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平和憲法=幣原総理の師、H.W.デニソン [青山・外人墓地]

sedenison2_1.jpg 梅渓昇著『お雇い外国人』よりヘンリー・ウィラード・デニソン(Henry Willard Denison)の経歴と仕事をまとめる。

 明治で重要な外交は、列強帝国主義によって強制された不平等条約の撤廃=条約改正と、日清・日露戦争がらみの交渉だろう。これらすべてを日本の身になって尽くしたのがデニソン。彼は弘化3年(1846)、ヴァーモント州生まれ。NYのコロムビア・カレッジ卒後後に来日し、横浜のアメリカ副領事。明治13年(1880)に米国公使の推薦で外務省顧問に招聘。

 以来、歴代外相の条約改正案の英文起草、具体案作成。治外法権の撤廃にも尽くし、日清戦争では陸奥宗光外相の背後で三国干渉処理に参画。日露交渉では小村寿太郎外相の影で交渉電文のほとんどを書いた。

 その含蓄ある電文には日本の平和への熱意、ロシアの無理強いが書かれて、これら文書が発表されると英国外交官は〝千古の名文〟と推賞。欧州各国が一気に日本寄りになったとか。デニソンは大臣の腹の括り方までを確かめて、文章の柔・硬を書き分けたとか。筆任せに走る文を嫌って何度も辞書をひくことを勧めた。先方(読む側)の身になった文章こそ相手の胸を打つ等々。

 ポーツマス講和会議では、米国大統領に「君は米国人なのか、日本人なのか」と言わしめたほど。歴代外相の絶対的信任を受けた30数年を経て、大正3年(1914)に顧問在任中に病死。苦労を共にした小村寿太郎墓地の近く(1種ロ8区18-19側1番)に眠った。

denisonhaka_1.jpg 幣原喜重郎が若き外交官時代に、軍部に抵抗した〝幣原外交〟で活躍し、総理になって平和憲法を誕生させたのも、若き日にデニソンとの子弟関係で育まれてのことらしい。以下、宇治田直樹著『幣原喜重郎』を参考にする。

 ~若き外交官・幣原は32歳で所帯を構えた翌年の頃、官舎隣が外務省顧問のデニソン宅だった。二人は毎朝の皇居周り散歩を日課とした。省内でも暇があれば話し込んだ。

 そうした日々を通してデニソンは幣原青年に、外交官かくあるべきという信条、特に〝正直〟の大切さ、外交文書の書き方、歴史的逸話など持てる知識のすべてを授けたらしい。幣原青年は一時帰国するデニソンの部屋整理を手伝った際に、日露交渉の原稿綴りを見つけた。「この資料を下さい」に、デニソンはそれを燃えるストーブに投げ込んだ。「この交渉は小村外相の仕事で、私が草稿を書いたと流布されれば、外相の威信も日本の威信も落とすことになります」

 デニソンの〝影のスタッフ〟ならではの身の処し方は、後の幣原総理が「象徴天皇・第9条」等の平和憲法が己の発案であり、かつ成立経緯をも胸にしまったまま墓場へ持っていった矜持と共通するような気がしてならない。何も成せぬのに、あれもこれも己の成果だとわめくあの方々にも聞かせてあげたい話です。


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