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箱根「ことわざに雲ともいへる人なれや~」 [狂歌入東海道]

hakonee1_1.jpg 十一作目は「箱根」。狂歌は「ことわざに雲ともいへる人なれやかゝる山路を夜るも越ゆく」。筆写で「夜にも」と書いたが正しくは「夜るも」。「夜」に送り仮名「る」が付き、「越ゆく」に送り仮名「え」がない。当時は送り仮名が定まっていないゆえ、柔軟に対処しないと読み誤る。「なれや=だから~なのだろうか」。意は「諺で雲の人といわれるだろう人が箱根の山路を越えてゆくよ」。

 その諺は知らないが「雲の人=雲助」だろう。彼らには箱根路を守っているという高いプライドがあって、沿道沿いに「雲助徳利の墓」もあるとか。絵は険峻な石高道を武士らしき二人を乗せた駕籠が、松明を掲げて走って行く図。侍らに火急の用があったと思えば、時代劇ドラマも浮かんで来る。

 膝栗毛にこんな一首あり。「ひとのあしにふめどたゝけど箱根やま本堅地なる石高のみち」。校注に「本堅地(ほんかたぢ)」は「箱」の縁語。布・漆・磨きを重ねた上級漆器のこと。「石高道(いしだかみち)」は石が多くでこぼこしている道。箱根の山は人の足で踏めど叩けどびくともしない本堅地のような石高道だ、と詠っている。

hakoneuta1_1.jpg 保永堂版は「箱根・湖水図」。〝万丈の山・千仭の谷〟を大名行列が下ってい、眼下に芦ノ湖が見える。湖畔まで下れば、そこは「箱根の関所」。関所を通った先に宿場があるも最高点・箱根峠はまだ先だ。

 弥次喜多のふたりは、無事に関所を抜けた歓びで一首。「春風の手形をあけて君が代の戸ざさぬ関をこゆるめでたさ」。「あけて」を中村幸彦氏校注は、手形を役人に見せるために「差し〝上げて〟」。片や麻生磯次氏校注は、役人に手形を「開き〝あけて〟」と説明。偉い先生方でもかくも微妙に解釈が違うゆえ、無学隠居=小生のいい加減な解釈も免じてもらいたい。

 「閉ざさぬ関を越ゆる目出度さ」は、現代人には関所=難関イメージがあるも、江戸人にとっては明け六ッ時(午前6時頃)から暮れ六ッ時(午後6時頃)まで門が開いてい、自由に行き来が可能で目出度い事よ、の気持ちだったのだろう。両先生共に、この狂歌を「戸締りをしないでも盗難などの心配のないよく治まった御代よ」と説明していた。

 小生はここで大田南畝の一首を挙げたい。「あいた口戸ざゝぬ御代のめでたさを おほめ申すもはゞかりの関」。やはり南畝は十返舎一九より冴え、風刺も効いている。

 弥次喜多のふたりは、箱根に泊らず次の三島で泊るべく箱根峠越えして坂を下って行く。以上で「東海道中膝栗毛・初編」終わり。


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