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荷風と下水道とバルトン(1) [青山・外人墓地]

burton1_1.jpg 「青山・外人墓地」シリーズを終わろうと思ったが、荷風がらみがあったので続ける。ウィリアム・K・バートン(William Kinninmond Burton 和名はバルトン。1856年5月11日~1899年8月5日)は、すでに紹介のH.S.スペンサーが近代水道の父なら、彼は近代〝上下水道〟の父。

 「ウィキペディア」を見ると「渡欧中の永井久一郎(荷風の父)と知り合い、彼の推薦でコレラなどの流行病に苦慮していた明治政府の内務省衛生局のお雇い外国人となって明治20年(1887)に来日」とあり。荷風好きの小生が、これに食いつかぬわけがない。

 加えて浅草「凌雲閣」の設計者で、写真普及にも尽力。「シャーロック・ホームズ」のアーサー・コナン・ドイルが幼年期にバルトン家に預けられて、二人は幼馴染だったなど面白そうなので、さっそく掃苔した。

 場所は一般墓地「1イ11号10-11側」。南中央口寄りの「西15通り」を入った辺り。「日本下水文化研究会」が命日を「衛生工学の父、上下水道の父=バルトン忌」として曾孫(バルトンは日本人妻・満津と結婚。長女・多満さんの孫?)、玄孫(津軽三味線のケビン・メッツ氏)他も参加の墓参、また講演会など活発展開の様子ゆえ、手入れ行き届いたお墓と思いきや、相当に荒れた感じだった。

burtonhils_1.jpg 墓標を右寄りから見れば背後に東京ミッドタウン(54階・248㍍)、左寄りから見れば後ろに六本木ヒルズ森タワー(54階・238㍍)が見える。凌雲閣から100年余で、日本人はその5倍もの高さで仕事(生活)をするようになっている。

 墓標には英文の他、日本語で「前工科大学教師 内務省顧問技師 台湾総統府顧問技師 勳四等 ダブルユー、ケー、バルトン君墓 千八百五十六年五月十一日生於蘇国 千八百九十九年八月五日没於東京 友人建之」。

 以下、和名バルトン記述で彼の経歴を「日本下水文化研究会」サイトの「’06バルトン生誕150年記念行事」記事他からまとめてみる。

 彼はスコットランドのエディンバラ生まれ。上下水道技術者としてロンドンで活躍。明治20年(1887)、疫病流行に悩む明治政府(明治23年、コレラ死者・全国で3200名)の招聘で31歳で来日。帝国大学工科大学で衛生工学講座の初代教授(特別講師)。多くの優れた上下水道技術者を育成。また内務省衛生局顧問技師として東京・神戸・福岡・岡山などの上下水道計画の基礎を作り、今日の衛生工学、環境工学の原点になった。台湾の環境改善にも功績を残した。12年間に渡る仕事を経て、家族とスコットランドへ帰国休暇と思った直前、病により東京で逝去。享年43歳。

kafutitisyo_1.jpg 荷風好き小生は〝父・久一郎による推薦〟については自分で調べなきゃいけない。多数関連書から秋庭太郎著『考証 永井荷風』にこんな記述を見つけた。「明治17年5月、内務書記官として内務省衛生局に勤務していた久一郎は、英国ロンドンに於ける万国衛生博覧会に日本政府代表として出張。博覧会後は欧州各国の衛生事情を視察して翌年9月に帰朝」。そして、こう続く。

 「久一郎は欧州各国の衛生会議に出席。且つ彼地の衛生事情を視察し、その間に棋界の権威バルトンと交わり、帰朝後上司たる内務省衛生局長長與専斎にバルトルの招聘方を進言」。やはり荷風の父による推薦・来日らしい。写真下は永井久一郎述『巡欧記実衛生二大工事』(明治20年刊)

 ちなみに久一郎帰朝時は、荷風7歳。預けられていた鷲津家から小石川金富町に戻って、小日向の黒田小学校に入学。細馬宏道著『浅草十二階』には「荷風は父親に連れられて十二階を訪れたことを後年述懐している」なる記述があるが、さて、それはどの書に記されていたかの言及はない。長くなったのでバルトル設計の凌雲閣や写真普及についは次回。


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