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貧しき人々を救った宣教医師クレッカー [青山・外人墓地]

krecker2.jog_1.jpg 勝海舟による墓碑銘が刻まれたアンナ・ホイットニーの墓地には他に三つの墓が並んでいる。南端の墓が「築地福音教会」の宣教医師フレデリック・C・クレッカーの墓。墓標に「福音教会宣教師 米国医学博士 エフクレカ之墓」。同墓所に埋葬は赤坂病院のウイリス・ホイットニーの治療を受けた縁だろうか。

 清水正雄著『東京築地居留地百話』から彼の経歴をまとめる。1843年、ニューヨークの牧師の長男。フィラデルフィアの医科大卒で、南北戦争の北軍海軍・軍医として従軍。その後ペンシルバニアで開業医。33歳で牧師に転向。明治9年(1876)、米国福音教会より日本伝道の指令で、同僚のハドソン、ハーンフーバー、そして自身の妻と三人の子と来日。

 駿河台・美土代町から築地居留地に移ったのは明治11年。当時は付近に貧しき人々が住む町があって(居留地や銀座煉瓦街が出来る前の地には、貧しき人々の町があったらしい)、彼はそうした町で伝道と病気治療を開始。明治16年、魚の行商の息子のチフスを治療していて自身も感染。40歳で亡くなった。

krecker2_1.jpg 「明治16年 腸チフス」でネット検索すると、なんと!近代薬学行政、保険衛生の発展に貢献したオランダ出身のお雇い外国人アントン・ヨハネス・ゲールツ(Geerts )も腸チフスで急逝とあった。彼は明治2年、長崎医学校の理化学教師として26歳で来日。山口きれと結婚して6人の娘を設ける。京都や横浜の司薬場の監督を務め、明治13年に日本薬局方編纂委員。明治16年、腸チフスで横浜の自宅で急逝。40歳だった。(横浜の外人墓地で眠っている)。

 そういえば長谷川時雨『旧聞日本橋』にも、当時の虎列刺(コレラ)病除けの〝変なおまじない〟が流行していたとあった。ちなみに横浜市環境局サイト「下水道の歴史」を見れば、全国データで明治12年:コレラ死者10万人余。明治15年:コレラ死者3万人余、腸チフス死者6千人余とあった。以後も赤痢と腸チフスによる死者が年々相当数記録。そこで横浜の外人居留地では全国に先駆けて英国人ブラントンの設計で明治12年に居留地内に下水道が完成と記されていた。

 話をクレッカーに戻す。明治19年、彼の働きを記念して新富町際に当時の日本の教会としては最大級の「築地福音教会(クレッカー記念教会)」が建設された。同教会は大正12年の大震災で類焼。官有地だったので再建できず、後に世田谷福音教会~和泉教会へと歴史が引き継がれているそうな。


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