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女子学院の礎、マリア・トゥルー [青山・外人墓地]

jyosigakuinnohi_1.jpg 「築地居留地」跡、聖路加看護学園の前庭に「女子学院発祥の地」碑あり。「ジュリア・カロゾルスが1870年、築地居留地6番にA六番女学校を創設、米国長老教会に所属した。女子学院」。横の案内板に旧築地居留地6番地の地図。隅田川沿いゆえ現・聖路加ガーデン辺りだろう。

 これだけでは「A六番女学校と女子学院」の関係がわからない。タイトルの「女子学院の礎、マリア・トゥルー」もわからない。青山・外人墓地のどこに彼女の墓があるのだろうか。現・女子学院の生徒さんが掃苔する写真をみつけて、それが「Maria T. Pitcher」と刻まれた墓とわかった。マリア・トゥルー・ピッチャー。

 まずは「A六番女学校」と「女子学院」の関係を調べる。清水正雄『東京築地居留地百話』と川崎晴朗『築地外人居留地』から、以下をまとめる。明治3年〝開港ならぬ開市〟間もない居留地に最初の洋館(木造コロニアル・スタイル)「A6番館」が宣教師カロザース夫妻(クリストファーとジュリア夫人)によって建てられた。夫妻は落成まで借りていた日本家屋で英語塾を開始。ジュリア夫人は一時帰国し、明治5年に帰ってきた時には女子教育専念の意を固めてい、さっそく三人の女子に教え始めた。その日が「女子学院」創立日らしい。

maris8_1.jpgtrue3_1.jpg 洋館は見物人が絶えなかったが、同年4月に「銀座大火」。無事だったが翌日の失火で全焼。すぐに再建。そして明治7年、婦人宣教師ヤングマンが来日し、隣に「B6番女学校」を開設。当然ながらAとBは対立。裏に米国長老教会の内紛があったらしい。

 明治9年、結局カロザース夫妻は嫌気がさしたのだろう宣教師辞任でA校閉鎖。原胤昭が見かねて私費で銀座3丁目に「原女学院」開設で生徒収容。明治11年に経営芳しくなく閉鎖。一方ヤングマンは明治9年にB校を居留地42番の新築校舎に移し「新栄女学校」に改名。A校と原女学院を吸収した形で生徒数45名。

 ここにミセス・トゥルーや矢嶋楫子らが教師で活躍。明治20年に生徒数135名。海岸女学校(後の青山学院)や立教女学校と併せて「築地の華」、一流女学校になった。共に〝良妻賢母教育〟ではなく自立した女性の育成がポリシー。

 明治23年(1890)、「新栄女学校」は麹町の「桜井女学校」(桜井ちかの開設だが、夫が北海道伝道で、運営を新栄女学校に委ねた)と合併し、校舎を現在地(千代田区一番町)に新築して「女子学院」とした。まことにややこしいが、これでやっと理解した。

 次に清水正雄著の「女子学院の基礎を築いたマリア・トゥルー」の項から、彼女の経歴をまとめる。1840年、ニューヨーク州の農家生れ。21歳で南北戦争。当時在住していたペンシルバニアは奴隷解放の激戦区で、差別廃止運動に影響を受ける。1865年、長老教会の牧師と結婚。7年後に夫が病死。NYの女子伝道学校に入学し、33歳で中国へ。だがアヘン戦争で混乱状態。明治7年(1874)に来日。「原女学院」「新栄女学校」で教職。

 明治16年に一時帰国。翌年に再来日。他に女学校や保育科、看護婦養成所開設に携わって、明治23年の「桜井女学校」と「新栄女学校」の合併に尽力。彼女の信念は「日本人の教育は日本人が適切」で、女子学院初代校長が矢嶋楫子になった。その後の活動は略すが、明治29年に自ら開設の淀橋角筈の女性療養施設・衛生園で召天。55歳だった。似顔絵がうまく描けなかったのでレタリングで頑張った。書体はバンビーノ・ボールド。


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