重なったとか。著者の被災者取材で「参道はエントツみたいになって熱風が吹き抜けた」「青山通りと表参道の十字路が熱風のつむじ風、竜巻になった」。またネットには表参道口の石灯籠の銀行側は、今も黒ずんでいるとあった。

 3月15日に世田谷、目黒の死者850人。24日に品川、目黒、蒲田の死者559人。そして25日、未だ住宅が残る渋谷、青山、足立、荒川、王子、品川、大森、杉並、世田谷へ約470機のB29無差別爆撃。死者2258人。負傷者約8500人。都内全焼家屋165000戸。

 ここで永井荷風の罹災体験を日記から読み直してみる。3月9日:天候快晴。夜半空襲あり。翌暁4時わが「偏奇館」(麻布市兵衛町の26年間住み慣れた家)焼亡す。10日:代々木の杵屋宅へ行こうと地下鉄・青山一丁目より渋谷駅へ。駅は大混雑ゆえバスで代々木へ。昨夜を振り返って「猛火は殆東京市を灰になしたり。北は千住より南は芝、田町に及べり。浅草観音堂、五重塔、吉原遊郭焼亡。明治座に避難せしもの悉く焼死す」

 4月3日:夜半空襲。淀橋大久保辺火起る。4月13日:夜十時過空襲あり。明治神宮社殿炎上中。新宿大久保角筈の辺一帯火焔。角筈東大久保より戸山が原のあたり一帯に灰となりしが如く。5月25日、風爽やか。夜空襲。焼かれたる戸塚大久保新宿の町々を歩み代々木へ。ここも焼野。

 6月2日:東京脱出。「軍部の横暴なる今更憤慨するの愚の至りなれば(略)われらは唯その復讐として日本の国家に対して冷淡無関心なる態度を取ることなり」。この記述〝荷風らしさ〟として注目です。原爆投下から終戦へ。

 終戦と同時、昭和20年9月8日にGHQが各施設接収。代々木練兵場へ3000名の米兵が一夜にキャンプシティー設置。将校向け接収住宅は港区137戸、渋谷区125戸。次に千駄ヶ谷周辺の接収諸施設を記し、焼け跡にアメリカ文化がいかに浸透したかを振り返ってみる。

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獅子文六『娘と私』(30) [千駄ヶ谷物語]

IMG_0976_1.JPG 久保田二郎の次に獅子文六『娘と私』を読む。獅子文六は明治26年(1893)、横浜生まれ。大正11年(1922)に渡仏。フランス人・マリーと結婚。大正14年に帰国し、同年に長女巴絵(文中・麻理)誕生。昭和5年(1930)に妻マリーが病気になって母国に連れ戻して看病後に帰国。

 『娘と私』は、娘を男親一人で育てる悪戦苦闘から始まる。やがてフランスからマリー病死の報。娘の健康も芳しくない。そうした状況で幾度かの見合い。昭和9年(1934)に富永静子(文中・福永千鶴子)と結婚。新居を千駄ヶ谷に構えた。麻里と久保田二郎は1歳違い。久保田が軍隊コスプレで代々木練兵場を我が物顔で闊歩していて頃に、二人は会っていたかも~。

 その家は、鳩森八幡神社から坂を下った辺り。新妻の郷里女学校時代の同級生の夫が家扶をしている家族一族の持ち家だった。1年間も借り手なく、家賃40円をまけてくれた。場所は八幡社から南へ松岡洋右邸、林銑十郎邸と続いての南側。明大総長で「東京裁判」の弁護団長、「大逆事件」弁護の鵜沢聡明邸の北側。当時の地図を見ると獅子文六宅傍に川が流れ、さらに西側の千駄ヶ谷小の裏にも川が流れている。この2本の川は「原宿村分水」。少学校裏の川幅は5m。大雨で洪水もした。東側の獅子文六宅傍の川幅は3m。両川は神宮前3-28辺りで渋谷川に合流する。

 千駄ヶ谷をこう記していた。「徳川、松平などの大華族が住んでいるかと思うと、青山近くには貧民街があり~(中略)~山の手と下町風の混流がある。祭礼や盆には子供たちが騒ぎ回るのも下町風で~(略)駄菓子屋の問屋があるのも場末の千駄ヶ谷らしく面白い」

 そんな環境で、病弱の麻里も近所の子らと遊び回って元気溌剌。文六も千駄ヶ谷が気に入った。執筆仕事に疲れれば、パリのブーローニュ公園に似た外苑散歩が愉しい。

 「家主の子爵邸を除けば中流以下の小住宅が多い。昔、村落だった名残の近所の榎稲荷。わが家の裏手は広々とした田畑が広がる田舎風で、穀物でも干してないのが不思議なくらい。(中略)妻が鶏を飼って一層、田舎染みさせた」

 久保田二郎著が記す〝高級住宅地〟の実際は、徳川宗家邸周辺のことで、そこから少し離れれば、文六記述が実情、実景だろう。物事は幾作も眼を通さぬと真実に迫れない。そのうちに「地下鉄も開通して、青山まで歩けばその利用もできた」。驚き調べれば、浅草~新橋間開通が昭和9年、新橋~渋谷開通が昭和14年だった。

 昭和11年、麻里が雪の中をランドセルを背負って学校へ(多分、九段の白百合女学校)。ほどなくして戻ってきたので「どうした」と訊けば「悪い兵隊さんがいるので学校がお休み」、二・二九事件だった。

 貧乏文士・獅子文六だったが、次第に執筆仕事が増えて余裕が生まれた。西隣の間数の多い家に移る。そこは家主が自分用に建てた古風家屋。一家の生活も日本風スタイルへ。夕刊紙の連載小説『悦っちゃん』が決まって人気作家へ。麻里も16歳。

 家運は上昇も、時代は厳しくなった。支那事変で青山連隊の入営者激増。そして太平洋戦争へ。隣組、防空演習も活発化。神信心ない文六も、鳩森八幡神社で祈願する。「ぜひ日本を勝たして下さい」。文六50歳。娘18歳。そして姉の死。一家は亡姉が残した中野玄町へ移転すべく千駄ヶ谷を去った。

 なお文六57歳の時(昭和25年)、妻・静子が44歳で病死。翌年に三人目の妻に18歳年下で子爵・吉川重吉の娘・幸子を迎えた。幸子の姉(妹ではなく、たぶん姉)は「原田日記」の原田熊雄の妻。次回は千駄ヶ谷周辺を襲った東京大空襲について。

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戦前は高級住宅地:久保田二郎編(29) [千駄ヶ谷物語]

kubotajiro_1.jpg 千駄ヶ谷は、小生が学生の頃は〝連れ込み旅館街〟だったが、戦前までは〝高級住宅地〟だったらしい。その頃の千駄ヶ谷を描いた久保田二郎著『極楽島ただいま満員』と獅子文六著『娘と私』を読んでみる。

 まず久保田二郎著の同書は新宿図書館になく、都中央図書館は「多摩・都立収蔵庫」に1冊のみ。ここは頭の使い様、各区図書館の蔵書検索をすれば、文京区「水道端図書館」にあった。自転車で江戸川橋から石切橋へ。小日向の巻石通りを夏目漱石家の菩提寺・本法寺の前。静かで広い閲覧室で頁をひもといた。

 久保田二郎は大正15年(1926)生まれ。ドラムスで「レッド・ハット・ボーイズ」「グラマシー・シックス」参加後にジャズ評論家。「スイングジャーナル」編集長時代に、植草甚一を発掘。確かMJQを紹介した人じゃなかったか。小生最初の購入レコードが「MJQ/JANGO」だった。

 同書最初の章は「史上最大の兵隊ごっこ」で、当時の千駄ヶ谷を詳しく紹介。こう始まる。「僕の本籍地は東京都渋谷区千駄ヶ谷三丁目五二七番地だ」。少年時代ということは、昭和10年代初頭だろう。当時の地図を見れば、鳩森八幡神社に隣接の南西部一画(「徳川家達邸の変遷(15)」にアップの地図で同番地が確認出来る。久保田金四郎宅。『千駄ヶ谷昔話』には代議士で、白壁をめぐらせた大きな屋敷とあった) 

 「昭和20年5月の空襲で焼けたが、その家は五稜郭の戦いで有名は榎本武揚の屋敷だった」で、ちょっと驚いた。榎本武揚は五稜郭の戦い後に明治政府に仕えて逓信、外務、文部、農商務大臣を歴任する子爵になっている。大臣時代の屋敷だろう。

 「部屋数30ほど、かくれんぼをすれば女中五人、書生、運転手など総勢8、9名で家中を探しても見つからぬ広さ」で、久保田家も相当に裕福。それでいて大逆事件の幸徳秋水の弟子だったとも記していた。(久保田金四郎、そして榎本武揚についても、いずれ調べることになりそうですが、話を勧めます)

 続いて周辺の屋敷群を紹介。省略引用すると~「千駄ヶ谷駅は今でも同じ。左に東京都体育館で、ここは徳川宗家・家達公爵邸。道路を隔てた前が幣原喜重郎男爵邸(戦争放棄の第九条を決めた。似顔絵付き記事をリンクしておきます)」。さらに屋敷紹介が続く。

 「その裏手、今の津田スクール・オブ・ヴジネス辺りが鷹司公爵家。僕の家の横手が〝原田日記〟で有名な原田熊男男爵家、その先が現皇后陛下の親戚、二荒伯爵家、僕んちの裏手が京都の公家・若王子子爵家、その先が松岡外務大臣、その先が総理大臣もやった陸軍大将・林銑十郎邸~」。おや「東京裁判」がらみの人が多いようでございます。

 「当時の千駄ヶ谷に比すれば自由が丘、田園調布、成城なんぞ二流、三流のたかだか文化住宅地に過ぎず」とまで記していた。そんな時分の子供らの遊びは、軍隊コスプレで代々木練兵場の闊歩。親たちが大将、中将、公爵、侯爵らで、兵隊たちも手が出せずで我が物顔で遊んでいたらしい。

 同書は昭和51年(1976)刊で、表紙イラストは植草甚一。次に獅子文六の小説『娘と私』を読んでみる。

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外苑競技場で学徒出陣(28) [千駄ヶ谷物語]

kyougijyoreki2_1.jpg 昭和18年(1943)10月2日、勅令で在学徴集臨時特例が公布。全国の大学・高等学校、専門学校の文科系学生・生徒に許されていた徴兵猶予廃止で、同年12月に「学徒出陣」。それに先立つ10月21日、東京周辺77校参加の出陣学徒壮行会が「明治神宮外苑競技場」で行われた。

 髯と眼鏡の独裁者よろしく「その若き肉体、清新なる血潮、すべてこれ御国の大御宝なのである。そのいっさいを大君の御為に捧げ奉るは~」と高みから、死んで来いと叱咤激励するのは(半藤一利『歴史と戦争』より)〝夜郎自大〟の東条英機内閣総理大臣兼陸軍大臣だった(半藤一利『「東京裁判」を読む』より)。

 その2年前から大学繰上げ卒業での入隊も多く、それは特別操縦見習士官制度で応募すれば曹長(見習い士官。陸軍応募1万人、海軍応募5万人)になれるもので、「学徒出陣」は二等兵から。その徴兵検査は10月25日~11月5日。本籍地で身体検査ゆえに、上京組は帰郷して家族に会った。入隊者は推定5万人。

 東京本籍で陸軍入隊者は約2百人。品川から学徒列車で門司へ。釜山から極寒の会寧へ。古兵のイジメと寒さに耐えて2ヶ月で1等兵、上等兵へ。幹部候補生試験の合格者は、下士官教育で内地に戻ったらしい。海軍入隊者は、2等水兵で体罰に耐えつつも知的新兵で飛行科、兵科、主計課へ。

 戦前のジャズ史『ジャズで踊って』著者・瀬川昌久は帝大法学部政治科入学と同時に学徒出陣の第2陣で「後楽園球場」で壮行会。築地の海軍経理学校の半年後に、奈良県橿原に配属されて終戦。GHQ命令の海外日本将兵の復員作業に志願して、主計科士官として氷川丸に乗り込んだ。数千名の帰還作業に従事したが、数名のMPが乗り込んでいて、携帯ラジオから終日WVTRから流れるジャズを聴いていたと記していた。

 明治神宮外苑競技場は、終戦と同時に接収されて「ナイル・キニック・スタジアム」(千駄ヶ谷周辺のGHQ接収については後述)。なお平成5年に学徒出陣50周年に「出陣学徒壮行の地」碑が、旧国立陸上競技場・千駄ヶ谷入口に建てられたが、現在の工事で目下は「秩父宮ラグビー場」に移転中とか。門の外から覗いたが、どこに仮設置されているかわからなかった。次回は戦前の良き千駄ヶ谷時代を記した「スィングジャーナル」元編集長の久保田二郎著を読む。

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大正13年竣工「明治神宮外苑競技場」(27) [千駄ヶ谷物語]

meijigaien_1.jpg 千駄ヶ谷といえば、やはり目玉は国立競技場だろう。後藤健生著『国立競技場の100年』(ミネルヴァ書房)、山口輝臣著『明治神宮の出現」(吉川弘文館)、蜷川壽恵著『学徒出陣』(吉川弘文館)を参考に、国立競技場の歴史をお勉強。

 明治天皇崩御が明治45年(1912)で、青山練兵場跡地に設けた仮設・葬場殿で大喪の儀。「天皇陵を東京に」の運動が盛り上がるも、埋葬は定め通り京都・伏見桃山陵へ。そこで東京市長や東京財界有志が、陵墓が不可なら東京に「明治天皇を祀る神社(内苑)+公園(外苑)」をというアイデアを思い付く。

 明治神宮内苑は「代々木の原」(22万坪)に国費で和風造営、外苑は「青山練兵場」跡に国民献金で洋風造営と決定。外苑の献金受付「明治神宮奉賛会」設立で徳川家達が会長就任。一気に予定額を越える624万円が集まったとか。

 「明治神宮外苑競技場」竣工は、大正13年(1924)10月。敷地は約1万坪。西側メインスタンド。他3面は芝生観客席で、収容数は3万5千人。日本初の大規模スタジアム。竣工直後から全国規模の「明治神宮競技大会」など日本スポーツの聖地へ。昭和4年(1929)に「日独対抗競技」。翌年に第9回「極東選手権大会」。

 スポーツ熱が盛り上がったが昭和6年に満州事変。昭和7年(1932)3月に「満州国」樹立。翌年に国連脱退。昭和11年(1936)の第11回ベルリン大会で有名なのが「前畑ガンバレ」連呼。第12回オリンピック東京開催(昭和15年・1940)が決定するも、昭和12年7月に日中戦争。戦火拡大でオリンピックどころではなく、東京開催を返上。昭和16年(1941)に第2次世界大戦。スポーツは「国防競技」に変わった。

 そして終戦。「政教分離」で〝神道〟が国から分離されて、内務省神社局管轄だった「明治神宮内苑」が「宗教法人・明治神宮」へ。外苑も「競技場」(文部省)の他はすべて時価半額で同宗教法人へ払い下げられた。

 かくして今も「聖徳記念絵画館」は明治天皇を描いた絵画館で、「明治記念館」には大日本帝国憲法草案を作った建物を保存。今の明治神宮球場も「宗教法人・明治神宮」。

 昭和14年の地図から当時の外苑の様子が伺えます。野球場南「青山の女子学習院」は東京大空襲で焼失後に秩父宮ラグビー場へ。女子学習院は新宿・戸山キャンパスへ。当時の競技場写真は、ネットの画像検索で「競技場絵葉書」を見ることができます。

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島田旭彦、広東料理店を潰す(26) [千駄ヶ谷物語]

mizukouzu_1.jpg 嵐山光三郎『おとこくらべ』の「りんごさくさく」に、白秋の同郷・同年の歌人・島田旭彦が千駄ヶ谷で広東料理店「楽々」を出していた、と記されていた。

 52歳の旭彦が(白秋も52.昭和11年ならば成城の白秋宅)訪ね来て、秘書の宮柊二が言う。「ガンジーです。酔っぱらっています」。旭彦は色浅黒く、容貌がガンジーに似ていた。内気だが酔うと始末におけない。旭彦が絡む。

 「最近、あんたらはうとの店になして来んとですか」。旭彦は深川区役所を辞めた退職金で1年前に千駄ヶ谷に「楽々」という広東料理の店を出した。白秋が案内状を書いてくれたが、歌人仲間は一向に来てくれないと文句を言う。

 白秋が「いま戒厳令下ど(2・26事件)。みんな料理店へ行く暇はなかとぞ。そいけん歌人協会の集まりもおいの自宅でやったとぞ。ガンジー、金に困っとっとやろう」と白秋は菊子(三番目の妻)を呼び、五十円を封筒に入れて渡した。

 嵐山光三郎著は、概ね以上の記述。広東料理店「楽々」については川本三郎『白秋望景』にも出てくるが、詳しくは『白秋全集36』が詳しい。島田旭彦は昭和11年11月22日に脳溢血で急死。白秋は荒川三河島の陋巷を訪ね、遺体に接した後に詠んだ「貧窮哀傷」47首について記している。つまり、旭彦が酔って白秋宅を訪ねて間もなくの死だった。

 「あはれさはあふるる涙とどまらず生国も歳も同じこの死びと」「外に遊ぶ末の弟娘が声きけば父死にたりとまだ知らざらし」「人は死に生きたる我は歩きゐて蛤をむく店を見透かす」。白秋は別れた女にもクールだが、友の死にもクールで無常観を詠む。そう云えば「サトウハチロー」も都内警察の留置場すべてを体験のワルで、女性関係もドロドロだったが(佐藤藍子『血脈』)、そういう奴が子供向けの純朴な歌を書く。

 その頃の白秋も糖尿病と腎臓病で視力を失いつつあった。白秋の終焉の家は阿佐ヶ谷で、旭彦急死の5年後の昭和17年、病の床で郷里・柳河(柳川)写真集『水の構図』序文を書き、その1ヶ月の11月2日に亡くなった。57歳だった。写真は同写真集に掲載されたサングラス姿の白秋。(国会図書館デジタルより)

 さて、旭彦の店「楽々」は千駄ヶ谷のどの辺にあったのだろうか。『白秋全集36』の「旭彦覚え書」に~昭和十年の秋、旭彦は千駄ヶ谷の八幡通りに広東料理「楽々」の招牌を掲げた。深川区役所の雇員を辞めた退職金の殆どがこの資金に吐き出された。初めは「おでんや」をはじめるつもりで造作もしたのであるが~(中略)人の甘言に乗せられて「楽々」の店を譲り受けた。主人は老酒の名も知らず、細君は「メニュー」を料理名と思っていた、と余りに無知。高給の広東人コックを雇って、半年経たずにつぶれてしまった~

 白秋は「楽々」のチラシ文も書いたと全文掲載。~名も苅る萱の千駄ヶ谷三丁目に、気も楽々と広東料理の灯をかゞげて、新に荒き波の潮に生を凌がむとする島田旭彦は~。以後は友を悼む文章が10頁に亘っていた。「楽々」は鳩森八幡神社から南西方向へ坂を下る商店街かなと推測するが、いかがだろうか。

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白秋と俊子のその後(25) [千駄ヶ谷物語]

hakusyue.jpg_1.jpg テーマは千駄ヶ谷。白秋がこの地を去れば、幾冊もの白秋関連書とも別れることになる。特定地域調べはロードムービーならぬ〝来ては去って行く人々〟を見る定点カメラのようです。

 そうとはわかっているも、白秋・俊子のその後を少しだけ追う。二人は市ヶ谷の未決監に収監され、弟・鐵雄が必死の奔走・金策でようやく示談で2週間後に釈放。示談金300円。鐵雄の保険会社月給15円。300円を手にした夫がニンマリするのもわかる。明治45年7月刊『桐の花』には情念の未練・苦悶の歌や散文が収録されている。

 「君かへす朝の敷石さくさくと雪と林檎の香のごとくふれ」「あだごころ君をたのみて身を滅し媚薬の風に吹かれけるかな」。そして囚人馬車「かなしきは人間のみち牢獄みち馬車の礫満(こいしみち)」。こんな事態に〝みち〟リフレインで遊んでいる。白秋、相当にしたたかです。「編笠をすこしかたむけよき君は紅き花に見入るなりけり」。惚れた人妻の腰と手に縄、編笠の囚人姿を見ている。次は獄中歌。「鳩よ鳩よをかしからずや囚人の〝三八七〟が涙ながせる」。白秋の囚人番号を詠っている。

 釈放された二人は、白秋の両親、弟・妹と共に東京脱出で三浦半島の三崎へ移住。陽光を浴びて再生を図る。「城ヶ島の女子うららに裸となり見れば陰(ほと)出しよく寝たるかも」。気分はゴーギャンです。

 しかし生計苦しく、家族らは東京へ戻り、二人はなんと!小笠原・父島へ渡る。同行は三崎で結核療養中だった姉妹二人。だが小笠原はよそ者には厳しかった。「聞いて極楽、住んで地獄」。四か月後に帰京して俊子と離婚。白秋の二番目の妻・章子も凄かったがここで終わる。荷風さんの「素人に手を出しちゃいけませんぜい」の声が聞こえます。

 絵は俊子と離婚後の大正3年(1914)刊の詩集『白金之獨楽』掲載の白秋画。手前に鶴、田畑で働く人々と富士山か。南海の沖に島が聳えて、ペンギンと魚が空を飛んでいる。〝気分はゴーギャン〟と言ったが、白秋の画才やはり凄い。(国会図書館デジタルより)

 次は白秋の同郷・同歳の島田旭彦が、千駄ヶ谷に広東料理店「楽々」を出して失敗した話。白秋は島田のガンジーのような風貌を「よく云えば男の藤陰静枝かな」と評したとか。静枝さんは、荷風の二番目の妻。

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白秋と俊子の家はどこ?(24) [千駄ヶ谷物語]

suzume.jpg_1.jpg 白秋が千駄ヶ谷原宿へ引っ越して来て、隣家人妻・俊子と深間になった。さて、どの辺に住んでいたのだろうか。

 現代日本文学全集『北原白秋・石川啄木集』巻末付録に、鈴木一郎・文「北原白秋と松下俊子」に住所が記されていた。「明治43年9月、白秋はそれ迄住んでいた牛込区新小川町34番地の仮寓から〝青山〟に居を移した。正確には府下千駄ヶ谷原宿85番地である」

 川本三郎『白秋望景』には「千駄ヶ谷原宿(現在の千駄ヶ谷駅近く)に引っ越しをした」。瀬戸内晴美の小説『ここ過ぎて』には「靑山原宿、正確には府下千駄ヶ谷原宿85番地」。作家らは同住所を記すも「千駄ヶ谷駅近く」「青山」「青山原宿」と微妙に異なり、誰もが場所を説明する文章を避けている。住所特定が出来なかったのではなかろうか。

 明治40年(1907)頃の住所を調べてみれば「東京府豊島郡千駄ヶ谷大字原宿」。明治42年地図では仙寿院の南側に「北原宿」「南原宿」あり。昭和12年の明治通り開通後の地図には「北原宿=原宿1丁目」「南原宿=原宿2丁目」、明治通り付近が「原宿3丁目」だが田畑ばかり。そして現在は原宿1~3丁目は「渋谷区神宮前」で「原宿」の名も消えている。

 かつて小生は藤田嗣治がパリ留学前の大久保の新婚旧居を特定したことがある。その資料は大正1年「東京市及接続郡部〝地籍地図〟」で、今回も同地図で探してみた。だが「千駄ヶ谷町大字原宿」は「字竹之下・北原宿」「字南原宿」「字石田」「字灰毛丸」と細分化されてい、「千駄ヶ谷原宿85番地」では特定出来なかった。

 作家らも同住所は記すも、場所の説明文を避けていた。文学者旧居巡りのサイトも多いが誰も手をつけていない。ひょっとして、この住所表記は正確ではなかったのではと推測される。まぁ、当時の地図を見れば「仙寿院」の南側が原宿一帯で、最寄り駅は「千駄ヶ谷駅」(明治37年8月開業)か「原宿駅」(明治39年10月開業)だろう。

 さて、二人の〝姦通〟経緯を簡単に記す。白秋は同地を五ヶ月後に去り、京橋区木挽町の土蔵「二葉館」二階一間に移転。そこは元待合で壁一面に描かれた春画を、いい加減な塗装で隠した部屋。ここが最初の情交場所か。白秋はここから飯田河岸、新富町、浅草と転々としつつ、明治45年5月に越前堀(お岩稲荷のそば。荷風さん関連で同地を訪ねたことがある)に移った時に、夫・長平から告訴。検察局より姦通罪で起訴。かくして二人は囚人馬車の乗せられて市ヶ谷未決監へ送られることになる。

 カットは白秋の二番目の妻・江口章子と過ごした極貧時代に〝雀を友〟として綴った雀観察の『雀の生活』(大正9年刊)の白秋自画。白秋は絵の才能もあり!と感じた。

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北原白秋、姦通罪で囚人馬車へ(23) [千駄ヶ谷物語]

kawahakusyu.jpg 千駄ヶ谷の与謝野夫妻「新詩社」が明治42年1月に千駄ヶ谷を後に、神田・東紅梅町へ去った翌年9月のこと。北原白秋が牛込区新小川町から千駄ヶ谷村大字原宿へ引っ越してきた。「新詩社」の件で千駄ヶ谷に馴染があったゆえだろう。

 以下、川本三郎『白秋望景』、西本秋夫『白秋論資料考~福島俊子と江口章子を中心に~』、藪田義雄『評伝 北原白秋』を参考にする。

 白秋は明治42年(1909)24歳の若さで処女詩集『邪宗門』刊。日露戦争勝利の近代日本ヤングジェネレーションの官能謳歌。2年後に第2詩集『思ひ出』刊。一躍、詩壇の寵児になった。

 さらなる飛躍を期して郊外住宅地・千駄ヶ谷へ移転。だが「好事魔多し」。隣家の人妻・俊子がなんともいい女だった。俊子22歳。前年に松下長平と結婚して長女を出産。短歌を愛し、斉藤茂吉にも師事。夫・長平は国民新聞社の写真部記者。嗜虐性が強く、俊子に生傷絶えず。加えて混血情婦もいた。それゆえの愁い含んだ眼差しで白秋を見つめる。すらりとした肢体、ぬけるような白い肌。坊ちゃん気質で世間知らずの白秋はイチコロだった。

 だが道ならぬ恋ゆえ、人妻ゆえ、姦通罪ゆえに、二人の恋心は抑えれば抑えるほどに燃え上がった。どうやら隣家主人・長平が仕込んだのかもしれない。時代の寵児へのやっかみ、脅せば金にもなろう。やがて思惑通り「姦通罪」で起訴。白秋と俊子は、出頭した裁判所から他の囚人らと共に囚人馬車に乗せられて市ヶ谷の未決監に送り込まれた。時代の寵児が、一転して姦通罪人。マスコミが喜ぶことよ。

 「小生は第八監十三室の〝三八七〟というナンバーに名を改められた」。2週間後、弟の北原鐵雄の必死の奔走で示談。相手は300円という大金をせしめてニヤリと笑ったとか。川本三郎著には松永伍一『北原白秋 その青春と風土』よりの引用で「僕に童貞を破らせたのは石川啄木だよ。浅草十二階の魔窟へひっぱって行かれてね」を紹介。白秋は、性の甘い深淵を覗き見たばかりだった。

 そんなことはどうでもいい。川本著には「千駄ヶ谷原宿に引っ越した」と記して、括弧括りで(現在の千駄ヶ谷駅近く)とした。さて、それは一体どの辺りだったか。(続く) 

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晶子と「おなか団子」(22) [千駄ヶ谷物語]

kimonoakiko.jpg 千駄ヶ谷の「与謝野寛と晶子」編の最後です。夫妻の長男・光氏(医学博士、公衆衛生関連の理事、会長など歴任)90歳の聞き書き『晶子と寛の思い出』には、こんな文もあった。

 「千駄ヶ谷に移って、有名な〝一夜百首会〟が行われた。十時で電車が止まっちゃうから、一晩に一人百首読んで、朝に帰るんです」

 これは「結び字、結字」を入れての作歌会。石川啄木「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きゆれて蟹とたはむる」は「蟹」を結字にした一夜百首会で詠まれた作とか。評伝では〝一夜百首会〟は中渋谷の明治36年頃から始まってい、当時は渋谷も千駄ヶ谷も終電は10時頃ゆえに、徹夜の歌詠み会が行われたのだろう。

 光さんは話をこう続ける。「百首会は長丁場で腹が減りますから、近衛4連隊の下、今は住宅公団のアパート裏あたり、今は暗渠になっている渋谷川沿いに〝おなか団子〟という団子屋さんへ行くんです。僕が三つか四つの頃で、母が団子をたくさん買って大きな袋に入れて、それを背負って帰るんです」

 小生が2年前春に、この周辺を自転車散歩した際には、未だ「都営霞ヶ丘アパート」群が建っていて、団地北東脇の小公園に「近衛歩兵第四連隊(青山練兵場)」の碑が建っていたのを覚えている。今は新国立競技場建設と同時にアパート群も碑も姿を消した。

 「おなか団子」は、千駄ヶ谷シリーズ最初に『江戸名所図会』の「仙寿院」紹介の際に「渋谷川に沿った道を多くの人が歩いていて、そこには明治元年まで〝お仲だんご〟あり。お仲さんは美人で広重も描いたとか」と記した。その「お仲だんご」が与謝野晶子の千駄ヶ谷時代にもあったと語られている。代替わりして存続していたか、同名を名乗った団子屋だったのだろうか。

 そして与謝野光著の最後はこう結ばれていた「やはり思い出すのは、貧乏ではあったが大勢の方々で活気があった千駄ヶ谷時代ですね。裏を返せば、うちの母にとっては、ずいぶん苦労の多い時だったということでしょうけど」 なお、与謝野光氏に関しては、GHQ命による米兵らの性のはけ口場設定と性病予防で後に再び登場です。写真は国会図書館「近代日本人の肖像」より。

 与謝野夫妻と交流のあった石川啄木や北原白秋の関連書を読めば、さらに当時の千駄ヶ谷の様子が記されていそう。手始めに川本三郎著『白秋望景』、嵐山光三郎著『おとこくらべ』を読めば、明治45年に「千駄ヶ谷大字原宿」に引っ越してきた北原白秋が、隣家の人妻・俊子さんと不義密通。姦通罪で囚人馬車に乗せられて市ヶ谷・未決監房へ運ばれたとあった。

 荷風さんが〝大逆事件〟関係者らを乗せた囚人馬車を自宅前で見て「文学者として何も出来ぬ己は、江戸の戯作者に身を落とす他にない」と自戒したのが明治43,44年だった。白秋と俊子さんも、囚人馬車に乗せられて市ヶ谷監獄へ向かって行く~。さっそく北原白秋・関連書を読むことになる。

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四角関係、キラ星の文人らが(21) [千駄ヶ谷物語]

yosanohon1_1.jpg 明治37年(1904)に山川登美子、増田雅子が日本女子大に入った翌年1月、登美子、雅子、晶子の合著『恋衣』刊。さっそく千駄ヶ谷で新年会を兼ねた『恋衣』出版記念会が行われた。開業間もない「千駄ヶ谷駅」に降り立つは登美子、雅子。そして錚々たる文人27人ほど。

 盛岡から上京の19歳石川啄木は、新詩社を紹介してくれた先輩・金田一京助にこう報告したとか。「一昨日は新詩社の新年会。めづらしく上田敏、蒲原有明、石井柏亭などの面々出席。女子大学より〝恋衣〟の山川登美子、増田雅子のお二人見え候~」

 鉄幹に晶子、登美子、雅子のめくるめく性愛を読みたい方は、その道の小説家・渡辺淳一『君も雛罌栗われも雛罌栗』でお楽しみ下さい。女性らの嫉妬の火花はさておき、与謝野光『晶子と寛の思い出』の「千駄ヶ谷時代」は、こう続く。

 「千駄ヶ谷時代っていうのは、まだランプなんです。だから朝ね、母を中心にランプ掃除をやるの。僕も手伝ったけど子供にはたいへんだった」。ネットで当時の電化状況を調べてみた。

 ●明治38年9月、日露戦争終結。兵士・武器・弾薬輸送に大変だったので甲武鉄道を国有化。●明治40年(1907)に東京鉄道が千駄ヶ谷、渋谷町、品川町、目黒村などに電灯・電力供給を開始。●戦勝景気で電気事業も好況。水力電力も加わって電燈料金半減。電燈が石油ランプを駆逐。

 啄木が最初の訪問から3年後の春の与謝野家を再訪しての日記に「お馴染みの四畳半の書斎は、机の本棚も火鉢も座布団も三年前と変わりはなかったが(中略)~少なからず驚かされたのは、電灯のついて居る事だ。月一円で却って経済だからと主人は説明したが、然しこれはどうしても此四畳半幅の人と物と趣味とに不調和であった。此不調和はやがて此人の詩に現はれて居ると思った」

 ランプ生活が電灯に変わったが、鉄幹編集の『明星』と彼の詩には、啄木日記からも伺えるように、早くも時代に色褪せてきた。明治41年正月、同人の吉井勇、北原白秋、木下杢太郎、長田幹彦ら7名が退会。晶子は「朝の雨さびしうなりぬ紫のからかささして七人去れば」と詠った。

 その後に窪田空穂、相馬御風らも退会。啄木が5月に訪問した日記には「今の新詩社、与謝野家は晶子女史の筆一本で支えられている」。『明星』最盛期5千部から9百部に落ち込んで、明治41年11月の百号で終刊。「わが雛はみな鳥となり飛び去んぬうつろの籠のさびしきかなや」。

 明治42年1月、与謝野夫妻は千駄ヶ谷を後に、神田駿河台ニコライ堂近くの東紅梅町へ去って行った。

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与謝野夫妻の千駄ヶ谷(20) [千駄ヶ谷物語]

myoujyo.jpg_1.jpg 明治37年8月21日に甲武鉄道「千駄ヶ谷駅」開業。同年11月3日に与謝野鉄幹・晶子が「新詩社&明星」共々、千駄ヶ谷村字大通549へ引っ越して来た。現・北参道駅から鳩森八幡神社へ至る、今も〝大通り〟の名を冠する商店街の郵便局近く。現・千駄ヶ谷1-23。「東京新詩社跡」の史跡柱が立っている。

 夫妻の長男・与謝野光『明子と寛の思い出』(思文閣出版)に「千駄ヶ谷時代」の項あり。「明治書院がたくさん借家を造ったんです。で、その借家に移った」。そして、こう続く。「駅からかなり遠かった。今の津田塾のあたりです。今の駅からだと近いけど、その頃は信濃町の駅からでしたからね。今は南の方に出口がありますけれども、北の方にあったんです。それで、よけいにたいへんでした」

 氏の90歳の聞き書きゆえ、多少の記憶違いはあろう。この辺を検証すれば、資料では間違いなく「千駄ヶ谷駅」開業後の移転。ちなみに「信濃町駅」開業は明治27年(1894)。千駄ヶ谷辺りから軍用「青山停車場」へ引き込み線あり。「千駄ヶ谷駅」開業当初の乗降客は1日250人程だったとか。

 与謝野夫妻の足跡を要約してみる。逸見久美著『評伝与謝野寛晶子(明治編)』、青井史著『与謝野鉄幹』、野田宇太郎著『改稿東京文学散歩』他を参考にする。

tekansi.jpg_1.jpg 鉄幹、明治32年(1899)に浅田信子との間に女児を設けるも40余日で死去。信子と別れて林滝野と同棲し「東京新詩社」設立。明治33年4月『明星』第1号発行。発行所は麹町区上六番。発行人・編集人は林滝野。鉄幹が林家の養子に入る約束、かつ資金も林家。金子薫園、佐々木信綱、正岡子規、高浜虚子、河東碧悟桐、島崎藤村、泉鏡花、広津柳浪など錚々たる執筆陣。

 同年、鉄幹は岡山で鳳晶子、山川登美子と会う。滝野との間に男子誕生。明治34年(1901)1月、晶子と京都で遊ぶ。3月、詩歌散文集『鉄幹子』刊。「妻をめとらば才たけて、顔うるはしくなさけある~」の〝人を恋うる歌〟収録。

 『明星』は67頁雑誌に急成長で、歌壇の中心になる。子規派と鉄幹派は平行線で、3月に匿名『文壇照魔鏡』刊。鉄幹は「強姦をし、放火をし、妻を売り、無銭飲食をした」と誹謗。滝野は子供を連れて帰郷。5月に渋谷村中渋谷へ移転。6月、晶子が鉄幹宅へ身を寄せ、8月『みだれ髪』刊。「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」。10月、晶子・鉄幹挙式。

 明治35年、長男・光誕生。明治37年、鉄幹・晶子『毒草』刊。晶子『明星』に「君死にたまふこと勿れ~」発表。渋谷時代の彼らの住家を見た明治書院社主・三樹一平は日記に「あまりなるあばら屋で驚くの外なしと語り合ひ、さて千駄ヶ谷の地にふさはしき詩堂建てまゐらせむと申さるゝなり」と記す。かくしての千駄ヶ谷移転。

 挿絵は『鉄幹子』巻末の「明星」広告とカット。絵は藤原武二のアンフォンス・ミュシャ(アール・ヌーヴォー中心画家)の模倣図だろう。国会図書館デジタルコレクションより。

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徳川邸から与謝野鉄幹・晶子へ(19) [千駄ヶ谷物語]

tokyotaiikukan_1.jpg 家達は昭和13年(1938)ロンドンで開催の赤十字国際会議へ日本赤十字社長として出席すべく米国~カナダ経由で旅立った。ロッキー山脈越えの車中で心臓発作。カナダの病院に入院後に帰国。昭和15年(1940)6月に亡くなった。息子・家正(外交官)が公爵家を襲爵し、貴族院議員になった。

 家正は、天璋院(篤姫、明治16年没)の〝島津家から嫁をもらうように〟の遺言通り、29代藩主・島津忠義の九女・正子と結婚。昭和18年(1943)6月、東京都が紀元2600年事業の一つ「武道館」敷地として家達邸に着目。家正と交渉して譲渡成立。壁に囲まれた本邸敷地1万2千余坪。徳川宗家は東郷神社傍の渋谷区原宿3丁目(1万坪の元三井財閥総帥・團琢磨家跡)へ去って行った。

 徳川邸は都・民生局所管となって「葵館」。鍛錬道場、また出征兵宿舎になった。空襲時は宿泊中の兵士らによって焼夷弾の火が消された。終戦後は進駐軍の将校クラブ「マッジ・ホール」になる。(「マッジ・ホール」については赤坂真理『東京プリズン』に登場するので後述したい)

 接収期間は昭和20年(1945)12月~昭和27年(1952)5月。返還年の末、体育館建設で木造建築物を除去、鉄筋コンクリート造りの洋館2階建ては位置を移動して、翌年10月に東京体育館着工。昭和29年(1954)落成。昭和32年5月、屋内水泳場建設で遺されたいた洋館も解体。徳川邸は完全に姿を消した(東京体育館HPより)。この際、日本間の大広間「鶴の間」は鶴見の総持寺の客殿へ、他にも移築された部分があるらしい。

 昭和61年(1986)、老朽化で閉鎖。槙文彦設計で平成2年(1990)に現・東京体育館として全面改築。以後、幾度かのリニューアルが行われ、今年7月から2020年の東京オリンピックに向けての改修工事が始まるらしい。カットは現在の東京体育館図で、この全敷地が徳川宗家新邸だった。

 これにて千駄ヶ谷の徳川家関連を終えるが、他に明治・大正時代の千駄ヶ谷に特筆すべきことはなかっただろうか~。徳川家達が貴族院議長になったのが明治36年12月。その翌年37年8月21日に甲武鉄道「千駄ヶ谷駅」開業。それに併せたのだろうか、同年11月3日に与謝野鉄幹・晶子が「東京新詩社&明星」共々、渋谷から千駄ヶ谷へ引っ越してきた。約5年間の千駄ヶ谷暮し。その時期はちょうど永井荷風のアメリカ・フランス時代。与謝野鉄幹・晶子夫妻にとって、この時期の「新詩社・明星」はどうだったのだろうか。『明星』が最も輝き、そして凋落した激動期。次回から与謝野夫妻の「千駄ヶ谷物語」です。

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徳川家達の「鶏姦と妾同伴」事件(18) [千駄ヶ谷物語]

rokumeikan.jpg 徳川家達が貴族院議員ならば、佐野眞一著は『枢密院議長の日記』。日記を書くことに生涯を捧げた男・倉富勇三郎。実に297冊の日記帳を遺した。執筆期間は大正8年から昭和19年までの26年間。

 倉富議長は「書いて書いて書きまくった」が、残念ながら判読不能のミミズ文字で解読者なし。佐野眞一はスタッフ5名による読書会を5年間も続けて、やっと大正10年、11年分を解読。その第一級資料の中に「柳田国男との宿縁」と「徳川家達の秘め事」の項あり。家達と柳田国男の確執は前回に記したので、今回は〝秘め事〟のほう~。

 「実名をあげたとびっきりのスキャンダルは、大正十一年二月七日の日記に出てくる。俎上にあがっているのは、公爵にして従一位勲位、貴族院議長、ワシントン軍縮会議首席全権大使、日本赤十字社社長などの要職を歴任した徳川宗家十六代当主の徳川家達である」

gicyounonikki_1.jpg こんな書き出しで「宮内大臣・牧野伸顕が倉富にこう語った」と会話文で記されていると紹介。要約すると、徳川は華族会館(元鹿鳴館)に宿泊する多々なり。四五年目前(大正6、7年)のことなりし様なり。会館の給仕を〝鶏姦〟し、其事が度重なって給仕より荒立てられて、一万円を出金して落着したることあり。然るに本人は左程之を悪事と思わず、改むる模様なし。先年、徳川を学習院(男女の)総裁と為すの内儀を定めたる処、松浦某が強硬に反対し〝若し之を遂行するならば鶏姦の事実を訐く〟とまで主張したる為め、終り其儘に為りたりとのことなり。此事は自分より当時の宮内大臣波多野敬直に問ひたるに、〝事実なり〟と云へり。徳川頼輪抔(など)も〝兄は恥を知らずで、今尚公職を執り隠退の考なきには困る〟と云ひたることあり」

 まぁ、家達公はいつどこで、男同士で愛するなんてことを覚えたのでしょうか。それにしても〝鶏姦〟とは凄い言葉です。今でも男好きの男たちは、そんな言葉を使っているのでしょうか。当時の1万円って、1円=2千円とすれば2千万円になるのかなぁ。

 一方、同著では『中央公論』(明治44年4月号)が徳川家達の人物論を特集していて、錚々たる顔ぶれが執筆で「家達はいつも〝威望堂々〟として〝品行厳正〟な人物」という内容だったとフォローされていた。

 樋口雄彦著には宮内省総裁・木戸幸一の日記に「困ったものだ」との記述があると紹介されていた。それは昭和8年から翌年にかけての渡欧に女性を同行したることが新聞沙汰になったとある。前述の牧野伸顕の日記にも「家達公、洋行に妾を携帯したる由に、関係者が徳川家の浮沈に関わるスキャンダルに発展するのではと膝痛して、その女性だけを先に帰国させるようにした」の記述があると紹介されていた。

 他人の日記は怖いですねぇ。そして決して有名人になってはいけません。写真は鶏姦の舞台となった華族会館・元鹿鳴館(国会図書館「写真の中の明治・大正」より)と佐野眞一著『枢密院議長の日記』。

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徳川家達と柳田国男の確執(17) [千駄ヶ谷物語]

IMG_0916_1.JPG 徳川家達調べで「柳田国男との確執」なる記述に出会って、ちょっと驚いた。柳田国男と云えば民俗学者で、大著『柳田国男全集』一部を小生も蔵書。

 彼はそもそも農務官僚で、大正3年から退職する大正8年(1919)12月まで徳川家達の下で貴族院書記官長。家達との確執で退職し、それによって偉大な民俗学者誕生、いや日本民俗学が確立とか。

 家達の貴族院議員時代は前述通り、日本激動の明治36年12月~昭和8年。これに重なる柳田国男の書記官長時代を探ってみる。参考は前述の樋口雄彦著に、佐野眞一『枢密院議長の日記』を加える。

 二人が同じ職場になる前の柳田は、明治42年に遠野を含む東北旅行。大正2年に「郷土研究」刊。すでに民俗学に足を踏み込んでいた。本業より民俗学に情熱を注いでいたこと、家達にその理解がなかったこと、はたまた別の問題があったかで、家達は執拗に柳田の転出裏工作を展開したらしい。柳田は面と向かって言わず裏工作の家達に憤慨して、二人の仲はこじれにこじれた。

 家達は旧幕臣官僚に止まらず、裏工作に首相・原敬や西園寺公望まで巻き込んだから、二人の確執は周知の事態になった。結局は家達が柳田に謝罪し、柳田が辞職した。

 樋口著には、ここまで二人の仲がこじれたのには「家達の〝私行〟」ゆえという説、柳田が家達系静岡人らが興した〝報復運動〟へ違和感を持っていたという説も紹介。真相は定かではないも、結果的に二人の確執、柳田の官庁辞職によって「日本民俗学」が確立へ至ったことに間違いはない。

 小生、ここまで調べるまで迂闊にも、柳田国男が〝新宿在住〟とは知らなかった。さっそく市ヶ谷加賀町2-4-13の旧居跡を訪ねてみた。現・大妻女子大加賀寮の地に、岩手県遠野市設置の立派な史跡案内板があった。柳田は同地に明治34年(1901)から27年間在住。『遠野物語』の話者・佐々木喜善が早大在学中で、毎日のように柳田邸を訪れて〝遠野の話〟を語ったゆえ案内板には両者の在住地図が表示、さらには九百九十坪の柳田邸図面、『遠野物語』初版本、若き柳田の写真までが紹介されていた。(写真は同史跡案内板より)

 さて〝家達の私行〟とは何だったのだろう。これが女性問題のみならず、男色(鶏姦)も盛んだったとか。佐野眞一のノンフィクション好きの小生は、佐野眞一著『枢密院議長の日記』を読んでみた。

 メモ:4月10日、新宿でツバメ初認。早かった。桜も葉桜。

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徳川家達の業績(16) [千駄ヶ谷物語]

iesatogiin_1.jpg 家達のイギリス留学は、ロンドン郊外の半分私塾のイートン・カレッジ。明治15年(1882)10月、19歳で帰国。帰国翌月、天璋院采配による近衛忠房の長女・泰子と結婚。明治17年、長男・家正誕生。同年の華族令で公爵になる。

 明治20年(1887)秋、明治天皇が徳川家達邸に行幸。皇族や徳川一門、さらに勝海舟、山岡鉄舟、明治政府閣僚らも陪席。行幸の際の建物が「日香苑」として保存。明治23年(1890)、帝国議会開設と同時に貴族院議員(公爵・侯釈は満25歳で貴族院終身議員になる)。

 明治29年(1896)、文部大臣就任を打診されるも〝経験浅く〟と辞退。勝海舟「良い心がけだ」と褒めた。明治31年(1898)、東京市長に勧められるも辞退。勝海舟「そんな事は人に任せなさい」。明治32年、勝海舟没。明治36年12月から昭和8年(1933)まで貴族院議長。

 大正2年(1913)、徳川慶喜没。徳川家の上野寛永寺ではなく、谷中の墓地は神式で正室と多くの子を産んだ側室二人と共に眠っている。家達は常々「慶喜は徳川家を滅ぼした人、私は徳川家を立てた人」と言っていた。生前の勝海舟は両者にかなり神経を使っていたらしい。

 さて、家達の貴族院議長時代は、激動の時代だった。日露戦争(明治37年)、伊藤博文が中国で暗殺死(同42年)、大逆事件(同43年)、柳田国男「郷土研究」発行(大正2年)、第一次世界大戦(同3年)、関東大震災(同12年)、満州事変(昭和6年)、国連脱退(同8年)~

 家達の働き振りはどうだったか。「政治家にあらずして無色透明。何の政団にも当たり障りなく理想的議長の態度」。貴族院議長として適任だったらしい。各議員の姓名・経歴・性格まで知悉し、かつ勉強家。威厳も身に付けていたらしい。

 かくして大正3年(家達51歳)に、門閥のない中正の人ということで首相に白羽の矢が立つも「その器にあらず」と辞退し、大熊重信内閣が成立。

 相当に〝デキた人物〟と思われるが、そんな人は滅多にいない。家達にも幾つかのスキャンダルがあったらしい。柳田国男との確執、議員会館の給仕との〝鶏姦事件〟、渡欧に〝妾同伴の困ったもんだ事件〟など。その辺は佐野眞一『枢密院議長の日記』にも詳しいとかで、さっそく同書も読んでみた。写真は国会図書館「近代日本人の肖像」より貴族院議長の徳川家達。

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徳川家達邸の変遷(15) [千駄ヶ谷物語]

meijitokugawa1_1.jpg 千駄ヶ谷の明治43年地図(上)を見る。徳川邸はJR線路から鳩森八幡神社まで、西は現・国立能楽堂辺り、西は渋谷川(現・外苑西通り)までの広大敷地。保科著には、こう記されていた。

 「(東京体育館)あそこはね、茶畑だったのよ。段々になってね、点々とお百姓さんの家があって。その下の川に観音橋があった。旧邸南が八幡様で、その向こうに南邸、里様(徳川慶喜4男・厚夫人)がいらっしゃった」

 徳川旧邸は「まだ遠慮があって」平屋建ての質素な家屋。天璋院、本寿院、実成院と所帯が多く、継ぎ足しで広がっていたとか。そして大正6年の地図が面白い。徳川邸はふたつ。以下、保科著を要約。

 「元の徳川邸は増築を重ねて住みにくい屋敷だった。大正3年に工事を始め、大正6年末に新邸が落成。敷地は1万数千坪。人造石壁90余間、中央に花崗岩の柱の檜扉の表門。砂利を踏んで中央の植え込みを回って洋館玄関まで約半町。御殿建坪900坪に附属家。庭の一部に総檜白木造り・銅葺の15坪ほどの東照宮(神殿)。江戸城紅葉山にあった家康の等身大木像を安置。以後、毎年正月に旧幕臣と子弟が集い、家康命日の9月17日にも園遊会が開催された」

taisyotokugawa_1.jpg 大正15年(下)地図には縮小された旧邸が認められる。これは明治20年に明治天皇が行幸された際の家を「日香苑」として保存していたもの。大正14年(1925)9月未明の不審火で旧邸母屋焼失。放火犯は翌年逮捕で懲役15年の判決。被差別者らの運動組織・全九州水平社委員長らが「いわれなき差別の原因は徳川幕府の歴史的責任」と主張し、直談判すべくも面会出来ず。抗議文にも未回答ゆえ、同志らがピストル、刀を用意で逮捕。そんな放火背景があったらしい。

 家達一家は旧邸に残された「日香苑」を建て増して仮寓し、西洋館の落成を待ったとか。そして昭和18年(1943)、東京都が紀元2600年事業一つ「武道館」建設敷地として徳川邸に着目。長子・家正との交渉で譲渡が成立。徳川宗家は渋谷区原宿3丁目(東郷神社側)へ移住。

 なお同地譲渡後は戦争で「武道館」建設は中断。戦争中は出征兵宿舎に。戦後は接収されて将校クラブ「マッジ・ホール」になる。同ホールに関しては、赤坂真理『東京プリズン』登場で後述予定。次はイギリス留学から戻った徳川家達について。

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勝海舟と天璋院とクララ(14) [千駄ヶ谷物語]

15saiiesato_1.jpg 徳川家達についての続きです。徳川宗家となった家達は、駿河府中城主(70万石の殿様)になった。明治元年に〝五稜郭討伐〟を命じられるも幼過ぎて免除されて駿河に戻った。和宮も明治2年に京へ戻った。同年の「版籍奉還」で静岡藩知事。明治4年の「廃藩置県」で東京へ。

 保科著にこう記されていた。「天璋院は千代田城開城後、いったん一橋家に落ち着いたが、築地の一橋下屋敷、青山の紀州邸、尾州下屋敷の戸山邸(小生自宅前の現・戸山公園)と替わり、(明治5年に)赤坂の福吉町の旧相良越前守邸に移った。ここで静岡から戻った家達と暮すことになる」

 家達は、華族の身分と家禄を得て赤坂暮し。家従6名を残して全免職。樋口著には、同邸購入代金3800両と『勝海舟全集』にありと紹介。小生、この辺は少し詳しい。2011年の弊ブログ「勝海舟旧居巡り」で赤坂氷川町の勝海舟邸を訪ねている。勝は土地売買が自由になった明治5年に、大旗本から2500坪の邸を土地500両、改修500両で終の棲家にした。

 当時の地図もブログアップゆえ、改めて見れば勝が買った柴田邸の北側隣接地が「相良越前守」。元人吉藩主=相良氏ゆえ、ここが家達邸だろう。勝邸と同時期購入で、購入金額も勝が記録ということから、勝の手配と推測して間違いない。

 同屋敷で母代わりの天璋院(篤姫、第13代将軍家定の正室)の他、本寿院m_sibatatei.jpg(家定の実母)、実成院(紀州藩主から14代将軍家茂の実母、和宮の姑)らが家達を迎え育てた。また勝邸敷地内にはホイットニー家も居住。主人ウイリアムは一橋大の前身「商法講習所」から津田仙が設立「銀座簿記夜学校」教師。再来日途中のロンドンで病没し、アンナ夫人が一家を率いて日本に戻った。

 同夫人は49歳で病没。これも「青山外人墓地シリーズ」で、勝の墓誌で眠るアンナ夫人の墓を紹介済。また明治19年、医学を修めた息子が再来日して赤坂病院を開設。娘クララは勝の三男・梅太郎と結婚した。『クララの日記』には明治10年に家達邸に招かれた時のことが記されているそうな。侍のお辞儀で迎えられ、客間はテーブルにブリュッセル絨毯。美しい庭園。老婦人3人が住む家には28人の侍女と~。

 家達はそうした環境で、天璋院の薫風(多分に勝の忠告を受けつつと推測)を受けて勉学。かくして明治10年(1877)に赤坂から千駄ヶ谷へ移住。この時、家達14歳、千駄ヶ谷旧邸で暮す間もなく、イギリス留学へ旅立った。写真は赤坂邸に移った頃だろう幼少・徳川家達(国会図書館「近代日本人の肖像」より)。

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十万坪の徳川宗家邸(13) [千駄ヶ谷物語]

tokugawajisyo_1.jpg 千駄ヶ谷は明治になると、現・千駄ヶ谷駅前の東京体育館、津田塾大から鳩森八幡神社まで、西は国立能楽堂辺り、さらに飛び地で原宿駅辺りまでが徳川宗家・家達(いえさと)邸敷地となる。約10万坪(東京ドーム7個分?)とか。

 寛永4年の「江戸切絵図」を見ると「紀州殿下屋敷」と記された2ヵ所と松平肥前守下屋敷を中心にして、周辺拡大して行ったらしい。現地図に徳川宗家敷地の凡そ図を示せば赤色が旧邸、水色が新邸、鳩森八幡の南側が徳川慶喜の四男・厚邸。10万坪はさらに広かろうゆえ、周辺地も取得していたのだろう。

 徳川邸で育った保科順子著『花葵~徳川邸おもいで話』(1998年、毎日新聞社刊。表紙は新邸イラスト)を読んだが、庶民とは縁遠いおば様方の思い出話構成で検証・資料僅少ゆえ、樋口雄彦著『第十六代徳川家達』(祥伝社新書)やネット情報も交えて、徳川家達(邸)の概要を探ってみた。

 まずは「徳川宗家・家達とは?」。徳川〝御三家〟は、家康の子から別れた尾張・紀伊・水戸藩大名。将軍が倒れたら即御三家の誰かが継ぐシステム。一方、徳川〝御三卿〟もあり。これは御三家が各藩主となって疎遠気味になったゆえ、8代将軍吉宗が次男に田安家を、四男に一橋家を、九代将軍家重の次男に清水家を立たせ、江戸城内堀前に予備後継家として設けたもの。家達は田安家。

hanaaoi1_1.jpg 家達は、田安家5代目慶頼の子。文久3年(1863)生まれ。実母は幕臣・津田栄七の娘。つまり家達と津田梅子(津田塾大創立者)は従兄妹同士。かつ家達次女が鷹司公爵夫人に。その関係なのだろう、同地が鷹司家地になって「津田英語会」校舎がここに完成。うむっ、早くも千駄ヶ谷駅前に津田塾がある所以が解けた。

 次は徳川家達が徳川宗家に至った経緯のお勉強。皇室から和宮が嫁いだ第14代将軍・家茂(元紀州藩第13代藩主)は、慶応2年(1866)に長州征伐途中の大阪城で病没。享年20歳。

 さて、次の将軍選びに13代将軍・家定正室だった天璋院(薩摩藩島津本家養女~篤姫)が田安家達(亀之助)を推すも、和宮はお家大事の時に〝亀さん〟では幼過ぎると一橋慶喜を推して、第15代将軍に徳川慶喜が決定。

 慶応3年、徳川慶喜は大政奉還・王制復古。上野寛永寺で謹慎生活に入り、江戸無血開城。当初は「嫁対姑、皇室対武家」で不仲だった静寛院宮(和宮)と天璋院(篤姫)は、徳川存続のために共闘。勝海舟の力もあって慶応4年、新政府より4歳の田安亀之助(家達)が目出度く徳川宗家と認可。家達は天璋院の下で屋敷を構えて育てられることになる。長くなったので次回へ。

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滝沢馬琴終焉の地(12) [千駄ヶ谷物語]

bakin.jpg_1.JPG 江戸の千駄ヶ谷から、明治の千駄ヶ谷へ進む前に、建築中の国立競技場、明治神宮外苑前の信濃町駅歩道橋下の「滝沢馬琴終焉の地」についても記しておきたい。

 小生の千駄ヶ谷散歩にかかぁが同行した。鳩森八幡神社近くのマンションアパレル社の店頭売りで、かかぁはショールを買い、あたしはマークなし無地の野球帽を買った。国立競技場を一周して絵画館辺りで「疲れた」で、信濃町駅歩道橋脇のカフェで休憩。

 屋外テラスもあるおしゃれな店内。かかぁはジンジャーティとドルチェ。店名は「カフェ・シェーキ―ズ外苑信濃町」。同じ建物内の反対側に日高屋がある。その店先に新宿区指定史跡看板「滝沢馬琴終焉の地」がある。看板には史跡指定年月・平成25年3月。

 小生、4年前の弊ブログ「馬琴旧居巡り」(計7回)で、ここへ辿り着いている。「馬琴終焉の地」は従来研究者らが探すも特定できず。小生も幾度となく一行院辺りを彷徨ったが、新宿の郷土史家・鈴木貞夫氏が、百人町で自身のルーツ調べをしている篠原氏に逢うと、なんと「曾祖父の家が馬琴住居跡でした」であっけなく判明。鈴木氏は「唖然として二の句が継げなかった」と。氏は江戸時代の「沽券図」と明治7年の「東京大小区分絵図」と明治17年測量の「東京実測図」を同一スケールにして検証し、この地を「馬琴終焉の地」と特定した。

 かくして平成25年の新宿区指定史跡になった次第。馬琴の生誕地は深川。元飯田(九段下辺り)の履物屋の寡婦〝お百さん〟へ入夫し、武士を捨て町人読み物作家へ。息子が大名抱医師になって一代士族。神田明神下同明町へ。息子病死後は、孫を士族にすべく御家人株を売りたい信濃町の同心屋敷地と権利を買って転居した。

 『馬琴日記』を読むと、この辺りで暮した江戸人の暮しが伺える。千駄ヶ谷散歩や国立競技場への最寄り駅を信濃町駅にする場合もあろう。そんな時の休憩に「カフェ・シェーキーズ」か「日高屋」に寄った際は、滝沢馬琴や馬琴と喧嘩しつつ挿絵を描いた北斎らに想いを馳せるのもいいかもです。

 写真は日高屋前の史跡看板掲載の馬琴さん。次回の「千駄ヶ谷物語」は、明治時代に千駄ヶ谷に十万坪を有した徳川宗家・家達邸について。

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〝目玉観音〟こと聖輪寺(11) [千駄ヶ谷物語]

kannondou1_1.jpg 「鳩森八幡神社」から「観音橋」へ向かって坂を下った左側に「聖輪寺(観音寺)」がある。外苑西通りからはラーメン・ホープ軒脇から坂を上って、すぐ右側が同寺。寺の少し手前に坂道が二手に分かれてい、左坂に「観音坂」の史跡柱。「観音坂は如意輪観音像に由来する」と記されている。「江戸名所図会」の「千駄ヶ谷 観音堂」を読んでみよう。

 寂光寺より二町ばかり西北の方にあり。観谷山聖輪寺と号(なづ)くる。真言宗の寺に安置す本尊如意輪観音(腕が六本ある)は当寺開山行基大士の彫像にして御丈三尺五寸あり。世俗目玉の観音と字(あざな)し奉る。往古慶応三年の春、盗賊来り。此本尊の御双眼は精金なりと聞伝へ、鑿とりて去んとせしが、冥罰にやよりけん自ら持る所の刃に貫れて死せり。此地の高橋氏某(それがし)目のあたり是をみて驚歎し堂宇を再興す。此故に里民、目玉の観音と字したてまつるよし。本尊縁起にみゆ菊岡沾涼翁の説に、江戸寺院の中、千有余歳を歴たるものは浅草寺と当寺之といへり。

seirinji_1.jpg 縁起曰(いわく)神亀二年乙丒 行基大士東国遊化の頃、同年初夏に暫く此地に息(いこ)ひ給ふ時に如意輪観音、傍の谷より出現し給ひ、大士に霊尓あり。依て仏意の応じかしこにありし古株を仏材として此本尊を彫刻し奉る、故に観音聖輪の号ありといへり。

 現・聖輪寺は今風建築で、残念ながら浅草寺匹敵の歴史があるとは伺えぬ風情。古地図を見ると、現・外苑西通りは〝観音橋〟で行き止まっている。昭和31年の地図もそうで、現・青山通りへ抜ける外苑西通り(キラー通り)は、前回の東京オリンピック頃の開通か。目下は環状4号線として東京ぐるっと全開通が計画中とか。

 さて、田畑と寺社仏閣が散在した長閑な江戸時代の千駄ヶ谷も、明治に入ると明治神宮、神宮外苑、国立競技場、赤坂御所、新宿御苑の皇室御料地化へと周辺が大激変。千駄ヶ谷にも十万坪敷地を有す徳川宗家・家達邸が誕生します。

 2020年の新国立競技場の千駄ヶ谷、アパレルミニメーカー群居の千駄ヶ谷、連れ込み旅館街の千駄ヶ谷、その前は徳川宗家邸の千駄ヶ谷へ。千駄ヶ谷、面白過ぎです。次回は徳川宗家・家達について。

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お万榎・遊女の松・太神宮(10) [千駄ヶ谷物語]

enokiinari_1.jpg<お万榎> 鳩森八幡神社から南東へ坂を下ると、左側に小さな「榎稲荷」がある。淫祠っぽいのは、以下の〝榎逸話〟に由来かしら。

 昔は瑞円寺の南側「榎坂」に通称「お万榎」あり。二股に分かれた幹元部に穴ありて〝女陰〟。性的信仰になって「内藤新宿」の遊女らが拝みに来たそうな。また仙寿院創建「お万の方」(徳川家康の側室。頼宣、頼房の生母)が、この榎の枝で作った楊枝で歯痛が治ったことから霊木「お万榎」との説もあり。その有難い榎は戦災で焼失。

<遊女の松> 「江戸名所図会」の「寂光院・遊女の松」の文を要約する。寂光院は麹町地獄谷(現・三宅坂辺り)にあったが、御城廊御造営で現・国立競技場の地へ移転。同地は往古の奥州街道にして廣谷の原野で松が鬱蒼として〝霞の松〟と号したが、三代将軍家光が鷹狩の際に同寺で休息。そこに江戸城から飛び去っていた「遊女」と名づけた愛鷹が飛んで来て松の枝に止まった。将軍大いに喜んで「遊女の松」と名づけた。

otakanomatu_1.jpg 元禄12年(1699)、日蓮宗の〝不受不施派弾圧〟によって「寂光寺」は天台宗に改め「境妙寺」に変更。前回アップの江戸切絵図に渋谷川対岸に境妙寺あり。大正7年(1918)、競技場造成のため現在の中野区上高田に移転。

 また「遊女の松」は、地名より「霞の松」とも呼ばれて同地に残っていたが、大正8年に二代目の松になって「御鷹の松」と名を改めて競技場代々木門内に移設。昭和39年の東京オリンピックの拡張工事で、現在の競技場と絵画館の間に移設。今は国立競技場建築を見守っている。

<太神宮> 「江戸名所図会」には〝寂光寺と遊女の松〟の奥に「太神宮」が描かれている。同書の説明は、~萬治年間に関東に大疫病が流行し、富士の根方より神送りして此地に祭りぬ。然に其神輿の中に太神宮有り。依て此の地鎮護為同所八幡宮の地に社を建て是を勧請す。

taisingyu_1.jpg 「お万榎」は「榎稲荷」へ。「寂光寺」は「境妙寺」になって中野区上高田へ。「遊女の松」は「御鷹の松」になって絵画館脇にある。では「太神宮」は何処へいったのだろうか。これは明治40年頃の「神社合祀(神社合併政策)」によって、鳩森八幡神社の末社「明神社」として同境内に遷座されている。それぞれ激動の歴史をしっかり生き抜いているから面白い。

 奈良時代からの「神仏習合、別当寺」、江戸時代の「お万榎~淫祠」や「不受不施派弾圧」、明治維新の「神仏分離令、廃仏毀釈」。千駄ヶ谷の寺社調べは、お勉強の宝庫です。

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八幡神社別当・瑞円寺の無縁墓塔群(9) [千駄ヶ谷物語]

zuienjihondo_1.jpg 瑞円寺は「江戸名所図会」で〝鳩森八幡神社の別当は真言宗高雲山瑞円寺〟と記されただけで、絵もなかった。当時は〝鳩森〟を記すこと=別当寺・瑞円寺の説明になったのだろう。

 別当寺が亡くなったのは尊王攘夷、討幕の明治政府が〝神道国教化〟を浸透すべく「神仏分離令・廃仏毀釈」の暴挙展開によるのだろう。従来の神仏習合、寺が神社管理を行う事を禁止。神社は菊の御紋を戴いて〝神の国〟へ。併せて全国津々浦々に明治天皇の御真影が浸透した。

 かくして「明治神宮」「明治神宮外苑」「赤坂御所」などが造営され、「新宿御苑」も皇室御料地へ。国立競技場も当初は〝明治神宮外苑競技場〟で、学徒出陣壮行会・会場にもなった。それら明治・大正時代に造営の広大諸施設に囲まれて、江戸時代がポツンと残されて肩身狭そうな千駄ヶ谷のお寺たち。徳川宗家を継いだ徳川家達邸もあった。

zuienmuen_1.jpg ここではもう少し瑞円寺について「渋谷区史」などから要約してみる。

 曹洞宗高雲山金剛院。千駄ヶ谷八幡の別当寺。江戸時代初期に寺領寄附が行われたらしい。当初の境内は3534坪。本尊は釈迦如来。塔頭江心院、鎮守稲荷社、白山社などがあって「東都歳時記」の弁財天百社参りに30番とあり。参拝者も多かったらしい。安政2年の大地震、翌年の風害、前述の神仏分離などで衰退。明治42年に本堂を再建らしい。

 現・瑞円禅寺の山門を入った正面に、驚くほど多数の無縁墓塔や地蔵類が小山を成して、歴史の重さを物語っている。昨年、この景とそっくりに描かれた絵を見たばかり。画面一杯に無縁墓塔や地蔵類が描かれ、余白にびっしりと文字が書き込まれていた。画家の名は不染鉄。その文一部はこうだ~。

 お墓は淋しいと言ふけどそうでもないよ。色々な人が沢山いてとてもにぎやかだよ。男も女も若い人年より娘さん赤ちゃん、どんな人もいるねぇ。元禄だの寛永だのと書いてあるのもある。苔がついて、白緑色のはん点がついて大変美しい。(中略)色っぽい目の年増女もいたろう。見たかったなぁ。がめつい奴もいたろう。(略=今はお墓になって)皆な仲よく、けんかもしない、いぢわるもしない(略)。

 此のお地蔵様達は父のようでもあり母のようでもある。(略)先生や友達が出てくる。(略)皆様のお墓まいりもちっともしないが、今思い出でむねが一パイになってこの図をかいているよ。(略)有名になれず、こんな画をかくようになっちゃった、だけどいゝよねぇ。

 描かれたのはたぶん奈良あたりのお寺の景だろうけれども、東京は千駄ヶ谷でもそんな気持ちにさせてくれるのが鳩森八幡神社の元別当寺・瑞円寺。いゝよねぇ。

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鬼平の鳩森八幡神社(8) [千駄ヶ谷物語]

sendagayakotizu1_1.jpg 池波正太郎が「江戸名所絵図」や「江戸切絵図」を見て、〝鬼平シリーズ〟で千駄ヶ谷・鳩森神社を舞台に4作書いている。その舞台設定や如何に~。

 埋蔵金千両:24歳の不細工な大女おけい、55歳の万右衛門の二人が、千駄ヶ谷「立法寺」敷地内あばら家に住んで3年。万右衛門の健康が思わしくなく、彼はおけいに5年程前まで小金井の万五郎という大泥棒だったと告白。千両程を埋め隠していると告白~。「立法寺」は千駄ヶ谷村の現・国立競技場の地にあり、安政2年に焼失して再建も、大正8年(1919)の明治神宮外苑の造営で杉並区和田に移転。

 神明の次郎吉:題名主人公は盗賊。旅の途中で心臓発作で苦しむ僧を介抱。岸井左馬之助へ渡してくれと遺品の短刀を預かった。押上の寺に寄宿の岸井は遺品を受け取ると、次郎吉の労に感謝して〝五鉄〟で御馳走。それを〝おまさ〟が見て、盗賊・次郎吉と見破った。尾行すると次郎吉は千駄ヶ谷八幡宮の旗本の下屋敷と道を隔てた畑の中の百姓家(盗人宿)へ入って行った。〝彦十〟が八幡宮門前茶屋で聞き込み。鬼平が八幡宮の〝鞍懸松〟と道を隔てた茶屋で待機して~。

 泣き男:主人公は火付盗賊改方の勘定方・峰太郎。非番日に内藤新宿から千駄ヶ谷八幡宮へ散歩。門前は旧鎌倉街道で人通りも多い。門前茶屋で酒を呑んで外へ出た。よろけて浪人に当たった瞬間に身体が宙を舞った。屈辱と痛さに境内でしばし休んだ後、小川沿いに渋谷方面へ。そこで先刻の浪人・青木を発見。話している相手は見知った座頭・辰の市。眼が開いていた。青木は盗人宿の他に八幡宮の西方の百姓家に女賊お絹と暮していた~。

 ふたりの五郎蔵:密偵・五郎蔵と髪結い・五郎蔵の物語。髪結いの五郎蔵の様子がおかしい。盗賊・新五郎に女房をさらわれたのだ。別の場所で密偵が引き込み女を発見して後をつけると、女は八幡宮の南の裏、仙寿院の傍道の百姓家(盗人宿)へ入って行き、そこで五郎蔵を見た~。

 どの小説も千駄ヶ谷・鳩森神社周辺の百姓家を盗人宿などに設定で面白かった。挿絵は「江戸切絵図」の千駄ヶ谷・鳩森神社周辺図。

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江戸名所図会の鳩森八幡宮(7) [千駄ヶ谷物語]

hatimanguu_1.jpg 『江戸名所図会』に「千駄ヶ谷八幡宮」が広大な俯瞰図で描かれている。まずは同文を読んでみる。

 同所(観音堂)一丁計(ばかり)西にあり。此辺の総鎮守にして例祭は九月廿七日なり。別当は真言宗高雲瑞圓寺と号つく。

「鈴懸松」門前に松の老樹有り。寛永の頃、大樹此地に御放鷹の時、御鷹の鈴、此松の枝にかかりしてなり。故に名とすと。

 社記に云く往昔此地深林の中に時として瑞雲現しける。又或時、碧空より白気降りて雲上に散す。村民怪むて彼林の下に至るに忽然として白鳩数多(あまた)西をさして飛たれり。依て其霊瑞を称し小祠を営み名つけて鳩森といふ。貞観二年慈覚大師東国遊化の頃、村民等大師に鳩森の神体を乞求む。依て宇佐八幡宮城州鳩の嶺に移り給ふ。古を思ひて神后皇后応神天皇春日明神等の尊体を作り添て正八幡宮と崇め給ふ。遥に後、久寿年間渋谷正俊領地に鎮座の御神なるを以て、金王丸生前隋身の本尊恵心僧都の作の弥陀如来の像を本地仏として社を造営して此地の生土神と称し奉りしより霊応は照々として日に新なり。

 南向亭云く当社の前路は鎌倉街道の旧跡にして今も鎌倉路と字せり。青山の原宿より此地をへて大窪へかかりし也とぞ。北条家分限帳島津孫四郎所領の中に千駄ヶ谷の名有り。

 さて、描かれた絵の表門、富士塚、神輿蔵などの位置は現在も同じ。表門前が鎌倉街道で、荷馬が行き交っている。表門前が現・将棋会館。鎌倉街道は武士らが〝いざ鎌倉〟と馳せ参じられるように関東各地へ伸びた道で、鎌倉から上道(長野方面)、中道(埼玉・群馬方面)、下道(奥州街道)など。江戸時代の五街道開通で存在価値は薄れるも、今も「旧鎌倉街道」痕跡が各地に残っている。

 八幡宮前の道は中道で、鎌倉を出発点してここ青山~八幡宮~(新宿御苑と戸山公園で痕跡なく)~早稲田~板橋~宇都宮へと痕跡を残している。小生の現・在住地の東側を通って、さらに若い時分に住んでいた早稲田の某ビル近くの小道に「旧鎌倉街道」の標石があったことを思い出す。

 『江戸名所図会』に描かれた門前「鈴かけ松」は現在ないも、今は鳥居前や富士塚脇に大銀杏がある。これらは戦災を免れて〝御神木〟とか。推定樹齢400年。『江戸名名所図会』刊は天保5~7年(1834~6)ゆえ、当時は銀杏より松がメインだったのだろう。

 この絵の背景に「新国立競技場」を描き込めば185年の時空が結ばれるが、この長閑な寺院風景図を見た池波正太郎は〝鬼平〟4作に「千駄ヶ谷八幡宮」を登場させている。面白そうゆえ、その4作の設定を次回に簡単紹介してみる。

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千駄ヶ谷5丁目で大島裏沙漠を見ゆ(6) [千駄ヶ谷物語]

uragousei.jpg 千駄ヶ谷散歩が続いています。

 先日は明治通りと甲州街道の交差点、新宿4丁目門の雷電稲荷奥「新宿4丁目ビジネス旅館街」看板(同地が〝木賃宿街〟だった大正12年頃に、林夫美子が1泊30銭で泊まったことは余りに有名)を見上げ、同交差点を渡って「天竜寺」の先、高島屋の反対側の路地に入った。

 そこは「新宿高校」校庭沿いで(既に番地は千駄ヶ谷6町目)、「新井白石終焉の地」看板手前、千駄ヶ谷5丁目辺りで〝緑の建物〟あり。壁に幾枚も貼られた写真を何気なく見れば、な・なんと!「伊豆大島・裏砂漠」で驚いた。

 改めて建物を見れば「若松プロダクション」の表札。亡き若松孝二監督のロケ写真展示で、大島・裏砂漠は「海燕ホテル・ブルー」のロケ現場だった。その他に同映画の雨の大島海岸ロケ写真もあり。

 散歩には思わぬ発見・出逢いがある。帰宅後に調べれば、同監督は2012年秋に76歳で亡くなっていた。同映画関連のネット情報を見れば、撮影協力で「おミッちゃん」こと佐々木美智子さんの名がクレジット。おミッチャンと云えばゴールデン街で、ゴールデン街の「渚ようこ」さんが若松監督の一周忌イベントで唄っている写真もあった。

 その一周忌イベントは、大島土砂災害の最中だったか。おミッちゃんとは島やゴールデン街で逢い、「渚さん」の店でも何度か呑んだこともあった。(追記:20018年10月1日の夕刊・訃報に、渚ようこさん9月28日に心不全のため逝去の記事があった)

 同映画は波浮の町並、裏砂漠、島の海岸など大島ロケ。関連インタビューのサイトでは若松監督が「僕は若い頃に伊豆大島で映画を3本撮ってるから、低予算で行ける伊豆大島がいいなぁと思った」という内容の談が紹介されていた。

 千駄ヶ谷調べは、妙に「大島裏砂漠」と縁がある。千駄ヶ谷が〝連れ込み旅館街〟だった昭和32年頃の新聞縮刷版を見ていたら、「裏砂漠テキサスコース」で東海汽船VS地元観光業者の騒動が載っていた。

 若松監督の大島裏砂漠ロケ写真を載せたかったが、著作権もあろうゆえ、小生が撮った裏砂漠の三枚合成写真をアップ。三枚合成でも裏砂漠はほんの一部。三原山裏側には、迷子になるほど広大かつ幻想的な黒い砂漠が広がっています。大島観光をぜひどうぞ。以上、千駄ヶ谷シリーズの余談。

 次回は「江戸名所図会」に描かれた「鳩森八幡宮神社」について。

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仙寿院の庭は〝新日暮里〟(5) [千駄ヶ谷物語]

senjyuin_1.jpg 江戸時代の長閑な風景を有した仙寿院へ思いを馳せたく「江戸名所図会」(第九編に収録)を読む。題は「仙寿院庭中」。 

 同所(国立競技場敷地内にあった寂光寺から)二丁ばかり西南の小川(渋谷川)を隔てて法雲山仙寿院といふ日蓮宗の寺の庭をしか呼べり。此辺の地勢をよび寺院の林泉の趣、谷中日暮里に似て頗る美観たり故に日暮里に相対して仮初(かりそめ)に新日暮里(ひぐらしのさと)と字せり。弥生の頃爛漫たる花の盛りには大(おほい)に群集せり。当山は紀州公御母堂養珠院日心大姊正保紀元甲申草創あり。当寺の鬼子母神は同大姊(し)甲の延嶺にして霊姊を感じ大野の辺の土中に得られて後、当寺開創落成の日安置ありしとなり~。

 絵は航空写真のような俯瞰図(ブログ画像ではなく、リングからフルサイズでご覧下さい。図中文字まではっきり読めます)。画面右下に流れるのは渋谷川(隠田川。今は暗渠になって外苑西通り)に沿った道を、多くの人が歩いている。参道には明治元年まで「お仲だんご」あり。お仲さんは美人で広重も描いたとか。

ehonsennjyu_1.jpg 惣門から坂を上って中門へ、本堂、庫裏。そして左側に鳥居。「神仏習合」だな。こちらに鬼子母神、大黒天、花山明神、稲荷弁天、芭蕉塚が描かれている。それら奥に、眺望良くて谷中の日暮里に似て称された「新日暮里」の文字あり。

 古地図を見ると、そこは寺院のやや西南西方向。境内4653坪(東京ドームの3分の1ほど)ゆえ、庭というより境内外の風景も含んで〝新日暮里〟なのだろう。

 一方『絵本江戸土産』には2点の絵。題名「青山・新日暮里」(第三巻に収録)は麗らかな風景を楽しむ人々が描かれ、題名「仙寿院」(第九巻にアップ画像収録)は、遠く富士山を望む絵が描かれている。「絵本江戸図会」「絵本江戸土産」共に国会図書館デジタルコレクションより。

 ここで新たな疑問。これらに描かれたお寺の絵は、概ね広大かつ美しい景観の境内が描かれているも、今の都内の寺はお墓ばかりで微塵の趣もない。これは何故かと考えてみた。「百万都市・江戸」に比し、現東京23区人口は921万人。東京都全体の人口は1300万人。亡くなる方=墓需要が膨大化しているってことだろう。このブログには広告が入るが、千駄ヶ谷のお寺を記し始めた途端に、千駄ヶ谷の寺の墓地販売広告が入るようになってビックリした。江戸は遥か夢のまた夢になり申した。

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