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原「けふいくか足よ腰よとあゆみ来て~」 [狂歌入東海道]

14harae1_1.jpg 第十四作は「原」。狂歌は「けふいくか足よ腰よとあゆみ来て見あぐるはらの不二の大さ」。「けふいくか」は〝今日行くか〟ではなく「今日幾日(今日は幾日だろうか)」だろう。

 和宮が江戸に下る途中で「住み慣れし都路いでて今日幾日 急ぐも辛き東路の旅」と詠んだとか。「今日幾日」は「土佐日記」にも例あり。絵は見上げる富士山が迫力一杯に描かれている。

 宿場は東海道のなかで最も小さい。旅籠は25軒ほど。絵を描くならば宿場風景ではなく、やはり富士山だろう。この絵は宿場を出てからの立場(茶屋)だろう。保永堂版も「原・朝之富士」で湿地帯・浮島が原に鶴が二羽。その奥に富士山が聳える図。

14harauta1_1.jpg 弥次喜多のふたりは「まだめしもくはず沼津をうちすぎてひもじき原のしゅくにつきたり」。飯も食わず(飲まず⇒沼津)、ひもじき腹(原)の駄洒落。

 彼らは印伝の巾着袋を武士に買ってもらった百文で、やっと蕎麦を食う。蕎麦の盛のよさがうれしくて「今くひしそばはふじほど山もりにすこしこゝろもうきがはら」。〝浮島が原〟を盛り込んでいる。

 浮島が原から西へ歩くと「新田」なる地。ここはうなぎの名物にて、家ごとにあふぎたつるかばやきの匂ひに、ふたりは鼻のさきをひこつかして「蒲焼のにほひを嗅(かぐ)もうとましや(疎ましや)こちらふたりはうなんぎのたび(難儀の旅)」。


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沼津「名にしおふ沼津堤の花見酒~」 [狂歌入東海道]

13numadue1_1.jpg 第十三作目は「沼津」。狂歌は「名にしおふ沼津堤の花見酒泥のごとくに酔しひとむれ」。堤・泥の解読に難儀した。「ひとむれ=人群れ」ならば文字通りの意だろう。

 背景は左に大きな富士山半分、右に愛鷹山。その手前に長閑な田園・街道風景。茶屋の横に傍示杭(ぼうじくい)と高札あり。一方の保永堂版は蛇行する狩野川堤の道から沼津宿へ入ろうとする図。両画で沼津宿の西と東が描かれたことになる。

 弥次喜多のふたりもこの茶屋で、狂歌のように呑み潰れたいところだろうが、三嶋宿で金を盗まれて茶と煙草一服のみの休憩。茶屋を出て〝ならの坂〟といふ所に至り、千本の松原にて一首。「この景色見ては休にやならの坂 いざたばこにや千本の松」。休まにゃなら⇒ならの坂、煙草にゃせん⇒千本の松、と地名組み込み。

13numazuuta1_1.jpg 弥次喜多は、ここで会った武士に〝印伝革〟の巾着を百文で買ってもらう交渉をしつつ「原宿」に到着。「まだめしもくはず沼津をうちすぎてひもじき原のしゆくにつきたり」。「飲まず⇒沼津」「ひもじき腹⇒原の宿」。狂歌の駄洒落にすこし馴れてきたようです。

 以下はメモ。「傍示杭」は村境・国境の表示。「江戸見附・上方見附」は宿場の見付(木戸・大木戸・要所には桝形門)の解釈でいいだろうか。

 小生の伊豆大島ロッジの通称地名は〝ケイカイ〟。当初はその意がわからなかったが、海岸の朽ちたコンクリート杭に「元村・岡田村境界」の文字。その「境界」を法律・測量系で「ケイカイ」と読むと知った。江戸時代は「境界」を何と読んだのだろうか。

 印伝革はインド伝来の鹿革へ漆で模様を付けた革の巾着、煙草入れなどの工芸品。沼津堤は駿河湾の千本松沿いの堤か。今は10~17mのコンクリート防潮堤は20㎞も続いているらしい。そして波打ち際にテトラポット。景観・情緒を優先か、津波からの安全を優先かは難しい選択になる。


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三嶋「今も猶夢路をたとる心ちかな~」 [狂歌入東海道]

12misimae1_1.jpg 十二作目は「三嶋」。狂歌は「今も猶夢路をたとる心ちかな はなとみしまの雪の曙」。きっと昨夜は三嶋女郎衆と〝いい事〟があって、夢心地で歩き出している、そんな意だろうか。

 さて、地箱根を越えたら小生には馴染のない地になる。三嶋は雪景色です。保永堂版の二ヶ所が雪景色ゆえに「狂歌入り」も「藤川」と併せて二作が雪景色になっている。

 この雪景色は、三嶋のどの辺を描いたのだろうか。箱根峠から三嶋宿までは下り坂。下りきって神川(現・大場川)の新町橋を渡ると三嶋の東見附。この辺りだろうと推測した。旅ブログを拝見すると、同橋際にこの絵を紹介した看板があったゆえ、推測に間違いはなさそう。

 12misimauta2_1.jpg 三嶋女郎衆は秀吉命によったとかで歴史がある。彼女らは富士の雪解け水で化粧するので美しい。「農兵節」抜粋をつなげると ~富士の白雪の~え、白雪ぁ朝日でとける、とけて流れて三嶋にそそぐ、三島女郎衆はの~え、女郎衆はお化粧が長い~。

 弥次喜多のふたりは、箱根峠を下り始めて相変わらずバカをやっていた。向こうから大名の国許から江戸入りするだろう女中四、五人連れが来た。喜多さん「白い手拭を被ると粋な男風になる」と〝さらしの手拭〟で頬被り。

 案の定、女らは笑った。得意げな喜多さんに弥次さん「何が色男だぇ、そりゅあ越中ふんどしじゃねぇか」。そこで一首。「手ぬぐひとおもふてかぶるふんどしはさてこそ恥をさらしなりけり」。「恥をさらし⇒晒しふんどし」、「さてこそ=そういうわけで」。

 やがて彼らは一人旅の十吉と意気投合。途中で子供らがすっぽんを捕えて遊んでいるのを見て、浦島太郎よろしくすっぽんを買い上げて三嶋宿へ。三人相部屋で三嶋女郎衆をあげた。夜もたっぷりふけた頃、すっぽんが喜多さんの夜着のなかにもぐり込む。慌てて放り投げると弥次さんの顔の上。さらに指を咥えて離さない。

 大騒ぎ勃発。気付けば十吉が消えていた。胴巻の金もない。ごまの灰(泥棒)にしてやられた。残り銭をかき集めてどうにか旅籠を出る。泣く泣く一首。「ことわざの枯木に花はさきもせで(せず)目をこすらするごまの灰かな」。


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「狂歌」のお勉強(1) [狂歌入東海道]

kyoukamiji.jpg 「狂歌入り東海道」は「くずし字」解読が目的も、思いもよらず「狂歌」とお付き合い相成り候。俳句関係書を読み駄句も作るが、和歌や短歌の「みそひともじ」は好きじゃなかった。

 「百人一首」の四十三首が恋歌。隠居の身で「百人一首」を口ずさめば、老いたシンガーソングライターらが、若い頃にヒットさせた恋愛ソングを今も未練たらしく唄っているのに似て恥ずかしい。

 かくなる理由で和歌・短歌に親しめずも「狂歌」は、やはり避けては通れなかった。永井荷風好きゆえ、彼が関心を寄せた大田南畝(蜀山人、四方赤良、山手馬鹿人、杏花園など)の人物像に関心をもって関連書も読んできた。彼の旧居巡りもした。その大田南畝こそが狂歌の代表格。

 加えて江戸好きだと、浮世絵と狂歌は欠かせない。いい機会ゆえ少しは「狂歌」に親しもうと俄か勉強。文末紹介の著作から〝勝手解釈〟で「狂歌」をまとめてみた。

 狂歌は和歌(五七五七七)をベースにした滑稽・諧謔の遊び。浪花系と江戸狂歌の二つの流れがあるも、ここは江戸狂歌をお勉強。狂歌は当初、仲間内の遊びゆえに詠み捨てだったが、天明期(1781~)の黄表紙、洒落本、川柳など庶民中心の出版大ブームと共に爆発的に盛り上がった。南畝が公募すれば荷車五台、千箱が寄せられた。

 その特徴は、優雅な古典和歌の〝本歌取り(もじり)〟の滑稽・諧謔仕上げ。主な技巧は「縁語・掛詞・地口」等の多様。●「縁語」は関係する語を連想的に使うこと(古語辞典の付録に一覧表がある)。●「掛詞」は(待つ=松)(聞く=菊)などの同音異義語。●「地口」は言葉遊び。有名文句のもじりで「舌切り雀=着たきり娘」、韻を踏むなら「美味かった=馬勝った」、意味のない言葉をつなげる「そうはいかのキンタマ」「恐れ入谷の鬼子母神」など。他に百人一首などの下の句をそのままに上の句を変えて別の一首にする遊びなど。

 本歌取りの多くは、すり替えて別の意にする滑稽さ。また卑俗な世間に引き下ろす諧謔。それら根底にあるのは体制への反発。封建主義下の心の狂、狂趣もあり。度が過ぎれば「落首」にもなる。その精神は散文にも及んだ。

 寛政の改革で、山東京伝は手鎖50日の刑、蔦重は財産半分没収。武士も自害に追い込まれた。風俗統制、贅沢禁止、文武奨励の松平定信をおちょくって「世の中は蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶといひて夜もねられず」「白河の清き流れに魚住まず 濁れる田沼いまは恋ひしき」。

 そうした精神を反映して。狂歌は武士と町民の垣根を越えて共に盛り上がる。内藤新宿の煙草屋「平秩東作」、湯屋主人の「元木網(もとのもくあみ)」、その女房「智恵内子(ちえのないこ)」、旅籠主人の「宿屋飯盛(やどやのめしもり)」吉原妓楼主の「加保茶元就(かぽちゃのもとなり)」等々。

 ここで紹介の十返舎一九は駿府生まれで、浪花で芝居作家としてデビュー。三十歳前に江戸に来て蔦重家に居候。その経歴から彼の〝東海道中膝栗毛〟の文は下世話で、狂歌も関西ノリがある。江戸人がアイデンティティ(江戸自慢、貧乏自慢、建前の裏のホンネ露出を含めて)を求め発揮した狂歌だったが、お上の介入で武士は身を引き、大田南畝は学問吟味に挑戦して主席合格。有能な町人狂歌師も江戸払い。やがて明治の改革から大日本帝国になって滑稽・諧謔・風刺の狂歌は姿を消した。

 参考資料:岩波書店「日本古典文学大系/川柳・狂歌集」の濱田義一解説文、小学館「日本古典文学全集/黄表紙・川柳・狂歌」の水野稔解説文、江口孝夫著「江戸の百人一首」、なだいなだ著「江戸狂歌」など。


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箱根「ことわざに雲ともいへる人なれや~」 [狂歌入東海道]

hakonee1_1.jpg 十一作目は「箱根」。狂歌は「ことわざに雲ともいへる人なれやかゝる山路を夜るも越ゆく」。筆写で「夜にも」と書いたが正しくは「夜るも」。「夜」に送り仮名「る」が付き、「越ゆく」に送り仮名「え」がない。当時は送り仮名が定まっていないゆえ、柔軟に対処しないと読み誤る。「なれや=だから~なのだろうか」。意は「諺で雲の人といわれるだろう人が箱根の山路を越えてゆくよ」。

 その諺は知らないが「雲の人=雲助」だろう。彼らには箱根路を守っているという高いプライドがあって、沿道沿いに「雲助徳利の墓」もあるとか。絵は険峻な石高道を武士らしき二人を乗せた駕籠が、松明を掲げて走って行く図。侍らに火急の用があったと思えば、時代劇ドラマも浮かんで来る。

 膝栗毛にこんな一首あり。「ひとのあしにふめどたゝけど箱根やま本堅地なる石高のみち」。校注に「本堅地(ほんかたぢ)」は「箱」の縁語。布・漆・磨きを重ねた上級漆器のこと。「石高道(いしだかみち)」は石が多くでこぼこしている道。箱根の山は人の足で踏めど叩けどびくともしない本堅地のような石高道だ、と詠っている。

hakoneuta1_1.jpg 保永堂版は「箱根・湖水図」。〝万丈の山・千仭の谷〟を大名行列が下ってい、眼下に芦ノ湖が見える。湖畔まで下れば、そこは「箱根の関所」。関所を通った先に宿場があるも最高点・箱根峠はまだ先だ。

 弥次喜多のふたりは、無事に関所を抜けた歓びで一首。「春風の手形をあけて君が代の戸ざさぬ関をこゆるめでたさ」。「あけて」を中村幸彦氏校注は、手形を役人に見せるために「差し〝上げて〟」。片や麻生磯次氏校注は、役人に手形を「開き〝あけて〟」と説明。偉い先生方でもかくも微妙に解釈が違うゆえ、無学隠居=小生のいい加減な解釈も免じてもらいたい。

 「閉ざさぬ関を越ゆる目出度さ」は、現代人には関所=難関イメージがあるも、江戸人にとっては明け六ッ時(午前6時頃)から暮れ六ッ時(午後6時頃)まで門が開いてい、自由に行き来が可能で目出度い事よ、の気持ちだったのだろう。両先生共に、この狂歌を「戸締りをしないでも盗難などの心配のないよく治まった御代よ」と説明していた。

 小生はここで大田南畝の一首を挙げたい。「あいた口戸ざゝぬ御代のめでたさを おほめ申すもはゞかりの関」。やはり南畝は十返舎一九より冴え、風刺も効いている。

 弥次喜多のふたりは、箱根に泊らず次の三島で泊るべく箱根峠越えして坂を下って行く。以上で「東海道中膝栗毛・初編」終わり。


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小田原「小田原の沖の船より見えつらん~」 [狂歌入東海道]

odawarae1_1.jpg 十作目は「小田原」。狂歌は「小田原の沖の船より見えつらん霞の海の城の鯱」。「見えつらん=きっと見えたでしょう」。小田原の沖の船から霞の海を通して城の鯱が見えたでしょうか。こんな解釈でよかろうか。

 一方、保永堂版は「小田原・酒匂川」渡しの風景。駕籠を乗せた蓮台渡し。渡った向こうは箱根の山々。その手前に小田原城が描かれている。東海道最初の城下町で、江戸から20里ほどで、二泊目の宿場。この宿に泊ったら、明日からいよいよ〝箱根の剣〟です。

 弥次喜多のふたりは、ここで小田原名物を詠っている。「梅漬の名物とてやとめおんなくちをすくして旅人を呼ぶ」。校注に梅の縁語で「口をすくして」とあった。古語辞典をひき遊んでいたら「竦(すく)む=こわばる、ちぢこまる、すくみ」があった。別の書の校注に「口をすくして=たびたび同じ事を言う」とあった。これも辞書をひく。「すく=食す」「口を過く=なんとか生活をたてる」があり、「すぐ=程度を越える」があった。両著校注を併せて「口をすくして=(酸っぱくて)口をちぢ込ませて+(程度を越えた呼び声で)旅人を呼ぶ」の洒落になっているとわかった。

odawarauta1_1.jpg 江戸庶民が夢中になった狂歌だが、今はここまで考えないと意が解けぬ哀しさ。また小生愛用『古語辞典』(旺文社)には、確か付録冊子付きで「縁語・掛詞一覧」があったはずだが、本棚のどこかに埋もれたままだ。

 もう一首。「ういろうを餅かとうまくだまされてこは(これは)薬じゃと苦いかほする」。小田原宿の中ほどに「外郎家」あり。同店は江戸時代から今も八棟造りのミニお城のような店舗。車でよく走っていた時分には、何度も店の前を走った事がある。

 同店で売っているのは「透頂香(とうちんこう)」なる仁丹のような薬(万病に効く)と、お菓子の「ういろう」。薬販売の接待用に作ったお菓子が評判になって売り始めたそうな。歌舞伎の早口言葉「外郎売り」はこの店の由来。名古屋の「ういろう」は幾度も食ったが、小田原の「ういろう」は食べことがない。


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大磯「うかれ女の真心よりぞうそふける~」 [狂歌入東海道]

oisoe1_1.jpg 九作目は「大磯」。狂歌は「うかれ女の真心よりぞうそふけるとらといふ名はいしに残れり」。これを詠み解くには難儀した。わからない時は漢字で書いてみる。「浮かれ女(遊女)の真心よりぞ嘯ける(吟じる)虎という名は石に残れり」。

 江戸時代に大磯といえば、遊女・虎を語るのが定石だったとか。曽我兄弟の父の敵討ち。兄・十郎は本懐を遂げると同時に果て(陰暦五月二十八日)、彼の愛人が遊女の虎さん。この時期の雨を、虎御前の涙「虎の雨、虎ヶ雨」。ならば「浮かれ女の真心よりぞ嘯ける虎という名の雨になりけり」。

 街道沿いの延台寺に、曽我兄弟の敵が放った矢と刀の身代わりになったとされる「虎御石」もある。ネットで写真を見たら刃跡が亀頭をかたどって、矢の穴を女陰とみる陽陰石。弥次喜多のふたりもこの石を見てこう詠んでいる。

9ohisouta2_1.jpg「此さとの虎は藪にも剛のものおもしの石となりし貞節」。「藪に剛の者」は諺。草深い所にも優れた人物がいるの意。「剛の物⇒香の物⇒おもしの石」。校注を読みつつ十返舎一九の狂歌も、かなりひねりが効いていると感心した。

 宝永堂版は「大磯・虎の雨」。大磯宿に入る直前の旅人らが〝虎の雨〟に合羽姿で背を丸めて歩いている。相模湾に面した海岸には磯馴松(そなれまつ=風に耐えつつ曲がって伸びた松)。大磯宿には西行の歌で有名な「鴫立庵」もあるが、説明が長くなるので割愛。

 この絵は大磯宿の上方端を描いた絵だろうか。沖に突き出たのは真鶴岬と伊豆半島の山々だろうか。この絵を見ながら大磯・照ヶ崎でアオバトを撮った事の他に、もうひとつ思い出したことがある。小学校の臨海学校が大磯のお寺だった。えらく素敵なお姉さんが世話をしてくれて、異性に初めて胸ときめいたことを思い出した。あれはどこのお寺だったのだろうか。


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平塚「大磯へいそくえき路の鈴の音に~」 [狂歌入東海道]

hiratukae1_1.jpg 八作目は「平塚・馬入川渡船」。狂歌は「大磯へいそくえき路の鈴の音にいさむ馬入の渡し船かな」。

 馬入川は現・相模川。渡船は一人十二文。渡った先に平塚宿の「江戸方見附」。絵の狂歌の「駅路の鈴の音」は、駅路(官道、ここでは東海道)を官令で旅する者に下された鈴、駅馬の供与を受ける証しの鈴の音。「音(ね)」は祢、「かな」は可奈のくずし字。

 弥次さんも、ここで一首詠んでいる。「川の名を問へばわたしとばかりにて入が馬入の人のあいさつ」。この「入が馬入(にゅうがばにゅう)」は仏語「入我我入(悟れば皆人、お前が我か我がお前か。はっきりしない、要を得ぬ意)」の地口遊び。駄洒落とは言え「入我我入」なる言葉を知らぬ小生には、同書校注を読まなければ理解不能。江戸庶民は、これでフフッと笑ったと思えば、江戸の教養は相当に高かった。

hiratukauta1_1.jpg 宝永堂版は「平塚・縄手道」。平塚を抜けて大磯へ向かう「縄手道=あぜ道」の風景。手前に「上方見附」の柱があって、飛脚が平塚宿へ入ろうとし、空駕籠を担いで大磯へ向かう二人組とすれ違っている。水田の向こうに「花水川」に架かる橋が見え、その奥に高麗山が盛り上がっている。

 馴染なき地と思っていたが「花水川」で思い出した。ここからは私事。仕事を半分辞めて、鳥撮りの趣味を始めた当初のこと。大久保駅の始発電車に乗って大磯へアオバトを撮りに行った。隣の鳥撮人が「未だカワセミを撮っていないのなら花水川へ行ってごらん。50㍍歩けば1羽に逢える」。

 大磯・照ヶ崎からテクテクと花水川まで歩いて、初めてカワセミを撮った(新宿御苑にもいると後で知るが~)。「川っておもしろいなぁ」と興奮しつつ限りなく遡上歩きして(ぶっ倒れるほど歩いて)幾種もの野鳥を撮った。もう8年も前の今頃の季節だった。今はもう歩く元気もなく机上で東海道遊びです。


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藤澤「うちかすむ色のゆかりのふち沢や~」 [狂歌入東海道]

fujisawae1_1.jpg 七作目は「藤澤」。狂歌は「うちかすむ色のゆかりのふち沢や雲井をさして登る春かな」。意は「雲井(大空)に向かって春の陽が登ってほのかに色づいて行く藤沢や」。

 弥次喜多らは昨夜、飯盛女が夜の相手をしてくれなかったことに自棄気味の歌を詠んでいた。「一筋に親子とおもふおんなより只二すじの銭まうけたり」。結果的に二筋(一筋は銅銭百文。二筋で二百文)使わずに儲けたようなものだ。

 かつて勉強した江戸金銭事情によれば、一文=二十円ほど。二百文で四千円。それは米三升分。畳職人の日給二百六十七文に足らず。江戸の裏長屋家賃四百文の半分ほど。「ふ~ん、そんな金額だったのか」と思った。古語辞典に「まうけ=ごちそう」で利益とは別とあった。

fujisawauta1_1.jpg 広重は藤沢を多角度から描いている。この「狂歌入り東海道」は遊行寺側から橋向こうの鳥居と宿場町を描いて背景左は大山。「宝永堂版」は橋の向こう側、鳥居側から橋を見て遊行寺と門前町を描いている。「隷書東海道」は夕闇迫った宿場内で旅人と客引きの様子で、橋の端が見えている。「蔦屋版」は宿場を越えて大山道が分岐する立場茶屋。「五十三次名所図会」は平塚寄りの松林の風景が描かれている。

 遊行寺には飯盛女の墓が四十余基あるとか。また永勝寺には旅籠・小松屋源蔵一家の墓があり、同家雇いの飯盛女四十四人と下男四人の記録あり。四十一年間に四十四人が亡くなっているそうな。(北小路健「古文書の面白さ」より)。吉原の「浄閑寺」、内藤新宿の「成覚寺」のような役割も負っていたのだろう。

 この橋は現・遊行寺橋(昔は大鋸橋とか)で、鳥居はここから5㎞先の江ノ島弁天の第一の鳥居。藤沢は東海道、江の島への道、大山道、さらには鎌倉街道の分岐点で多くの人が行き交っう要所。弥次さんも茶屋で団子を食いつつ、江の島に行くオジさんに道を教えている。

 弥次さんは橋を渡って藤沢宿に入ったところで、戻り駕籠と値引き交渉し、三百五十文を百五十文(七千円を三千円)にして駕籠に乗って〝馬入川の渡し〟へ向かった。


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戸塚「霞日をとつかの駅路とつかは~」 [狂歌入東海道]

todukae1_1.jpg 六作目は「戸塚」。狂歌は「霞日をとつかの駅路とつかはといそぎて旅を双六のうへ」。この読み下しは「ボストン美術館」と同じゆえ間違いはなかろうが「とつかの」と「とつかは」の意が解けぬ。

 狂歌は本歌取り、駄洒落、地口遊び。有名文句のもじり、韻を踏む戯れ、「恐れ入谷の鬼子母神」など意味ない掛詞遊びなど。頓智力のない小生には辛い。この解読は宿題です。なお広重は「浮世道中膝栗毛滑稽双六」も描いている。

 保永堂版「戸塚・元町別道」は馬を縁台に横付けして下りる男、それを迎える茶屋女など様々な人物配置、細かい風景描写で逸品らしい。場所は戸塚宿入口の柏尾川に架かる吉田橋の辺り。「左りかまくら道」の道標は今も近くの妙秀寺に保存されているとか。

todukauta2_1.jpg 比してこの「狂歌入り東海道」は、山間道を早飛脚が走っているだけ。入手版画が安物で摺りズレ大で興醒めだが、これはどこを描いたのだろうか。ネット調べをすると戸塚宿の「上方見附跡」史蹟看板に、同じような山道を描いた広重「隷書東海道・戸塚」が紹介されているらしい。この絵もきっとその辺りと推測した。戸塚宿は江戸寄り「江戸方見附」から「上方見附」まで約2.2㎞らしい。

 戸塚宿は日本橋から十里半(約42㎞)。上方へ向かう旅人のほとんどがここで一泊。弥次喜多らもそのつもりだが、あいにく参勤交代ご一行が泊っているので泊れる宿がない。こんな狂歌を詠んでいる。

「とめざるは宿を疝気としられたり大きんたまの名のある戸塚に」。中村幸彦校注にこうあった。「戸塚には大睾丸の乞食が元禄頃からいて、その三代目は睾丸の上に鉦を置いてこれを打ち金を乞うた」。狂歌の意は「そんな大きんたまで知られた戸塚なのに、宿業を疝気(せん気=しない気)と知った」。疝気は漢方では下腹部や睾丸が腫れて痛む病気の総称。疝気は〝しない気〟で、睾丸にもかけて頓智がとてもよく効いた歌になっている。

 弥次喜多は結局、上方見附際の「本日開業」の宿に入る。二人は親子に成り済ます趣向を考えるが、女に相手もされず欲求不満のまま朝を迎える。


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保土ヶ谷「諺のまハるもはやき双六や~」 [狂歌入東海道]

hodogayae1_1.jpg 五作目は「保土ヶ谷」。狂歌は「諺のまハるもはやき双六やいそけはいそく程かやのえき」。漢字で書けば「諺の回るも早き双六や 急げば急ぐ保土ヶ谷の駅」。諺双六では急がば回れだが、ここは急げば急ぐがいい保土ヶ谷の宿場、の意だろう。

 この狂歌調べで「急がば回れ」と詠ったのが連歌師・宗長と知った。「もののふの矢橋の船は速けれど急がば回れ瀬田の長橋」。簡略説明すれば、船は早いが波で難儀する場合もあるゆえ、武士なら確実な橋がいいよ。

 宝永堂版「保土ヶ谷・新町橋」は、帷子橋を渡って保土ヶ谷宿へ入ってゆく図だが、この「狂歌入り東海道」は山間の平地にある茶屋が描かれている。さて、どこだろうか。絵をよく見ると「境木立場」の文字。絵を解くヒントなり。

 「境木立場」でネット検索すれば「横浜市の歴史めぐり、旧東海道を歩く」のpdfがヒット。その冊子を開けば詳細説明あり。また「境木立場跡」の史蹟案内板があって「狂歌入り東海道」と「江戸名所図会・境木」の絵が紹介されていると知った。

hodogayauta2_1.jpg それら説明を要約する。保土ヶ谷と戸塚宿の間は、海を離れて内陸側を歩くことになり、上方へ向かって最初の難所ともいうべき幾つも急坂が続く。武蔵国と相模国の境に大木ありて、その地が「境木」。そこに一息する立場(休息所)あり。「江戸名所図会」を見れば十軒ほどの茶屋が描かれているから、「狂歌入り東海道」はその一部を描いたものとわかった。

 では「保土ヶ谷宿」とはどんな所だったか。弥次喜多コンビの説明は「両側より旅雀の餌鳥(おとり鳥)に出しておく留おんな(客引き女)の顔は、さながら面をかぶりたるごとく真白にぬりたて、いづれも井の字がすりの前垂を〆たるは、扨(さて)こそいにしへ、爰(ここ)は帷子の宿(かたびらのしゅく)といひたる所となん聞(きこ)へし」。

 保土ヶ谷宿は昔「保土ヶ谷・新町・帷子」の三宿がまとまった経緯があって、現在も保土ヶ谷に「帷子町」がある。ここを流れる川の片側が平らで「方平・潟平」から「帷子」とか。繊維がらみの地名と思ったが、それは明治以降のことらしい。

 そんな留女を弥次さんは「おとまりハよい保土ととめ女 戸塚まてハはなさざりけり」。お泊りには程よい時間だと留女は戸塚まて(=とっ掴まえて)離さない、と詠っている。駄洒落苦手の小生には、狂歌解釈は難儀です。


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神奈川「双六の旅もいろはのかな川に~」 [狂歌入東海道]

kanagawae1_1.jpg 四作目は「神奈川」。狂歌は「双六の旅もいろはのかな川にあがるもたのし春雨の空」。意は「(振り返ると大繁盛の)神奈川宿が双六の絵のような神奈川にあがるのも楽しい春雨の空」。韻を踏んだ地口狂歌。

 迂闊にも「神奈川宿」を知らなかった。横浜の存在が余りに大ゆえだろう。横浜発展は幕末以後で、それまでは砂洲の寒村だった。神奈川県広報サイトを見たら「神奈川宿は五拾三次のなかでも五本の指に入る賑わいだった」と紹介。

 宝永堂版は「神奈川・台の景」。台=高台。宿場は海際の高台で、下った所が「神奈川湊」で物流で繁昌。船乗りらの神奈川宿での豪遊多々で栄えた。料理も美味く、女も美しかったとか。弥次喜多もこう説明している。

 「爰は片側に茶屋をならべ、いづれも座敷二階造。欄干つきの廊下桟橋などわたして、浪うちぎはの景色いたってよし」。横浜開港当初の異国領事館などは、砂洲の横浜村ではなく神奈川宿辺りに設けられ、幕末・明治の人物らも神奈川宿で宴を張ったそうな。

kanagawauta3_1.jpg 宝永版に描かれた坂上から下三軒目「さくらや」を「田中家」が買って現・五代目。当初は千数百軒あった店は、今は「田中家」だけが残っている。同家サイトには、勝海舟の紹介で坂本龍馬の妻おりょうが、三十代の数年間をここで仲居として働いていたと記されていた。

 片やこの「狂歌入り東海道」は宿場の高台から下りきった辺りか。海の向こうに砂洲(横浜)が突き出て、その奥が本牧の岬だろうか。

 弥次喜多らは泊らず、茶屋の女の誘いに一杯ひっかている。だが焼き鰺が新鮮ではなく文句の一首。「味(うま)そふに見ゆるむすめに油断すな きやつが焼たるあぢ(鰺・味)のわるさに」。ベテラン・ゲイゆえ、女を見る眼が厳しい。

 なお横浜は横に張りだした砂洲を対岸の野毛村まで伸ばして、内海を埋立てて造られた。今、神奈川宿はすっかり横浜に埋没してしまった。


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川崎「春霞ともに立出てめをとはし~」 [狂歌入東海道]

kawasakie1_1.jpg 三作目は「川崎」。狂歌は「春霞ともに立出てめをとはしわたりつるみの心のとけし」。漢字で書けば「春霞共に立出で夫婦橋渡り鶴見の心の解けし」。春霞(春の朝霞)のなかを一緒に旅立って、夫婦橋を渡って鶴見まで来れば共に心も馴染んでくるよ、の意だろう。「夫婦橋」はどこにあったのだろう。

 「京急川崎」駅の次が「八丁畷(なわて)」駅。同駅と次の「鶴見市場」の間。現・鶴見区市場上町六丁目辺り。江戸時代に多摩川から引いた用水が二本あって、二つの石橋が続いていて「夫婦橋」。用水はこの下流から左右に分かれて一帯の水田を潤したとか。

 夫婦橋を渡ったすぐ先が鶴見川。この絵の通り〝渡し船〟。現「六郷大橋」辺りの渡しで、渡った先に川崎宿や川崎大師。江戸城が出来た当初は「六郷大橋」があって、千住大橋・両国橋と共に〝江戸三大橋〟だった。だが元禄元年の大洪水で流された後、明治まで架橋せずに渡し舟が続いた。(参考サイト「鶴見の史蹟と伝説)

kawasakiuta2_1.jpg 早や外は灼熱の夏で、熱中症注意です。クーラーの効いた部屋ん中での机上旅で「八丁畷」なんて駅名とその由来を知り、当時の「夫婦橋」の絵を見たりと楽しいものです。

 さて弥次喜多コンビは、十文の渡し賃で鶴見川を渡り、川崎宿手前の有名な奈良茶飯屋「万年家」で昼食。店の女の尻を見て、こんな会話をしている。「今の女の尻は去年までは柳で居たつけが、もう臼になつたア。どふでも杵にこづかれると見へる」

 この辺の下世話会話は、なんだか新宿二丁目の姐さん方の会話のようです。性を明け透けに笑う習性は、江戸時代に陰間が盛んだった頃と余り変わっていないようだ。弥次喜多コンビは、ここで大名行列に出くわし、行列をおちょくった後に、安く〝かえり馬〟に乗って、神奈川宿手前まで行く。


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品川「送り来る旅の別も親舟を~」 [狂歌入東海道]

sinagawae1_1.jpg 第二作目は「品川」。狂歌は「送り来る旅の別も親船を見かへりながら過る品川」。

 保栄堂版「品川・日乃出」では右側に御殿山の裾野(八つ山坂との合流辺り)が描かれ、品川宿入口の茶店前を大名行列のしんがりが歩いている。

 この「狂歌入り東海道」は品川宿の中ほど。旅籠が軒を連ねる光景は「内藤新宿」とまったく同じだ。ならば手前の茶屋には〝やり手〟がいて飯盛女の斡旋をしていたか。弊ブログで『甲驛新話』全筆写・読み下しをしているから、飯盛旅籠の遊び方はすでに紹介済み。

 品川宿は「北の吉原、南の品川」と言われたとか。飯盛り女の人数は内藤新宿250人に比して品川宿は500人。取締れば、その数倍も捕まった。ここからも品川宿の賑わいが伺える。

 五十年ほど前に小生は若いPRマン見習いで、品川にあった「T社」に通ったことがある。当時は品川駅に隣接して、新宿西口〝思い出横丁〟のような一画があったように記憶しているが、とうの昔になくなっているだろう。

sinagawa2syu1_1.jpg 数年前に、自転車で品川駅先から「旧東海道」を大森辺りまで走った。商店街が「旧東海道」風情を演出して頑張っていたが「北は吉原、南は品川」なぁ~んて事を言うわけもない。それでも古い商店やお寺に昔の風情があり、路地を入れば長屋に井戸の横丁も残っていたりした。

 品川宿の範囲は現・京急線「北品川~青物横丁駅」辺りらしい。街道脇は海だったが、今は「大井埠頭」まで埋め立てられている。海の向こうは近代高層ビルが立ち並ぶお台場だ。

 一方、陸側の「八つ山」は江戸期に道路整備や目黒川護岸工事などで切り崩されて平地となり(参考:品川区のサイト)、御殿山は幕末の品川台場を築くための土砂採掘で削られた。絵は広重得意の俯瞰図だが、八つ山や御殿山から見下ろせば、この図のように宿場の向こうに海が広がっていただろう。

 だが、実際にここを歩いた旅人は「親舟・子舟」の情景より、飯盛旅籠の女らに眼をキョロキョロ。見送人らの「変な女につかまるなよぉ~」の掛け声が聞こえてくるような気もする。

 ここで弥次喜多コンビはまだ得意の下世話さを慎み、こんな歌を詠んでいる。弥次さん「海辺をばなどしな川というやらん」に、喜多さん「さればさみづのあるにまかせて」。海辺をば(強調=なのに)なぜ品川なんだろう、されば鮫洲(さめづ=さみづ=真水)があるじゃないかと洒落ている。

 京急線「青物横丁駅」の次が「鮫洲駅」。東京の免許取得者のほとんどがここで筆記試験を受けている。広重『名所江戸百景』に海苔養殖の光景を描いた「南品川鮫洲海岸」がある。この海に出没の大鮫の腹から聖観音が出で「鮫洲」の地名になり、それが海晏寺のご本尊らしい。

 品川は目下、2020年に向けて新駅をはじめ大規模再開発が計画中とか。江戸探しはさらに難しくなってくるだろう。 


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日本橋「日本橋ただ一すぢに都まで~」 [狂歌入東海道]

nihonbasie1_1.jpg 第一作目は「日本橋」。狂歌は「日本橋ただ一すぢに都まで遠くて近きはるがすみかな」。「橋・都・遠」のくずし字は、よく出てくるから覚え慣れる他にない。あとは濁点省略多々ゆえ、適当に濁点読みを試みると意が通じたりする。たた=ただ(只)、すち=すぢ(筋)、まて=まで(迄)、はるかすみ=はるがすみ(春霞)。

 「狂歌入り東海道」は五拾五枚目が「京都・三条大橋」、五拾六枚目が「京都・内裏」。日本橋~京都三条まで約495㎞。一日平均33㎞を歩いて13~15日(片道)行程。のんびり歩けば一ヶ月。急げば11日。京は近いか遠いいか。雅だろうか。春霞でぼやけているよ、と詠まれている。

 保永堂版「日本橋・朝之景」は大木戸が開いた朝の日本橋を、西へ旅立つ大名行列を正面から描き、魚屋らが慌てて脇に避けている図。比して「狂歌入り東海道」は日本橋を真横から描いている。背後は江戸城だから、大名行列は南詰方向へ。高輪大木戸(地下鉄・泉岳寺脇)を出れば東海道の始まり。西の空は春霞で富士山が見える。

nihonbasimeko2_1.jpg 広重が「東海道物」を描くに至ったのは、十返舎一九『東海道中膝栗毛』(享和2年に初編刊)の大ヒットが影響とか。なお広重は安政2年(1855)に十返舎一九の膝栗毛の双六も描いている。かくも長いロングセラーだった『膝栗毛』の弥次喜多にも、この「狂歌入り東海道」机上旅にもご参加を願おう。では〝弥次喜多〟とはいかなる人物だったか。

 弥次さん(弥次郎兵衛)は駿府の親の代から続く商人(中年のおじさん)で、彼が大借財するほど入れ込んだ〝陰間〟が喜多八さん。遊び尽くして大借金。江戸へ逃げてきて十年ほど。共に二枚目に程遠い容貌の〝ホモダチ〟てぇから驚く。そこを原文筆写した。

「旅役者華水多羅四郎が抱の、鼻之助(後の喜多八さん)といへるに打込、この道に孝行ものとて、黄金の釜を掘いだせし心地して悦び、戯気(たわけ)のありたけを尽し、はては身代にまで途方もなき穴を掘明て留度なく、尻の仕舞は若衆とふたり、尻に帆かけて、府中(駿府)の町を欠落するとて」

 筆写の右側が日本橋の狂歌。左文は弥次喜多の二人が〝ホモダチ〟と記された膝栗毛の文。なお喜多八は北八の表記もあるが、ここでは喜多さんで通す。さて筆写は相変わらずの使い古した筆ペン・コピー紙。書道とは無縁です。版画写真も机上に置いて手持ち・ストロボ撮影のいい加減さ。ご了承下さい。

 参考資料:歌川広重「佐野喜版 狂歌入り東海道五拾三次」(日本木版発行)、ボストン美術館の「狂歌入り東海道五拾三次」紹介頁、画集「歌川広重 東海道五拾三次」(保永堂版/解説・吉田漱/集英社刊)、早稲田大学・古典籍データベース/十返舎一九「東海道中膝栗毛」、小学館刊・日本古典文学全集「十返舎一九 東海道中膝栗毛」(校注・中村幸彦)、岩波文庫「東海道中膝栗毛」(校注・麻生磯次)、麻生磯次『芭蕉物語』(上・中・下巻)、田辺聖子「東海道中膝栗毛を旅しよう」(角川ソフィア文庫)、森川昭著「東海道五十三次 ハンドブック」(三省堂)、今井金吾著「今昔東海道独案内」、綿谷雪「考証 東海道五十三次」、なだいなだ「江戸狂歌」、永井荷風全集、叢書江戸文庫「十返舎一九集」(校訂・棚橋正博)。「広重の世界~狂歌入東海道~」(豊川市二川宿本陣資料室編集・刊)、小説では松井今朝子「そろそろ旅に」、諸田玲子「きりきり舞い」。また机上旅ゆえ市町村サイトや東海道ウォークのブログも参考にさせていただきつつ始めます。他参考資料はその都度記して行きます。


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「狂歌入東海道」まずはじめに [狂歌入東海道]

hirosige1_1.jpg 数年前に、池袋西口の古本市で歌川広重『東海道五十三次』全56枚版画綴りを入手した。触ればボロッと綴りが崩れそうな古さで3千円也。「佐野喜版=佐野屋喜兵衛版、狂歌入り東海道五十三次」らしい。

 広重は生涯に20種ほどの「東海道物」を描いたそうで、最も有名なのが「保永堂版」(天保4~7年の大判錦絵)。比してこの狂歌入りは、それから9年後の天保13年(1842)頃、46歳前後の作らしい。体裁はA4 版より一回り小さい「横中判」。21.8×16㎝ほど。初版ならば値も付こうが、入手したのは「日本木版発行」の明治か大正時代の摺り。摺りズレが多く、色も雑っぽくて金額的価値なしだが、全56枚揃いがうれしかった。

 余りにボロボロゆえ、一枚ずつ分解してA4バインダーに順に納め直した。版画を愉しむには粗雑過ぎるが〝くずし字〟初心者ゆえ、全作挿入の狂歌を読んでみたかった。

 狂歌は和歌の〝本歌取り〟遊び。「みそひともじ(三十一字)」ゆえ、解読は簡単と思っていたが、初心者の情けなさで一首解読に悶々と長考。ネット調べをしても「佐野喜版・狂歌入り東海道」のアップ例は少なく、稀にあっても狂歌読み下しはない。

 唯一「ボストン美術館」のサイトが全狂歌を読み下しているが、単作扱いゆえか次作・次作への検索は不可。一首をやっと読み下した同文をもって検索すると初めて「ボストン美術館」の同作がヒットするといった按配。また稀に各地元の史蹟案内板や企画展などに、この「狂歌入り東海道」が紹介されているサイトもあったりはする。

 結局「くずし字」初心者の隠居翁が、老いた頭で一首長考する他にない。順を追って「全狂歌の筆写・現代文訳」をしてみようと思った次第。さて、最後の56作まで辿り着けましょうか。

 また旅のお共に十返舎一九『東海道中膝栗毛』を併せ読みすることにした。幸い同書は早稲田大学のデータベースで版本の閲覧が可能。文化財秘蔵・私蔵から一般公開。良い時代になりました。併せて十返舎一九はそうとうに狂歌にのめり込んでいたようで、狂歌をアクセントとしたような構成。たっぷりと狂歌を味わうことに相成候。

 現実は嫌なことばかり。加えて老人には辛い真夏日続きゆえ、クーラーの効いた部屋で〝憂き世忘れ〟の「くずし字&狂歌」解読の隠居遊びです。無学ゆえ間違い多々でしょうがお許し下さい。

 まずはじめの絵は、広重の似顔絵です。ゴッホには「タンギー爺さん」をはじめ、浮世絵を背景に描き込んだ作品がありますから、ここは豊国描く広重肖像画(版画)を参考に、逆にゴッホ風の広重似顔絵です。


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