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沼津「名にしおふ沼津堤の花見酒~」 [狂歌入東海道]

13numadue1_1.jpg 第十三作目は「沼津」。狂歌は「名にしおふ沼津堤の花見酒泥のごとくに酔しひとむれ」。堤・泥の解読に難儀した。「ひとむれ=人群れ」ならば文字通りの意だろう。

 背景は左に大きな富士山半分、右に愛鷹山。その手前に長閑な田園・街道風景。茶屋の横に傍示杭(ぼうじくい)と高札あり。一方の保永堂版は蛇行する狩野川堤の道から沼津宿へ入ろうとする図。両画で沼津宿の西と東が描かれたことになる。

 弥次喜多のふたりもこの茶屋で、狂歌のように呑み潰れたいところだろうが、三嶋宿で金を盗まれて茶と煙草一服のみの休憩。茶屋を出て〝ならの坂〟といふ所に至り、千本の松原にて一首。「この景色見ては休にやならの坂 いざたばこにや千本の松」。休まにゃなら⇒ならの坂、煙草にゃせん⇒千本の松、と地名組み込み。

13numazuuta1_1.jpg 弥次喜多は、ここで会った武士に〝印伝革〟の巾着を百文で買ってもらう交渉をしつつ「原宿」に到着。「まだめしもくはず沼津をうちすぎてひもじき原のしゆくにつきたり」。「飲まず⇒沼津」「ひもじき腹⇒原の宿」。狂歌の駄洒落にすこし馴れてきたようです。

 以下はメモ。「傍示杭」は村境・国境の表示。「江戸見附・上方見附」は宿場の見付(木戸・大木戸・要所には桝形門)の解釈でいいだろうか。

 小生の伊豆大島ロッジの通称地名は〝ケイカイ〟。当初はその意がわからなかったが、海岸の朽ちたコンクリート杭に「元村・岡田村境界」の文字。その「境界」を法律・測量系で「ケイカイ」と読むと知った。江戸時代は「境界」を何と読んだのだろうか。

 印伝革はインド伝来の鹿革へ漆で模様を付けた革の巾着、煙草入れなどの工芸品。沼津堤は駿河湾の千本松沿いの堤か。今は10~17mのコンクリート防潮堤は20㎞も続いているらしい。そして波打ち際にテトラポット。景観・情緒を優先か、津波からの安全を優先かは難しい選択になる。


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