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もう一人の暁斎弟子、F.ブリンクリー [青山・外人墓地]

brinkley1_1.jpg 「河鍋暁斎とコンドル」の関係から、本題のフランシス・ブリンクリー(Francis Brinkly)の掃苔へ。外人墓地ではなく一般墓地「1イ1:28-3」(管理事務所の裏辺り)。傾きかけた大きな自然石墓標。墓碑銘の英文は左書き、日本語は〝右横書き〟。墓碑銘通りに記せば以下の通り。

「墓之ークンリブスシンラフ等二勳」。その下が英文で、下に「墓之子安妻 卒日九十月四年七和昭」。夫妻の墓になっている。裏側には「一千九百十二年四月二十八日永眠」。ブリンクリーが71歳で亡くなった明治45年の日付。隣にある二つの墓は子らの墓だろう。

 ブリンクリーの経歴は、絵画趣味から入ったゆえ『河鍋暁斎画集3 絵日記・資料』掲載記述を参考にする。ブリンクリーは1841年にアイルランド・ミーズ州の名家で生まれた。英国陸軍砲工学校卒。元治元年(1864)、従兄の香港総監リチャード・マクドネルの副官として香港に滞在。

kawanabee1_1.jpg 慶応3年(1867)、英国日本公使館補及び守備隊長として香港から来日。(公使館が慶応2年に横浜から泉岳寺前に仮移転した頃)。その頃に武士の果し合いに遭遇。勝者が斬られ死んだ相手に自分の羽織をかけ、跪いて合掌する光景を見て、日本に惚れたとか。明治4年(1871)、海軍省のお雇い軍人になって、海軍砲術学校・主任教師に就任。明治6年、『語学独案内』を出版。明治11年(1878)に水戸藩士の娘・田中安子と結婚(英国人と日本人の正式結婚第1号)。同年より工部大学校の数学科教師。

 明治14年(1881)に「ジャパン・メール」紙買収。経営者兼主筆。社説、宗教、美術関係の記事は自ら執筆らしい。社説では常に日本擁護。日英同盟も彼の筆によるところ大とか。日清戦争後は「ロンドン・タイムズ」の日本通信員も兼務。その他、日本郵船会社顧問。陸奥宗光との親交から外務省の書類の英訳の大部分を担当。

brinklyhaka2_1.jpg 仕事の合間には「茶の湯」をたしなみ、日本美術に造詣深く、陶磁器は蒐集かつ鑑定権威者。日本の歴史や政治、美術に関する著述多数。(「和英大字典」「Japan and Chine」「The Art of Japan」「History of the japanese People」など)

 河鍋暁斎・コンドルと日光へ写生旅行をしたのは、官舎新築中のコンドルを自宅(飯田町)に同居させていた明治18年。翌年にコンドル訪欧の際に、コンドルに代わって暁斎の出稽古を受けた。当時の暁斎「絵日記」にはその様子が描かれていた。(カットは「ぶれんき君 画帳ヲ見テヨロコブ」)

 彼の日本美術への関心はその前からで、明治10年頃の古書店主が〝弁慶〟と称した彼が多数浮世絵や暁斎の錦絵などをセッセと購入していた、と思い出を語っている。大正元年10月、広尾の自宅で逝去。家族は妻・安子との間に二男二女。

 息子のジャック・ロナルド・ブリンクリーについては、サイト「名和伯耆守戯言」を参考にさせていただく。彼は暁星中学卒後にヨーロッパ各地大学に留学。第一次大戦は英国の陸軍将校として従軍。第二次大戦では日英の架け橋になろうとするも軍部は「敵国人」として財産没収や父の資料破棄、国外追放。それでも戦後に日本へ戻って極東軍事裁判検事団の翻訳課長。その後は軍籍を離れて大学で英文学の教授。日英文化交流の出版社を興すなどした。昭和39年(1964)、77歳で死去。仏式の葬儀だったという。

 今回の似顔絵は、まず全面にセピア色を塗り、白で描き出す方法に初挑戦してみた。


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河鍋暁斎とコンドルとブリンクリー [青山・外人墓地]

conder2_1.jpg 青山霊園の一般墓地に眠る〝お雇い外国人〟の一人に、河鍋暁斎・コンドルと一緒に日光写生旅行に行ったフランシス・ブリンクリーがいる。

 すでに河鍋暁斎の画集や関連書の幾冊かに目を通していたから、ジュサイア・コンドル(Josiah Conder。建築家。鹿鳴館など多数設計だが、現存するのは岩崎邸、旧古河邸、三菱一号館など)が熱心な弟子だったことは知っていたが、ブリンクリーも暁斎の弟子だったとは知らなかった。

 ブリンクリーの本題に入る前に、前段として「コンドルと河鍋暁斎の関係」をまとめておく。(コンドル著『河鍋暁斎』の訳者解説文を参考)

 コンドルの入門は明治14年。コンドル29歳、暁斎50歳。彼は自身設計の上野美術館で、狩野派・暁斎の『枯木寒鴉図』に魅せられての入門。明治初頭は欧州にジャポニズムが広まった時期で、彼は在日外国人の日本研究組織「日本アジア協会」(明治5年創立の日本最古の学術団体で今もある)に入会。明治13年に「日本衣裳史」を発表など日本文化に強い関心を抱いていた。

 暁斎に入門当初は工部大造家学科の教師と官営建造物の設計施工で超多忙。毎土曜に暁斎に泊り込み出稽古を受けていたが、明治15年に同校から解放され、土曜日たっぷりの出稽古を受けたらしい。暁斎は本郷湯島から人力車で麻布のコンドル官舎へ。来日前にすでに水彩画名手だった彼は、たちまち暁斎の画技を習得。明治17年の内国絵画共進会に『雨中鶯図』出品で金銀銅賞の次の「褒状」綬章。氏から「暁英」の号をもらった。

 暁斎とコンドルとブリンクリーが日光写生旅行に行ったのは明治18年8月1日から10日間。これはコンドルの官舎新築中に、彼がブリンクリー宅(当時、麹町飯田町)に同居してい、それが縁でブリンクリーも絵を習い始め、スケッチ旅行に参加したらしい。

 コンドルの影響もあってか、お雇い外国人ではドイツの医師ベルツ(暁斎の胃癌を診察)、御真影を描いたキョソーネなども暁斎作をコレクション。そしてブリンクリーは明治19年頃に、自分のために描かれた暁斎作品をはじめ、画帳や額装の優美仕上げの暁斎画、掛け軸の逸品も所有したらしい。

 コンドルは日本画の他に日本造園、生け花、日本舞踊もお勉強。踊りの稽古で知り合った花柳流の「前波くめ」と結婚。結婚前に芸者に産ませた美貌のヘレンを引き取った。コンドル夫妻の墓は護国寺だが、ここでのテーマはフランシス・ブリンクリーゆえ青山霊園の彼の墓の掃苔へ向かう。(続く)


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電信事業の父、ウィリアム・ストーン [青山・外人墓地]

stone6_1.jpg 明治のお雇い外国人には青山霊園「一般墓地」に埋葬の方もいる。明治32年の居留地制度廃止に伴って同外人墓地が一般墓地扱いになったゆえだろう。日本の通信事業に寄与したウィリアム・ヘンリー・ストーン(William Henry Stone)も一般墓地の端「1(イ)11号13側」に眠っている。十字架の墓標、両脇に灯籠。右下に「ストーン君碑誌」あり。大正6年の原文をルビ付きで紹介。

「勳一等ウ井リアムヘンリーストーン君ハ我ガ天保八年六月十八日ヲ以テ愛蘭(アイルランド)ニ生マル明治初年帝国政府ニ聘(へい)セラレテ電信事業ノ指導ニ膺(あた)リ次(つ)イデ逓信省ニ在リテ顧問ニ任ジ前後四十餘年専心其職ニ盡クシテ功績顕著ナリ殊ニ對外電信業務ハ君ガ心血ヲ瀝(そそ)ギシ所ニシテ日清日露ノ両役ニ於ケル軍国通信ノ運用ニ就イテモ貢献亦タ少カラス大正六年六月三日東京ノ寓居ニ没ス享年八十有一ツノ病革(あらた?)マルニ方(あた)リテハ旭日大綬章ヲ授ケラレ訃(つげる)天聴ニ達スルヤ(天皇の耳に達するや)特ニ賭(ふ。死者を弔って遺族に贈る金品)ヲ賜ワル君天資重厚ニシテ勢利(せいり。権勢と利欲)ノ念ニ薄ク本邦通信事業ノ信用ヲ中外ニ宣揚センコトヲ務メタリ其高風偉勲ハ永ク後人ノ亀鑑タルベシ」

stonehaka_1_1.jpg 碑誌で充分に語られているも高橋善七『お雇い外国人ー通信』(鹿島出版刊)、東京公園文庫33『青山霊園』(田中澯著)を参考に彼の経歴をまとめる。

 1837年、イギリス税関吏の長男としてアイルランド・スライゴ州(Sligo)生まれ。明治5年(1872)、35歳で工部省書記官として招聘。明治初めの電話電信事業は制度・技術面すべてをお雇い外国人(一時は59名)の教導によった。

 明治18年(1885)12月、工部省から逓信省へ移行。知識・技術は日本人の経験が年々蓄積されるも「通信行政」は国際間交渉頻繁で、彼に頼らざるを得ず。結局彼は電信事業顧問40余年。日清・日露戦争では軍の枢機に参画し電信面で貢献した。

 彼は重厚な風格を有し、勢利には薄かった。俸給の余りは各方面に喜捨。慈善事業には惜しまず寄付。日清・日露戦役にも多額を寄付した。政府はその功に報いて終身年金を決定。またデンマーク、フランス、オランダ、スペインなどからも勲章受章。

 大正6年(1917)6月3日、80歳没。勳一等、旭日大綬章。葬儀は麻布の聖アンドリュー教会で執行され、墓碑は通信次官だった内田嘉吉(後に9代台湾総監)の所有地に埋葬。彼は早くに夫人を亡くし、令息は香港居住でスタンダード石油重役、令嬢はロンドン在住だったとか。ストーンに関する情報はネットには僅少。顔写真も鹿島出版の書に粗い凸版写真があるのみで、それを参考に描いた。


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日本のルソー、横井弘三展へ [スケッチ・美術系]

yokoitirasi1_1.jpg 久し振りに自転車に乗れば大腿四頭筋がきつかった。脚が萎えていた。GW後の伊豆大島でボケ~ッと過ごしていたせいらしい。身体を動かさないといけない。加えて野暮用続きでブログを更新する気も起きない。

 野暮用が途切れて「若冲展」へと思ったが、ネット調べで超混雑・長蛇の列とか。〝並んでまで食いたくない〟主義は〝並んでまで観たくもない〟。

 そこで自転車で中村橋の練馬区立美術館「横井弘三の世界展」へ行った。閑散とした会場で〝日本のアンリ・ルソー〟の作品群を堪能した。ルソーと同じく独学だが、第2回二科展(大正4年)初出品で、第1回樗牛(ちょぎゅう)賞。翌年に二科賞。〝素朴絵〟は文人画にも、表現主義系にも通じる一面あり。

 会場に入ると、まず若い日の「小笠原島旅行」写生作が展示されていた。なんと、そこに大島「元村風景」と題された作あり。日本のルソーさんが小笠原に一ヶ月滞在したのは大正12年で、伊豆七島の写生旅行は昭和2年、38歳の時らしい。ゆえに元村には未だ港はなく、杭打ちの桟橋から中型木造船へ、そして沖に蒸気船が停泊している図。

 彼には昭和3年刊の『東京近海 島の写生紀行』があるとか。同書には他の伊豆大島スケッチが幾作もありそうで、試みに東京都立中央図書館の蔵書検索をすれば閉架にあり。同館へ行った際に、ぜひ閲覧してみようと思った。

 チラシの自画像は制作年不詳だが晩年70代の作だろう。小生も老人ゆえに、こんな自画像を愉しく描ける心持になっていなければいけないと思った。


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十全病院の名医デュアン・シモンズ [青山・外人墓地]

Simmons1_1.jpg 福沢諭吉によるシモンズ墓碑銘の次はデュアン・シモンズ(Duane B.Simmons)の経歴・業績。ここは関連書を探すより「十全病院」を前身にする横浜市立大学医学部の同窓会「倶進会」のサイトと、『福翁自伝』(新潮新書)を参考にさせていただく。

 シモンズは横浜開港後の安政6年(1859)、派遣宣教師兼医師としてフルベッキ(青山・外人墓地に眠る)と共に来日。翌年、宣教師を辞して医者として横浜居留地で開業。一時帰国して再来日。フルベッキ推薦で明治3年(1870)に大学東校で1年間奉職。

 明治5年に伝染病予防の建議書を神奈川権令に提出。それによって同年、横浜市中病院が設立。翌年に「十全病院」と改称。神奈川県雇医に就任。以来、十全病院の名医として活躍。日々の治療活動の他に脚気の研究、明治10・11年のコレラ流行の際の治療・予防、県下の種痘実施、梅毒、駆虫剤セメンエン、薬用石鹸などで貢献。

 福沢諭吉の発疹チフスを治療したのは明治3年5月で福沢37歳、シモンズ36歳の時。ここは『福翁自伝』から当時を探ってみよう。当時の福沢は三田の島原藩中屋敷を手に入れるべく奔走中の頃。彼は25歳から昼夜問わずの飲酒生活で、30代になって「これではイカン」と猛省して少しづつ禁酒。37歳で酷い熱病(発疹チフス)に罹って万死一世の幸を得たときに、(治療をしてくれた)シモンズから「節酒の賜物で助かった」と言われたと記していた。また病後に(シモンズからだろう)馬に乗るのがいいと勧められて乗馬で諸方への運動を始めたと記していた。

 話をシモンズに戻す。かくして福沢諭吉が慶応義塾内に医学所を設立すると、彼は臨床講義を受け持った。明治13年(1880)に十全病院を辞して再び帰国。明治19年(1886)末に日本へ戻ってくると、福沢の紹介で三田に居を構えて、日本主義陣営の闘士として「時事新報」に健筆をふるった。明治22年(1889)2月に腎炎で逝去。似顔絵は、前回のパーマーで久々に墨+水彩だったので、今回は墨絵にした。


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福沢諭吉のシモンズ墓碑銘 [青山・外人墓地]

Simmons1_1.jpg 青山・外人墓地のデュアン・シモンズの墓碑銘は、彼に発疹チフスを治してもらった福沢諭吉が記していた。以前は墓標左右に灯籠があったが今はなく、どうしたのだろうか。まずは碑文解読を試みたが、写真からの判読は困難で途中断念。

 調べると『福沢諭吉全集・第19巻』(同巻初版は昭和37年)に収録とか。同書は新宿の図書館にはなく、都中央図書館(閉架)にあった。その数頁のコピーを得んと再び同館へ。シモンズの経歴・業績は後にして、まず墓碑銘を読んでみる。

 「ドクトル・セメンズは米国ニウヨルク州の人なり。千八百五十八年日本に渡来し、横浜に医業を開て内外人に治を施す(同書には「治」の次が〝一字破損〟とあるも、字間は普通ゆえ音読みだろう)。〇〇(二字破損)少なからず。同港十全病院(後の横浜医科大学)の如きも其開基に係り、親しく後進の医士を薫陶したるのみならず、間接に其風を四方に伝へ、〇(破損)我医学社会の眼を開きたるは、之を称して日本医道の恩人と云ふも争ふべからず」

yukitihibun3_1.jpg くずし字に旧かな。旧字・異体字・楷書・行書混じり。加えてシモンズはセメンズ、ニューヨークはニウヨルク。明治22年の書は〝いとをかし〟。ちなみに遣われていた「くずし字」を書き出した。先を続ける。

 「ドクトルの平生、私徳清潔、人或は之を一見して其厳酷無情を咎むるものなきにあらざれども、退て其内部を窺へば心情の優しくして人を愛するは実に天性に出でたるものにして、殊に其出色絶倫の徳は北堂(母堂)に事(つか)へて孝行の一事なり。北堂高齢八十に近し。ドクトルは片時も其左右を離るゝこと能(あた)はず、食を進め遊楽を共にし、一日も楽事の多からんを工風して怠ることなし。」

 福沢諭吉は二歳で父を亡くし、母お順が五人の子を育てたそうで、彼の〝母想い〟も有名らしい。〝出色絶倫〟は福沢の常套句。墓碑銘はここで三分の一。墓碑銘としては長文過ぎる。石工も大変だし、墓標も巨大にならざるを得ん。福沢諭吉はそういうことに気がまわらぬ男だったと推測した。

 「蓋(けだ)しドクトルが其性格の厳格なるにも拘はらず、人に交はりて言語粗ならず顔色温和にして正しく交際の紳士たるは、内に存する孝徳の外に溢れるものならんのみ。又ドクトルは日本を思ふの心常に浅からず、在留前後三十年の其間に日本の事を視察して怠らず、日本は恰も第二の本国にして、畢生(ひっせい=生涯)の心事(しんじ)は唯日本国人の利幅を進め日本に固有の文明の新面目を世界中に明にせんとするに在るのみ。殊に医の業たるや、下は最下等の貧民より上は最上等の良家に至るまで常に之に接するのみならず、深く内部に入りて人の家の裏面を見るものなれば、ドクトルの彗眼之を軽々に看過せず、其形を視て其情を察し、其視察の深切なること往々内外人の耳目を驚かすもの少なからず」

 これで半分。彼は勝海舟とは咸臨丸以来不仲だったそうな。勝のホイットニー墓碑銘の簡潔さに比し、福沢はかくの如く。「勝は粋で、福沢は野暮」と思った。『福翁自伝』を読めば、彼は自らを〝野暮〟と言っているから間違いなかろう。全文掲載の積りだったがここで止める。

 なお築地居留地に「慶應義塾発祥の地」碑があった。「慶應義塾の起源は1858年福沢諭吉が中津藩奥平家の中屋敷に開いた蘭学の家塾に由来する。その場所がこれより北東聖路加国際病院の構内に当る。この地はまた~」その先も省略する。


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近代水道の父、パーマー [青山・外人墓地]

spencer2_1.jpg キョソーネの重厚な墓と背中合わせに、横浜の上水道をはじめ近代水道の父と称されるヘンリー・スペンサー・パーマー(Henry S.Palmer)の墓がある。横浜のサイトには横浜水道記念館や野毛山公園の胸像、その業績も多数紹介されているが、新宿図書館には関連書なし。

 ネット調べで『祖父パーマー 横浜・近代水道の創設者』(樋口次郎著)を読みたく横浜図書館を検索。郷土史に欠かせぬ存在なのだろう市内全図書館が蔵書。「横浜へ行って読もうかしら」。試みに都立中央図書館で検索してヒット。むろん自転車で行く。ルート検索すると、なんと「青山霊園・中央通り~外苑西通り~広尾~有栖川公園内・都立中央図書館」と出た。

 同書冒頭に「彼は二ヶ月前に腸チフス罹って病床にいたが急性リューマチを併発。快方に向かっていたが脳卒中で麻布の自宅で逝去。明治26年(1893)、享年54歳」とあった。すでに紹介の宣教医師クレッカー、近代薬学行政に貢献のアントン・ヨハネス・ゲールツも腸チフスで亡くなっている。なんとも痛ましい。

 同書よりパーマーの経歴を簡単にまとめる。1838年、東インドの英国行政区マドイラス生まれ。1856年に王立士官学校を優秀な成績で卒業。英国領バンクーバー島で公共事業(測量、地図製作、公共施設建設)に従事。その後シナイ半島調査、ニュージーランドで金星の太陽面通過観測。1877年より工兵隊主任技術官として香港駐在。

palmerhaka1_1.jpg 明治12年(1879)、日本の現状分析に香港から来日。優れたレポート「最近の日本の進歩」などを発表。井上馨が注目。明治15年、中佐昇格で、東京のパーマー駐日公使館に滞在。井上馨より横浜の水道設計に適任と推挙される。

 鉄管による相模川・津久井郡より取水の計画書・見積書を日本技師と作成。明治18年(1885)よりパーマー監督で施工開始。明治20年、横浜市内に給水開始で横浜が歓喜に沸いた。同年、英国陸軍を退役。政府より勳三等を賜る。

 その後、大坂の水道設計、東京王子の国営製紙工場の浄水工場、奥州白河の皆既日食観測、函館の水道設計、横浜築港計画など。ジャーナリストとして『ザ・タイムズ』東京通信員として日本情報を発信。そして前述の明治25年に逝去。

 著者はパーマーの日本人妻の子。パーマー死後25年間独身を通した未亡人は横浜の貿易商に嫁して産んだ次男とか。今回の絵は久し振りに墨。そこに透明水彩と不透明水彩白でアクセント〈修正)。


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女子学院の礎、マリア・トゥルー [青山・外人墓地]

jyosigakuinnohi_1.jpg 「築地居留地」跡、聖路加看護学園の前庭に「女子学院発祥の地」碑あり。「ジュリア・カロゾルスが1870年、築地居留地6番にA六番女学校を創設、米国長老教会に所属した。女子学院」。横の案内板に旧築地居留地6番地の地図。隅田川沿いゆえ現・聖路加ガーデン辺りだろう。

 これだけでは「A六番女学校と女子学院」の関係がわからない。タイトルの「女子学院の礎、マリア・トゥルー」もわからない。青山・外人墓地のどこに彼女の墓があるのだろうか。現・女子学院の生徒さんが掃苔する写真をみつけて、それが「Maria T. Pitcher」と刻まれた墓とわかった。マリア・トゥルー・ピッチャー。

 まずは「A六番女学校」と「女子学院」の関係を調べる。清水正雄『東京築地居留地百話』と川崎晴朗『築地外人居留地』から、以下をまとめる。明治3年〝開港ならぬ開市〟間もない居留地に最初の洋館(木造コロニアル・スタイル)「A6番館」が宣教師カロザース夫妻(クリストファーとジュリア夫人)によって建てられた。夫妻は落成まで借りていた日本家屋で英語塾を開始。ジュリア夫人は一時帰国し、明治5年に帰ってきた時には女子教育専念の意を固めてい、さっそく三人の女子に教え始めた。その日が「女子学院」創立日らしい。

maris8_1.jpgtrue3_1.jpg 洋館は見物人が絶えなかったが、同年4月に「銀座大火」。無事だったが翌日の失火で全焼。すぐに再建。そして明治7年、婦人宣教師ヤングマンが来日し、隣に「B6番女学校」を開設。当然ながらAとBは対立。裏に米国長老教会の内紛があったらしい。

 明治9年、結局カロザース夫妻は嫌気がさしたのだろう宣教師辞任でA校閉鎖。原胤昭が見かねて私費で銀座3丁目に「原女学院」開設で生徒収容。明治11年に経営芳しくなく閉鎖。一方ヤングマンは明治9年にB校を居留地42番の新築校舎に移し「新栄女学校」に改名。A校と原女学院を吸収した形で生徒数45名。

 ここにミセス・トゥルーや矢嶋楫子らが教師で活躍。明治20年に生徒数135名。海岸女学校(後の青山学院)や立教女学校と併せて「築地の華」、一流女学校になった。共に〝良妻賢母教育〟ではなく自立した女性の育成がポリシー。

 明治23年(1890)、「新栄女学校」は麹町の「桜井女学校」(桜井ちかの開設だが、夫が北海道伝道で、運営を新栄女学校に委ねた)と合併し、校舎を現在地(千代田区一番町)に新築して「女子学院」とした。まことにややこしいが、これでやっと理解した。

 次に清水正雄著の「女子学院の基礎を築いたマリア・トゥルー」の項から、彼女の経歴をまとめる。1840年、ニューヨーク州の農家生れ。21歳で南北戦争。当時在住していたペンシルバニアは奴隷解放の激戦区で、差別廃止運動に影響を受ける。1865年、長老教会の牧師と結婚。7年後に夫が病死。NYの女子伝道学校に入学し、33歳で中国へ。だがアヘン戦争で混乱状態。明治7年(1874)に来日。「原女学院」「新栄女学校」で教職。

 明治16年に一時帰国。翌年に再来日。他に女学校や保育科、看護婦養成所開設に携わって、明治23年の「桜井女学校」と「新栄女学校」の合併に尽力。彼女の信念は「日本人の教育は日本人が適切」で、女子学院初代校長が矢嶋楫子になった。その後の活動は略すが、明治29年に自ら開設の淀橋角筈の女性療養施設・衛生園で召天。55歳だった。似顔絵がうまく描けなかったのでレタリングで頑張った。書体はバンビーノ・ボールド。


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貧しき人々を救った宣教医師クレッカー [青山・外人墓地]

krecker2.jog_1.jpg 勝海舟による墓碑銘が刻まれたアンナ・ホイットニーの墓地には他に三つの墓が並んでいる。南端の墓が「築地福音教会」の宣教医師フレデリック・C・クレッカーの墓。墓標に「福音教会宣教師 米国医学博士 エフクレカ之墓」。同墓所に埋葬は赤坂病院のウイリス・ホイットニーの治療を受けた縁だろうか。

 清水正雄著『東京築地居留地百話』から彼の経歴をまとめる。1843年、ニューヨークの牧師の長男。フィラデルフィアの医科大卒で、南北戦争の北軍海軍・軍医として従軍。その後ペンシルバニアで開業医。33歳で牧師に転向。明治9年(1876)、米国福音教会より日本伝道の指令で、同僚のハドソン、ハーンフーバー、そして自身の妻と三人の子と来日。

 駿河台・美土代町から築地居留地に移ったのは明治11年。当時は付近に貧しき人々が住む町があって(居留地や銀座煉瓦街が出来る前の地には、貧しき人々の町があったらしい)、彼はそうした町で伝道と病気治療を開始。明治16年、魚の行商の息子のチフスを治療していて自身も感染。40歳で亡くなった。

krecker2_1.jpg 「明治16年 腸チフス」でネット検索すると、なんと!近代薬学行政、保険衛生の発展に貢献したオランダ出身のお雇い外国人アントン・ヨハネス・ゲールツ(Geerts )も腸チフスで急逝とあった。彼は明治2年、長崎医学校の理化学教師として26歳で来日。山口きれと結婚して6人の娘を設ける。京都や横浜の司薬場の監督を務め、明治13年に日本薬局方編纂委員。明治16年、腸チフスで横浜の自宅で急逝。40歳だった。(横浜の外人墓地で眠っている)。

 そういえば長谷川時雨『旧聞日本橋』にも、当時の虎列刺(コレラ)病除けの〝変なおまじない〟が流行していたとあった。ちなみに横浜市環境局サイト「下水道の歴史」を見れば、全国データで明治12年:コレラ死者10万人余。明治15年:コレラ死者3万人余、腸チフス死者6千人余とあった。以後も赤痢と腸チフスによる死者が年々相当数記録。そこで横浜の外人居留地では全国に先駆けて英国人ブラントンの設計で明治12年に居留地内に下水道が完成と記されていた。

 話をクレッカーに戻す。明治19年、彼の働きを記念して新富町際に当時の日本の教会としては最大級の「築地福音教会(クレッカー記念教会)」が建設された。同教会は大正12年の大震災で類焼。官有地だったので再建できず、後に世田谷福音教会~和泉教会へと歴史が引き継がれているそうな。


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