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迷ひ来ぬビルの手摺の秋茜 [花と昆虫]

tonbo2_1.jpg 早くも都心にセミが鳴いたそうです。新宿・大久保のマンション七階ベランダに「アキアカネ」が止まっていました。

 その特徴は、胸の黒く太い模様。似た「ナツアカネ」は真ん中の黒模様先端が平らで、これは尖っているから「アキアカネ未成熟♀」らしいです。トンボは胸の模様で〝種の識別〟をするとは知りませんでした。

 アキアカネ=秋茜=赤トンボは、梅雨時に現れるそうですが、秋の季です。やはり赤トンボの群飛=秋到来の情景がいいなぁと思います。コヤツは少々〝お先走りし過ぎて〟ちょっと草臥れた感じでした。世の中、落ち着きが足りないような気がしています。


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スペイン内戦で戦死のジャック白井 [青山・外人墓地]

sirai1_1.jpg ピカソ『ゲルニカ』のスペイン内戦で、米国から義勇軍参加で戦死した「ジャック白井」がいる。その名が青山霊園「解放運動 無名戦士の墓」に刻まれているらしい。ジャック白井の実際の墓は、ファシスト軍(民主主義を否定した独裁主義の軍)の弾丸が彼の頭部をぶち抜いたマドリードの西、ブルネテのオリーブの木の下。

 スペインと云えば、若者らにとって今はサッカーだろうが、かつて第二次世界大戦の前哨戦のようなスペイン内戦があり、そこでジャック白井が死んだ。川成洋『ジャック白井と国際旅団』、石垣綾子『スペインに死す』(オリーブの墓標 改訂版)を読み、勝手解釈を加えてまとめてみた。

 白井の出自は不明。函館生まれ。修道院育ち。波止場で〝カンカン虫〟など子供の肉体労働から、搾取されるばかりの下級船員。そして貨物船のコックになってニューヨークで密入国。昭和4年(1929)、日本人レストランで働き出した。ややしてウォール街暴落から世界恐慌へ。街に失業者が溢れ、ストとデモの日々。彼は次第に労働運動に目覚めて行った。

 昭和9年(1934)、圧制続きのスペインで民衆が武装蜂起の「10月闘争」。解放区を得るも軍隊に鎮圧された。その指揮官がファシストのフランコ将軍。ムーア人傭兵を指揮して残虐を繰り広げたらしい。2年後の昭和11年(1936)、総選挙で人民戦線内閣が成立するも、地下に潜ったフランコらはモロッコ領でクーデター。彼らになんと独・伊が加わった。

mumeisensi1_1.jpg ドイツはその3年前にナチス独裁体制確立。イタリアはその10年前からムッソリーニ体制。日本でも昭和12年(1937)に日中戦争勃発で軍部暴走が始まる。かくしてスペイン内戦は、第二次世界大戦の前哨戦の呈。共和国側にソ連が参加。仏米は不干渉宣言だが〝ファシストから民衆を守れ〟と秘密裏に各国の義勇軍が次々にスペインに入った。

 ジャック白井らの米国義勇兵がスペインに入ったのは昭和11年(1936)12月。だが共和国側は社会主義者、アナキスト派、ソ連の戦略・指揮に統一なし。加えて義勇兵に満足な武器もない。片や独・伊軍+残虐傭兵を率いるフランコ軍。勝てるワケもない。

 ジャック白井は前歴コックで炊事班だが、次々に犬死する仲間に我慢できずに歩兵に。翌年7月、彼らがマドリードの西、ブルネテの谷に到着すれば、そこはすでに独・伊砲兵隊、ムーア人部隊に囲まれていた。動きがとれず食料も尽きた。「俺がとってくる」と塹壕から出た白井の頭を銃弾が打ち抜いた。享年37歳。

 昭和14年(1939)、フランコ将軍の独裁政権樹立。内戦死者50万人、処刑数万人、亡命者多数とか。同年に第二次世界大戦突入。内戦疲弊のスペインは独・伊に曖昧な態度で参戦を拒み続け、フランコは昭和50年(1975)没まで独裁政権を続行。

 ジャック白井は死後30年後の昭和40年に「解放運動 無名戦士の墓」の銅板にその名が刻まれたらしい。同墓地には主権在民、戦争反対などを主張して逮捕・投獄・拷問された人々(2004年時点で3万余名)の名が刻まれて納められているらしい。

m_takebasijiken4_1[1].jpg 同墓は青山霊園の東端にあるが、その反対側(外苑西通り側)窪地に明治11年の近衛兵決起「竹橋事件」で53名が銃殺された碑はあることも忘れてはいけない。貧しき農家青年らで構成された兵士らが西南戦争に駆り出され、生き残った兵らは相変わらず月給数円。陸軍卿の山縣有朋(やまがたありとも)は1400円の月給。金銭・権力欲しいままの明治政治家への不満で立ち上った彼らを銃殺する3日前に「軍人訓戒」、それが絶対君主の「軍人勅論」になって「大日本帝国憲法」に至る。

 今、日本の「平和憲法」を「大日本帝国憲法」に戻そうと目論む巨大右翼団体(各神社の神道系諸団体+仏教系宗教諸団体などで構成。ルーツは「成長の家」の右派学生信徒組織)が、現内閣を支える(=巨大集票を稼働)見返りに「改憲」を要求らしい。若き著者・菅野完がマスコミもタブーだった『日本会議の研究』を刊。目下、新書のベストセラー中。


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凌雲閣設計と写真のバルトン(2) [青山・外人墓地]

ryuunkaku2_1.jpg 子供時分に、こんな歌を唄った。いろはに金平糖/金平糖は甘い/甘いはお砂糖/お砂糖は白い~(略)~黄色いはバナナ/バナナは高い/高いは十二階/十二階は恐い~ きっとこの歌を唄った最後の世代だろう。昔、バナナは病気にならないと食えぬ高価食材。それはどうでもよくて、その浅草十二階・凌雲閣の設計がウィリアム・K・バートン(和名バルトン)だと今になって知った。

 以下、細馬宏道著『浅草十二階』を参考にする。開業は明治23年11月(荷風11歳の時)。構造は10階まで煉瓦八角形。その上に木造2階で計12階、52㍍。バルトルは自国・英国の給水塔をヒントにしたらしい。内径11㍍、建坪37坪。真ん中に「日本初のエレベータ」。上下二対。轟音を発し8階まで約30㍍を2分で昇った。

 当初の売りが、このエレベーター。施工は東京電燈㈱(現・東京電力)。駆動は7馬力モーター。2~7各階に6、7店舗。8階から9階へは階段。中央らせん階段で10階の展望室へ。さらに木造建築で12階まで登れた。

 眼下南東に「ひょうたん池」(現・興行街六区に沿った東側)、北は田圃の中の「吉原」、西は隣接「花屋敷」。だがエレベーターは故障続きで翌24年に警察通達で停止。以来、穴が空いたままで、エレベーター復活は大正3年。

 エレベーター無き後の売りは、階段壁面展示の写真「百美人」。投票で順位を決める美人コンテスト。撮ったのは小川一眞。バルトンも写真家で、二人の関係も知りたくなってくる。

 当時の写真は湿板から乾板への過渡期。湿板は長時間露光で、その場で現像。乾板になると露出時間が短くて〝早撮り〟の異名。このガラス乾板は英国で明治10年頃に普及し、バルトルは同国の乾板写真で名を成していた。乾板は明治16年に江崎禮二(後に凌雲閣社長)が日本に個人輸入。

 小川一眞がバルトルと出会ったのは、明治20年8月の皆既日食。米国の撮影隊に参加すれば、そこにバルトルがいて、小川は彼の撮影パートナー兼通訳になった。明治21年、バルトルは磐梯山噴火を撮影。明治22年、バルトルは榎本武揚会長「日本写真家」初代メンバーに。かくして凌雲閣の写真展示は小川の「百美人」から「吉原美人」「日本百景」「シカゴ万博」など次々にシリーズ展示。

 バルトルも明治24年に『実地写真術』を刊。同書は国会図書館デジタルコレクションでネット閲覧可能。前書きに~今から十年前に余が英文を以て記述し、其後、今日に至るまで数回の改良を加えたる写真術の小本の訳をここに~と書かれ、「東京帝国大学工科大学に於いて ダブリー・ケー・バルトン」とあった。

 明治24年10月、マグニチュード8の濃尾地震。死者7千名。バルトンと小川一眞は地震学者ジョン・ミルン と共に現地入り。翌年に写真集『日本の大地震』を刊。著者:ミルン&バルトン/製版印刷:小川一眞。なおミルンも明治9年来日のお雇い外国人。明治9年には伊豆大島・三原山噴火も調査。〝日本地震学の父〟。

 明治27年6月、今度はマグニチュード7が東京を襲った。凌雲閣に怪我人なしも亀裂が生じて大改良工事。地震から一ヶ月後に日清戦争。凌雲閣は戦争画や戦地ジオラマが展示された。

 バルトルは明治29年(1896)、台湾全土の衛生工事調査、都市部の上下水道調査を終えて帰国した翌年に病死。日本人妻「満津」との間に生まれた長女「タマ」を遺して逝った。設計者没に合わせたように凌雲閣は次第に人気凋落。六区は活動写真全盛。凌雲閣は社名を「十二階」に変えて演芸場になった。十二階下は銘酒屋(私娼窟)になっていた。ちなみに荷風は明治41年に帰朝。父の住む大久保余丁町の「来青閣」で生活。

 大正3年4月にエレベーター復活。浅草はオペラブーム。そして大正12年9月1日、関東大震災。8階付近から折れて炎上。9月23日に工兵隊によって破壊された。

 そして93年後の今、バルトルの墓の背後に東京ミッドタウン、六本木ヒルズ森タワーは聳えている。子供時分に平屋に住んでいた小生も今は7階で、息子夫妻は12階で暮してい、地上は遥か下だ。


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荷風と下水道とバルトン(1) [青山・外人墓地]

burton1_1.jpg 「青山・外人墓地」シリーズを終わろうと思ったが、荷風がらみがあったので続ける。ウィリアム・K・バートン(William Kinninmond Burton 和名はバルトン。1856年5月11日~1899年8月5日)は、すでに紹介のH.S.スペンサーが近代水道の父なら、彼は近代〝上下水道〟の父。

 「ウィキペディア」を見ると「渡欧中の永井久一郎(荷風の父)と知り合い、彼の推薦でコレラなどの流行病に苦慮していた明治政府の内務省衛生局のお雇い外国人となって明治20年(1887)に来日」とあり。荷風好きの小生が、これに食いつかぬわけがない。

 加えて浅草「凌雲閣」の設計者で、写真普及にも尽力。「シャーロック・ホームズ」のアーサー・コナン・ドイルが幼年期にバルトン家に預けられて、二人は幼馴染だったなど面白そうなので、さっそく掃苔した。

 場所は一般墓地「1イ11号10-11側」。南中央口寄りの「西15通り」を入った辺り。「日本下水文化研究会」が命日を「衛生工学の父、上下水道の父=バルトン忌」として曾孫(バルトンは日本人妻・満津と結婚。長女・多満さんの孫?)、玄孫(津軽三味線のケビン・メッツ氏)他も参加の墓参、また講演会など活発展開の様子ゆえ、手入れ行き届いたお墓と思いきや、相当に荒れた感じだった。

burtonhils_1.jpg 墓標を右寄りから見れば背後に東京ミッドタウン(54階・248㍍)、左寄りから見れば後ろに六本木ヒルズ森タワー(54階・238㍍)が見える。凌雲閣から100年余で、日本人はその5倍もの高さで仕事(生活)をするようになっている。

 墓標には英文の他、日本語で「前工科大学教師 内務省顧問技師 台湾総統府顧問技師 勳四等 ダブルユー、ケー、バルトン君墓 千八百五十六年五月十一日生於蘇国 千八百九十九年八月五日没於東京 友人建之」。

 以下、和名バルトン記述で彼の経歴を「日本下水文化研究会」サイトの「’06バルトン生誕150年記念行事」記事他からまとめてみる。

 彼はスコットランドのエディンバラ生まれ。上下水道技術者としてロンドンで活躍。明治20年(1887)、疫病流行に悩む明治政府(明治23年、コレラ死者・全国で3200名)の招聘で31歳で来日。帝国大学工科大学で衛生工学講座の初代教授(特別講師)。多くの優れた上下水道技術者を育成。また内務省衛生局顧問技師として東京・神戸・福岡・岡山などの上下水道計画の基礎を作り、今日の衛生工学、環境工学の原点になった。台湾の環境改善にも功績を残した。12年間に渡る仕事を経て、家族とスコットランドへ帰国休暇と思った直前、病により東京で逝去。享年43歳。

kafutitisyo_1.jpg 荷風好き小生は〝父・久一郎による推薦〟については自分で調べなきゃいけない。多数関連書から秋庭太郎著『考証 永井荷風』にこんな記述を見つけた。「明治17年5月、内務書記官として内務省衛生局に勤務していた久一郎は、英国ロンドンに於ける万国衛生博覧会に日本政府代表として出張。博覧会後は欧州各国の衛生事情を視察して翌年9月に帰朝」。そして、こう続く。

 「久一郎は欧州各国の衛生会議に出席。且つ彼地の衛生事情を視察し、その間に棋界の権威バルトンと交わり、帰朝後上司たる内務省衛生局長長與専斎にバルトルの招聘方を進言」。やはり荷風の父による推薦・来日らしい。写真下は永井久一郎述『巡欧記実衛生二大工事』(明治20年刊)

 ちなみに久一郎帰朝時は、荷風7歳。預けられていた鷲津家から小石川金富町に戻って、小日向の黒田小学校に入学。細馬宏道著『浅草十二階』には「荷風は父親に連れられて十二階を訪れたことを後年述懐している」なる記述があるが、さて、それはどの書に記されていたかの言及はない。長くなったのでバルトル設計の凌雲閣や写真普及についは次回。


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柏の葉ひらと時空を飛ぶ遊び [暮らしの手帖]

kasiwanoha_1.jpg 雨の日の遊び。伊豆大島ロッジ前に大きな柏の木があって、その立派な葉を写真に撮っていた。その葉を見つつ、島で食った「柏餅」が〝丸っこい葉〟で包まれてい、かかぁと「島に柏の葉があるのに、この丸い葉はなんだろう」と首を傾げつつ頬張ったのを思い出した。

 そこで「大島の柏餅」を検索。それはサルトリバラ(猿捕茨)で、島ではカシャンバ、またはキンキライ(山帰来)とも言うそうな。サンキライはサルトリバラの一種で、中国や台湾に自生で、中国名は「土茯苓(どぶくりゅう)」と知った。

 あれぇ、どこかで見た漢字だなぁ。新宿の我家マンション前の公園「戸山公園」は昔、尾張藩下屋敷。遊び心満載の池泉回遊園で、虚構の町まで作られていた。同下屋敷調べをしていた時に何度もお目にかかった漢字だと思い出した。

 試みに「尾張藩下屋敷 土茯苓」と検索。案の定、寛文11年(1671)の「尾州公戸山御庭記」を転載した小生サイトがヒット。現在の戸山公園・箱根山は、当時は「玉円峰」で、その峰に至る坂が「茯苓坂」だった。

 そう云えば、最近の戸山公園一帯には昔の尾張藩下屋敷当時のお庭名称を記した史蹟柱が至る所に建っていて、箱根山に至る坂に「尾張徳川家戸山荘茯苓坂」の案内柱もある。

 さて「土茯苓=サルトリバラ=サンキライ=カシャンバ」ならば、大島の柏餅を包むのは「土茯苓」になる。だが「土」がなく「茯苓(ブクリョウ)」となると、また別の意らしい。

 「茯苓」は、松林の地中に生じる木材腐朽菌。松の根に寄生するイモ状のキノコらしい。松の神霊の気が宿った妙薬で、仙人が好んで食した漢方食材。するってぇと「茯苓坂」とは。尾張藩主が薬用キノコを育てていての命名だろうか。当時の薬草園作りの誰かが、尾張藩下屋敷のお庭作りにも係わっていたとも推測される。こうした推測とネット検索はキリなく続いて行く。

 ここまで調べて、かかぁに「柏の葉」と「大島の柏餅を包む丸い葉」と戸山公園の「茯苓坂」についてを報告すれば、「あら、あたしもその名に心当たりがあるわ。昔、顔のシミ取りに飲んでいた漢方薬が〝桂枝茯苓丸〟だった」。

 大島ロッジ前の「柏の葉」写真から「大島の柏餅を包む猿捕茨(カシャンバイ、サンキライ)へ。そこから中国の「土茯苓」。新宿の我家前に広がる戸山公園(尾張藩下屋敷)の「茯苓坂」。かかぁが呑んでいた漢方「桂枝茯苓丸」へと続くトリップでした。外は今日も雨です。


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食い残しユリネひとつの花盛り [花と昆虫]

kooniyuri6_1.jpg ユリは夏の季語。好きな句は「うつむいて何を思案の百合の花」(子規)、「胸を病む人を似せてや百合の花」(也有)。

 この春、スーパーで食用「ユリネ」を買った。二つ入りパックで、一つを食い、一つを植えた。その球根から三本の茎が伸び、今まさに爛漫。食用ユリは「コオニユリ」らしい。一本に八つ・九つの蕾ができ、下の蕾から順に開花中。ユリネ一株から二十五ほどの花が咲くことになる。蕾も花も下向きで、好きな句とあげた子規、也有の句は、そんな特徴を捉えた句になっている。

 「ユリネ」には思い出がある。二十歳の時の「東京オリンピック」で、東京がうるせぇってんで友人と伊豆に遊びに行った。学生の貧乏旅行で、田舎育ちの友人が腹減ったぁと「ユリネ」を掘り出した。ユリを見ると、あの頃を思い出す。


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突けば散る露のつらなり程の過去 [花と昆虫]

IMG_8499_1.JPG 梅雨入りだってねぇ。「露」は秋の季語だが、梅雨になると「露」を撮りたくなる。あたしの過去は虚業っぽい仕事(歌手や楽曲プロモーションのお手伝い)が多かった。

 それら仕事は時と共に色褪せる。係った歌手らも9割はリタイアしていよう。隠居して昔の仕事を思い出すことも稀だが、こんな自虐句が浮かんだ。「突けば散る露のつらなり程の過去」

 先日、昔の関係者から突然の電話。「あの連載を某国で転用連載させて下さい」「ご自由にどうぞ。先方の許可を~」「先方があなたの許可次第と言っています」。

 知らぬ地、知らぬ言葉に翻訳されて、また1年間の連載が始まるらしい。突けば散る露ほどの仕事ばかりだったが、突いても散らぬ露のひとつふたつはあるってことらしい。「つ」のリフレレイン句。


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平和憲法=幣原総理の師、H.W.デニソン [青山・外人墓地]

sedenison2_1.jpg 梅渓昇著『お雇い外国人』よりヘンリー・ウィラード・デニソン(Henry Willard Denison)の経歴と仕事をまとめる。

 明治で重要な外交は、列強帝国主義によって強制された不平等条約の撤廃=条約改正と、日清・日露戦争がらみの交渉だろう。これらすべてを日本の身になって尽くしたのがデニソン。彼は弘化3年(1846)、ヴァーモント州生まれ。NYのコロムビア・カレッジ卒後後に来日し、横浜のアメリカ副領事。明治13年(1880)に米国公使の推薦で外務省顧問に招聘。

 以来、歴代外相の条約改正案の英文起草、具体案作成。治外法権の撤廃にも尽くし、日清戦争では陸奥宗光外相の背後で三国干渉処理に参画。日露交渉では小村寿太郎外相の影で交渉電文のほとんどを書いた。

 その含蓄ある電文には日本の平和への熱意、ロシアの無理強いが書かれて、これら文書が発表されると英国外交官は〝千古の名文〟と推賞。欧州各国が一気に日本寄りになったとか。デニソンは大臣の腹の括り方までを確かめて、文章の柔・硬を書き分けたとか。筆任せに走る文を嫌って何度も辞書をひくことを勧めた。先方(読む側)の身になった文章こそ相手の胸を打つ等々。

 ポーツマス講和会議では、米国大統領に「君は米国人なのか、日本人なのか」と言わしめたほど。歴代外相の絶対的信任を受けた30数年を経て、大正3年(1914)に顧問在任中に病死。苦労を共にした小村寿太郎墓地の近く(1種ロ8区18-19側1番)に眠った。

denisonhaka_1.jpg 幣原喜重郎が若き外交官時代に、軍部に抵抗した〝幣原外交〟で活躍し、総理になって平和憲法を誕生させたのも、若き日にデニソンとの子弟関係で育まれてのことらしい。以下、宇治田直樹著『幣原喜重郎』を参考にする。

 ~若き外交官・幣原は32歳で所帯を構えた翌年の頃、官舎隣が外務省顧問のデニソン宅だった。二人は毎朝の皇居周り散歩を日課とした。省内でも暇があれば話し込んだ。

 そうした日々を通してデニソンは幣原青年に、外交官かくあるべきという信条、特に〝正直〟の大切さ、外交文書の書き方、歴史的逸話など持てる知識のすべてを授けたらしい。幣原青年は一時帰国するデニソンの部屋整理を手伝った際に、日露交渉の原稿綴りを見つけた。「この資料を下さい」に、デニソンはそれを燃えるストーブに投げ込んだ。「この交渉は小村外相の仕事で、私が草稿を書いたと流布されれば、外相の威信も日本の威信も落とすことになります」

 デニソンの〝影のスタッフ〟ならではの身の処し方は、後の幣原総理が「象徴天皇・第9条」等の平和憲法が己の発案であり、かつ成立経緯をも胸にしまったまま墓場へ持っていった矜持と共通するような気がしてならない。何も成せぬのに、あれもこれも己の成果だとわめくあの方々にも聞かせてあげたい話です。


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原爆・象徴天皇・憲法九条の幣原総理 [青山・外人墓地]

sidehara2_1.jpg 電信事業の父「ウィリアム・ストーン」掃苔へネットで調べた地に行けば、それは誤記で「ヘンリー・ウィラード・デニソン」の墓地だった。デニソンを調べたら、彼を師とした幣原(しではら)喜重郎に出会った。

 彼は小生が1歳の時の総理大臣。外務大臣時代は、軍部に反した平和外交=幣原外交を展開。大臣を辞した戦時中は、貴衆両院議員が一斉に大政翼賛会に入ったが、彼一人だけ最後まで入会を拒んだ。恫喝の憲兵へ信念を説けば、彼らは納得して帰ったらしい。別荘での隠居暮らし準備中に、天皇陛下の御召しで戦後組閣の大命を拝し、73歳にして昭和20年(1945)10月9日~昭和21年5月22日の第44代内閣総理大臣に就任。

 日本国憲法(平和憲法)の公布が昭和21年11月3日。施行が昭和22年5月3日。幣原内閣は昭和21年3月6日に憲法改正草案を採決。4月10日に戦後最初の総選挙。日本自由党が第一党になるも過半数に至らず。幣原内閣が総辞職し、自由党総裁・鳩山一郎が組閣着手も公職追放処分で吉田茂内閣が誕生。平和憲法の公布・施行は吉田内閣だが、そのお膳立てをしたのは幣原総理だった。

 以上は宇治田直義著『幣原喜重郎』(時事通信社、昭和33年刊)と、平野三郎著『平和憲法秘話』(講談社、昭和47年刊)による。また両著には「象徴天皇」と「戦争破棄・第九条」成立の経緯・意図が詳しく記されていた。

 現在、改憲派は「現憲法はGHQの押し付けだから」と主張しているそうだが、そんなことはなくて、幣原総理の発案にマッカーサー元帥も感動しての現憲法だということもわかる。両著から当時の世界情勢・現憲法の意図・経緯を要約してみた。

 昭和20年10月9日の幣原総理就任2日後に、幣原首相とマッカーサー最高司令官が会談。総司令部の意向が〝憲法改正をもって戦後の出直し〟と知る。その重要要件は五つ。選挙権付加による婦人解放、労働組合奨励、自由教育、秘密警察などの廃止。

 松本国務大臣による憲法問題調査委員会によって新憲法草案(松本案)が出来た。だが昭和21年2月13日に連合軍総司令部から日本政府と会見したい旨があり、松本国務相と吉田外相がホイットニー少将らと会えば、松本案は一蹴。次の基本原則、根本形態とした案を大至急作成されたしと(一)主権は人民に属し、天皇は象徴とする。(二)軍備は永久に破棄するなどの新・主要5項目が提示された。

 総司令部が示す重要項目の変化理由の裏に何があったや。松本国務相は昼夜兼行で再び脱稿。急かされて日本文のまま提出。細部修正に松本は怒って席を立ち、佐藤法制局長官と木内四郎内閣副書記が対応した。作業は徹夜に及んだ。この経緯から〝GHQの押し付け憲法説〟が生まれたらしい。

 昭和31年(1959)の内閣設置「憲法調査会」高柳賢三会長は、その成立経緯に賦に落ちぬ〝裏〟があったと気付く。高柳博士はマッカーサー元帥が解任後の米上院軍事外交合同委員会で喚問された際に「日本の首相が私のところに来て〝長い間考えた末、<この問題>に対する唯一の解決策は、戦争をなくすことだと信じるに至ったと言った。私は同意すると彼は〝世界はわれわれを夢想家といってあざけり笑うだろうが、百年後にはわれわれは予言者と言われるだろう〟と言った。彼らは自分の意思であの憲法にあの条項を盛り込んだ」

 またマ元帥はあちこちで〝日本人は自らの意思で平和憲法を作った〟と説明してまわったらしい。高柳博士はマ元帥にその真相を確かめるべく、昭和34年に調査団を編成して渡米したが要領を得ず。さて<この問題>、<平和憲法誕生の理由・経緯>とはいかに?

 米国は終戦がスムーズに出来たのは天皇のせいと判断し、天皇の人間化を決めていた。だが豪州やニュージーランドは日本の〝皇軍〟時代の恐怖ゆえ、天皇問題に関してはソ連に同調する気配だった。ヤルタ会談後に連合軍の足並みは乱れ、米国はソ連の日本占領を恐れた。よって原爆投下をもって早期終戦を計った。

 そうした情勢下での新憲法。幣原総理がひねり出した「象徴天皇と戦争放棄」の同時提案に、それなら豪州その他も米国に歩調を合わせて、ソ連に対抗できると膝を打った。

 この幣原・マ元帥の極秘会談が行われたのは、GHQが「象徴天皇」「戦争放棄」を基本にした憲法草案提出を迫った20日程前の昭和21年1月24日。会談は極秘ゆえ表向きは、首相の肺炎にマ元帥がペニシリンを贈ってくれたお礼訪問。〝幣原外交〟でならした彼の英語力は第三者を介さず、二人だけで3時間に及んぶ会談になった。この平和憲法は日本側(幣原総理)が先導するよりマ元帥の命令の形にした方がスムーズに行くだろうとも判断された。

 後に幣原喜重郎は、この件に関して「まだ〈公表する)時期ではない」として、誰にも語らぬまま墓場に持ち去った。満78歳没。だが、この極秘会談を物語る公式記録が一つだけ遺されていた。昭和25年5月3日の憲法記念日祝典に当って幣原議長がマ元帥を訪問した際のマ元帥の発言がこう記録されていた。

「日本憲法制定に当たり、幣原君は一切の戦力を放棄すると言われた。私は50年早過ぎる議論ではないかという気がした。少し早過ぎた感じもする」

 『平和憲法秘話』著者の平野三郎は、24年に衆議院当選で幣原喜重郎の側近になった。昭和26年3月、先生が亡くなる少し前に、日向ぼっこしつつ憲法について話を伺った。「新憲法によって天皇は権力の座になかった本来の昔に還った。第九条は〝死中に活〟。いずれは軍備を持つべきだという意見もおこるだろうが、改正のことなど考えるに及ばない。悠々とやって行けば、やがて世界中が日本を見習うようになるだろう」と呟いた。

 それらをまとめた文章が〝平野報告書〟。高柳博士はそれを読むとニンマリして、こう言った。「幣原さんは一世一代の大芝居をうたれたんですね」。博士は憲法成立の真実を正確に推察されていたと平野は記した。

 また平野著の「あとがき」最後には、幣原首相の説明文として、以下が記されていた。「原子爆弾の発明は、世の主戦論者に反省を促しましたが、今後は更に幾十倍幾百倍する破壊力ある武器も出現を見るでありましょう。(中略)短時間のうちに交戦国の大小都市が悉く廃燼に帰すを見るに至りますれば、その秋(とき)こそ、諸国は初めて目覚め、戦争の放棄を真剣に考えるでありましょう」。広島を訪れたオバマ大統領にも、第9条を破棄しようとする人々にも、また若い人々にも知っていただきたい言葉です。

 今年5月3日のテレビ「報道ステーション」でも同じような特集があったらしいが、こればっかりは自分で調べ読むことが大切だと思った。実は小生、GW後の大島暮らしで「遅まきながら憲法をお勉強」と若い憲法学者・木村草太の新書を2冊繰り返し読んでいたが、何が何だかさっぱりわからず。「この人の著作はだめだぁ~」と悶々としていたんです。彼の著作には当時の現状分析や情況把握が希薄ゆえだろうか。

 実は伊豆大島も終戦後に政府からの沙汰なしにしびれ、島民主権の独自憲法を作った経緯がある。まぁ、それは別にして、次は若い幣原喜重郎がデニソンから何を学んだかを探りつつ、ヘンリー・ウィラード・デニソンを掃苔しようと思った。

 ★追記 :8月12日の東京新聞1面に「9条は幣原首相が提案、マッカーサー書簡に明記」の記事があった。幣原喜重郎首相が連合国軍総司令部(GHQ)側に提案したという新たな史料を堀尾輝久・東大名誉教授が見つけた。これで一部の改憲勢力が主張する「今の憲法は戦勝国の押し付け」とする根拠は弱まるという内容。

 堀尾氏は国会図書館の憲法調査会関係資料を探索。57年の岸内閣下の憲法調査会の高柳賢三会長による、58年12月のマッカーサー宛ての質問の返信に「戦争を禁止する条項を憲法に入れるようにという提案は、幣原首相が行ったのです」と明記されていること。また別の返信では「本条は世界に対して精神的な指導力を与えようと意図したものです」と2信の全文が紹介。1面の他にも12面でも詳細が報じられていた。


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