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保土ヶ谷「諺のまハるもはやき双六や~」 [狂歌入東海道]

hodogayae1_1.jpg 五作目は「保土ヶ谷」。狂歌は「諺のまハるもはやき双六やいそけはいそく程かやのえき」。漢字で書けば「諺の回るも早き双六や 急げば急ぐ保土ヶ谷の駅」。諺双六では急がば回れだが、ここは急げば急ぐがいい保土ヶ谷の宿場、の意だろう。

 この狂歌調べで「急がば回れ」と詠ったのが連歌師・宗長と知った。「もののふの矢橋の船は速けれど急がば回れ瀬田の長橋」。簡略説明すれば、船は早いが波で難儀する場合もあるゆえ、武士なら確実な橋がいいよ。

 宝永堂版「保土ヶ谷・新町橋」は、帷子橋を渡って保土ヶ谷宿へ入ってゆく図だが、この「狂歌入り東海道」は山間の平地にある茶屋が描かれている。さて、どこだろうか。絵をよく見ると「境木立場」の文字。絵を解くヒントなり。

 「境木立場」でネット検索すれば「横浜市の歴史めぐり、旧東海道を歩く」のpdfがヒット。その冊子を開けば詳細説明あり。また「境木立場跡」の史蹟案内板があって「狂歌入り東海道」と「江戸名所図会・境木」の絵が紹介されていると知った。

hodogayauta2_1.jpg それら説明を要約する。保土ヶ谷と戸塚宿の間は、海を離れて内陸側を歩くことになり、上方へ向かって最初の難所ともいうべき幾つも急坂が続く。武蔵国と相模国の境に大木ありて、その地が「境木」。そこに一息する立場(休息所)あり。「江戸名所図会」を見れば十軒ほどの茶屋が描かれているから、「狂歌入り東海道」はその一部を描いたものとわかった。

 では「保土ヶ谷宿」とはどんな所だったか。弥次喜多コンビの説明は「両側より旅雀の餌鳥(おとり鳥)に出しておく留おんな(客引き女)の顔は、さながら面をかぶりたるごとく真白にぬりたて、いづれも井の字がすりの前垂を〆たるは、扨(さて)こそいにしへ、爰(ここ)は帷子の宿(かたびらのしゅく)といひたる所となん聞(きこ)へし」。

 保土ヶ谷宿は昔「保土ヶ谷・新町・帷子」の三宿がまとまった経緯があって、現在も保土ヶ谷に「帷子町」がある。ここを流れる川の片側が平らで「方平・潟平」から「帷子」とか。繊維がらみの地名と思ったが、それは明治以降のことらしい。

 そんな留女を弥次さんは「おとまりハよい保土ととめ女 戸塚まてハはなさざりけり」。お泊りには程よい時間だと留女は戸塚まて(=とっ掴まえて)離さない、と詠っている。駄洒落苦手の小生には、狂歌解釈は難儀です。


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