SSブログ

近代外科の礎、スクリバ博士 [青山・外人墓地]

scriba1_1.jpg 外人墓地のなかでやや異彩の一区画に大墓標四つ。中央に「Julius Karl Scriba」(ユリウス・カルル・スクリバ)と読み取れる。右の墓標はカタカナで「エミル・スクリバ之墓」。左は「日本医科大学教師フリッツ・スクリバ之墓」と「ヘンリー・スクリバ之墓」。

 以下は、鹿島出版会『お雇い外国人ー医学』(石橋長英・小川鼎三著)の「ユリウス・カルル・スクリバ~日本外科学会の恩人」の項を参考にする。なお「カール」表記も多いが、ここでは同書の「カルル」とする。彼はヘッセン大公国(後にヘッセン民主国~今はドイツのヘッセン州。中心都市はフランクフルト)の1848年生れ。ハイデルベルグ大学で医学と植物学を修め、普仏戦争(1870~71のフランスとポロイセン王国の戦争=独仏戦争)では傷病兵を手当て。ベルリン大学で研究生活。

 明治14年(1881)、東京大学の前任者シュルシェの後を継いで外科教師として来日。以後1901年まで20年間にわたって在任。「内科べルツ・外科スクリバ」と並び称された。外科の他に皮膚科、梅毒科、眼科、裁判医学も教えた。アジア各国からも彼の診断を求める方が来日したとか。明治24年(1891)の濃尾大地震では医局員を率いて210余名を治療。明治34年(1901)に東京大学の教職を退き、聖路加病院で外科主任。1905年、56歳で病没。勲一等を授与された。

scribaa1_1.jpg 東大構内と群馬県草津に「べルツ博士とスクリバ博士」の胸像あり。プライベートは神谷ヤスと結婚し、三人の男子を設けた。長男フリッツ(病没)、次男エミール(病没)、三男ヘンリーは「須栗場」姓ゆえ帰化したのだろうか。狩猟好きで日本で最初にシェパード犬を飼うなど、多趣味だったらしい。似顔絵はまた趣を変え、すこしゴッホタッチで描いてみた。


コメント(0) 

近代窯業を育てたワグネル [青山・外人墓地]

wagener4_1.jpg 鹿島出版会の吉田光邦著『お雇い外国人ー産業』とサイト『横浜市立大学医学部医学科同窓会・倶進会〝横浜医史めぐり3〟を参考にする。ゴットフリード・ワグネル(Gottfried Wagener)は、1831年ドイツ生まれ。ゲッティンゲル大学の数学物理学の博士号を21歳で取得。ドイツで数学教師から翻訳官。フランス語、イタリア語、スペイン語を習得。パリで弟と化学工場を試みるが失敗。

 そんな折に上海の米国商社が長崎に石鹸工場を計画。慶応4年(1868年9月から明治元年)にワグナムを長崎に招聘。だが工場計画は頓挫。佐賀藩に雇われて有田で窯業技術を指導。新たな釉薬、コバルト顔料、石炭窯の実験などで伊万里焼(有田焼)の近代化に貢献。

 明治4年(1871)より大学南校(現・東大)でドイツ語教師。翌年に大学東校(現・東大医学部)で数学、物理、化学のお雇い教師。その仕事に並行して好きな美術工芸品の蒐集・研究。

 明治6年(1873)のウィーン万国博出品の顧問に就任。日本は未だ工業力未熟ゆえに伝統美術工芸品の出品を提案。大人気を博す。併せて職工24名に西洋技術を習得させるべく各所に配属。研究資料も蒐集した。

wagenerhaka_1.jpg 明治7年の帰国後は、教壇に立つと同時に「勧業寮」で諸産業の研究開発にも従事。「七宝釉薬」研究もこの時。明治9年(1876)には米国フィラデルフィア万国博の準備委員会メンバーに。

 帰国後は東大理学部で製造化学の担当教師。東京職工学校(東京工業大学)で窯業学の教師を兼任。併せて陶磁器、七宝釉薬、ガラス、石鹸製造などの技術改良。明治15年(1882)、自ら作った陶磁窯で作成作品を「旭焼」とした。

 大学の6年契約を終えた後は、リウマチ悪化でドイツに一時帰国。明治25年(1892)に帰来して弟子らの教育に当たっていたが、同年11月に駿河台の居宅で永眠。享年61歳。

 青山・外人墓地の墓碑は「旭焼」のレリーフが嵌められている。大震災や大戦で損傷した墓は、1980年の没後90年に「日本セラミック協会」にとって修復。京都市・岡崎公園に幅4㍍の大きな碑があり、東工大・大岡山キャンパスにも記念碑が建立されている。似顔絵は「有田焼」発想でピーコックブルー1色のカマイウ技法で描いてみた。


コメント(0) 

歯科と語学のイーストレーキ親子 [青山・外人墓地]

Eastlake1_1.jpg 北海道の牧畜に貢献したエドウィン・ダンのお墓の東側に大きな墓標と石碑が並んでいる。墓標は「博言博士イーストレーキ先生墓」。碑は「イーストレーキ先生の碑」。まず碑文を読んでみる。

「ウイリアム クラーク イーストレーキ先生ハ天保五年英国ノ名族ニ生ル 後米国ニ帰化シ万延元年家ヲ挙ゲテ来朝ス 明治二年愛息教育ノタメ一家相携ヘテ日本ヲ去リ 明治六年米国オハヨー歯科大学ノ学位ヲ得 欧州各国ヲ遍歴シテ明治十四年再度我邦ニ来ル 以来横浜ニ於テ歯科医業ニ従事スルコト七年間 二十年二月二十六日東京ニ於テ逝去シ此地ニ葬ル 先生ハ実ニ我国ニオケル泰西歯科医学開発ノ先駆ニシテ明治文化ニ貢献セシ 博言語士イーストレーキ氏ノ父ナリ 今先生ガ五十年忌辰ニ方リ同志相議シテ其ノ功労ニ酬ユル謝意ヲ表セシカタク茲ノ此ノ碑ヲ建ツ 昭和十一年二月 社会歯科医学会撰」

 父は泰西(=西洋)歯科の開祖。碑文とダブルが清水正雄著『東京築地居留地百話』を参考に彼の経歴をまとめる。1834年、米国生まれ。18歳で歯科医。妻はローズ。万延元年(1860)に一家で横浜へ。歯科医術普及のかたわら趣味の貝類や昆虫を採集。だが横浜は攘夷暴徒の危険で香港で開業。以後、横浜でも開業するが、長男の教育のために渡独。

 明治8年、駐独公使・品川弥太郎に伴われて日本へ。入船町から本所横綱町で開業。そして香港へ。明治14eastlakehaka5_1.jpg年(1881)、家族会議をもって日本で落ち着くことを決定。横浜居留地で開業。明治20年に身体を壊して54歳で永眠。彼がかつて開業していた横浜・山下町に「我国西洋歯科医学発祥の地」記念碑が建っている。

 息子イーストレージは明治17年、25歳で来日。翌年に築地居留地に居住して日本紹介の週刊英字新聞「トーキョー・インディペンデンス」他を発行。神田小川町に東京英語学校を開設など多彩に活躍。23ヶ国語に精通で〝博言博士〟と呼ばれた。

 明治21年に太田ナオミと結婚。8人の子女を得る。『ウェブスター新刊大字典』の和訳本、『英和実用熟語慣用句辞典』を著わす。明治38年、風邪と過労で病床。市中の病院は日露戦争の傷痍兵でいっぱい。やっと二番町の回生病院に入院も手遅れ。47歳で逝去。墓碑は尾崎行雄らが建立。

 日本人の誰もが「歯科」と「英語」でイーストレーキ親子の世話になっていよう。小生、そろそろ歯医者に行かねばならない。


コメント(0) 

築地居留地を自転車散歩 [青山・外人墓地]

 青山・外人墓地調べをしていると「築地居留地」(跡)へ行ってみたくなる。同墓地のそもそもが、明治10年(1877)に築地居留地の在住者が亡くなったのを機に、青山霊園に外人墓地専用埋葬地を設けることが決まってのこと。その最初が「御真影を描いたキョソーネ」で紹介済。キョソーネと共に招聘されたドイツの銅板摺師カール・アントン・ブリュック(明治13年に41歳で病没)の埋葬だった。

beikokuato1_1.jpg かくして自転車で築地居留地・史蹟巡り。新宿から半蔵門を皇居・桜田濠沿いに下って晴海通りへ。銀座4丁目から歌舞伎座前を走って勝鬨橋手前を左折。築地7丁目の先が明石町。その取っ付きに老舗料亭「つきじ治作」。勝手口壁前に「運上所跡」の碑。運上=居留地の商工取引の税関。つまり「東京税関発祥の地」。

 ここから「佃の渡し」石碑辺りまでが明石町。居留地には競貸(せりがし)地区・相対借地(あいたいかりち・雑居地)の区別があったりするが、この全域が明治32年の居留地廃止で明石町になった。

 「運上所跡」から隅田川沿いに遡れば、ツインタワーの「聖路加ガーデン」。そのビル下に「アメリカ公使館跡」(赤坂に移る明治23年まで)の看板。明治17年に公使館第二書記として再来日したエドウィン・ダンもここで仕事をしていたのだろう。

tukijikyokai5_1.jpg アメリカ公使館の石標一部が、現・聖路加国際病院の庭にあった。同病院は居留地廃止の2年後、明治35年にアメリカ聖公会の宣教医師ハドルフ・トイスラーが設立。

 当時の面影を残すのは他に「カトリック築地教会」。明治11年にゴシック様式の聖堂が建立されたが関東大震災で焼失。現存する教会は昭和2年再建。

 自転車で辺りを走れば、多くのミッション系学校の「発祥の地」碑に出会う。立教大学、立教女学院、暁星学園、青山学院、女子聖学院、関東学院、女子学院、慶應義塾など。それら創設時代の教師・宣教師の幾人もが青山・外人墓地で眠っている。

 以下は私事。若い時分に「日刊スポーツ」に出向いた時期あり。中年で演歌仕事に関われば築地本願寺の第一伝道会館・百畳広間が公演芝居の稽古場で幾度も取材に通った。その両方を線で結んだ隅田川側がほぼ「築地居留地」。当時は興味関心なく、今は隠居の自転車散歩で20代の頃、40代の頃を思い出しつつ幕末・明治探しで遊んだ。写真上は「アメリカ公使館の石標が設置された聖路加国際病院前」、写真下が「築地カトリック教会」。

 追記:元は鉄砲洲または南八丁堀といわれる新港町の六丁目八丁目。同じ南八丁掘だった入船町の七、八丁目。同じく新栄町の六丁目。これらが居留地区域となり、いずれも明治三十二年(居留地廃止)に、明石町一色の中に〝編入〟された。(木村荘八著『東京繁盛記』)


コメント(0) 

牧畜指導と外交官のエドウィン・ダン [青山・外人墓地]

dun1_1.jpg 鹿島出版会『お雇い外国人~開拓』(原田一典著)を参考にする。エドウィン・ダン(Edwin Dun)は米国オハイオ州で1848年生れ。父が農業・牧畜の大農場を経営。18歳で父の事業に参加。牧畜業全般を習得し、競走馬育成もしたが南北戦争で頓挫。日本の開拓使赴任を承諾。100頭の牛、100頭の綿羊を引き連れて明治6年(1873)に来日。

 まずは東京の大名大屋敷跡に設置の官園(北海道開拓に持ち込む種苗・種畜を馴化させる試験場。第1は青山南町、第2は青山北町、第3は麻布新笄町)。彼は第3官園で70名の学生を指導。明治8年、家畜と共に北海道七重官園へ。「つる」と結婚。翌年、牧牛場を真駒内、牧羊場を札幌西部に設けて指導監督。真駒内では牛・豚飼育とバター、チーズ、ハム、ソーセージ加工製造も指導。新冠牧場で馬の改良。馬場も作って競馬振興も図る。

 開拓使廃止後に帰国したが、明治17年(1884)に公使館の第二書記として再来日。(米国公使館は明治23年に赤坂に移るまでは築地居留地にあった)。明治21年(1888)に「つる」夫人死去。明治26年(1893)公使に昇進。日清戦争の早期解決に奔走。公使罷免後も日本に留まって事業展開。直江津の製油所の取締支配人。明治40年(1907)諸施設を日本石油に譲渡。

EdowinDun1_1.jpgJamesDun_1.jpg その後は長崎の三菱造船所で従事したが、東京代々木で隠棲。旧旗本の娘「ヤマ」と再婚。彼女にも先立たれたが、二人の間に生まれた次男で音楽家ジェームス・ダンと彼の妻「道子」に見守られつつの余生。昭和6年(1931)に84歳で逝去。

 真駒内にはエドウィン・ダン記念公園に彼の記念館があり、青年ダンが子羊を肩にした銅像もある。青山・外人墓地には彼の墓の横にジェームス・ダンと妻・道子の墓がある。ジェームスは日本の音楽学校で学び、日本帰化後にドイツ留学。帰国後は声楽家・村山道子と結婚。東洋音楽学校、成城学園、日大芸術学部などで講師・教授を務めた。

 ダン関連書には赤木駿介著『日本競馬を創った男』、阿部三恵著『エドウィン・ダンの妻ツルとその時代』、田辺安一著『お雇い外国人エドウィン・ダン~北海道農業と畜産の夜明け』などがある。


コメント(0) 

食パン&精養軒コック長のチャリ [青山・外人墓地]

hess1_1.jpg 新宿図書館で「築地居留地」検索で関連書を借りた。清水正雄著『東京築地居留地百話』に居留地がらみで青山・外人墓地に眠っている5名が紹介されていた。まずは見出し「食パンのチャリ」の項より通称チャリ・ヘス、正式名カール・ヤコブ・ヘスについて。同項は古川鮎子著『グランシェフ③フランスパン祖チャリ舎の足跡をたどって』を参考にしていて、これに川崎晴朗著『築地外国人居留地』、「上野精養軒」サイト、「西洋料理人列伝」サイト他も参考にまとめるが、それぞれ年代記述が異なっているので確かでない点をご了承のほど。

 彼はドイツ系スイス人でチューリッヒ生まれ。パリでシェフ修行。明治2年(1869)に上海経由で来日。神戸で働き、横浜の洋菓子店で働いていた時に、築地精養軒(その前身のレストラン)開業に向けてコック長に招かれた。この時、明治5年で35歳。神戸時代に綿谷よしと所帯を構えてい、子には恵まれなかった。

 だが1年もせぬ内に、酔って列車から落ちて片腕を失った(明治5年に新橋~横浜間が開通)。同年4月の銀座大火で精養軒の前身レストランも焼失。一方、ヘスは明治7年(1874)に築地居留地内(現・入船3-10)に本格ベーカリーと清涼飲料水の会社「チャリ舎」設立(清水著には舎屋写真掲載)。〝西洋料理と食パンの開祖〟と評される。

cyari1_1.jpg 工場が明治20年頃に現・築地7丁目(現・北海道漁連)の地に移転。ヘスは併せて明治17年~29年に精養軒コック長でもあり。ヘスの工場は明治42年には合名会社となって従業員100名の大工場に。本格的なフランスパン、クロワッサン、あんぱん等。そしてシャンペンサイダー、レモネード、ジンジャーエールの製造販売。毎朝100台の箱車が一斉に配達に出発する光景が展開された。

 彼はその後も精養軒でコック指導をするなどしたが、明治30年(1897)に愛妻、養子、弟子らに見守られながら病没。墓碑には「故チャリヘス之墓」。裏面に「入法偉誉浄教居士」。戒名に首を傾げたが、川崎晴朗著には「彼の埋葬は遺言で芝・増上寺で執り行われたが、彼の弟(ホテルで理髪業)が再来日して青山霊園に改めた」とあり。愛妻〝およしさん〟と弟の間に確執があったのだろうか。

 食がらみゆえ、ついでに小生の青山・外人墓地への自転車散歩で腹が減った場合は、霊園参道?の「やぶそば」、または国立競技場近くまで戻って、かの「水明亭の久留米チャンポン」をいただく。


コメント(0) 

近代スポーツの伝道・ストレイジ [青山・外人墓地]

strange2_1.jpg 青山・外人墓地には幕末・明治の雰囲気が漂うも、異彩を放つ真新しい墓あり。墓碑に「日本の近代スポーツの父・F.W.ストレイジ 1853年10月29日~1889年7月5日 享年35歳」。写真掲載で以下文面が刻まれていた。

 「1875年英国より来日し、東京英語学校(後の東京大学予備門、第一高等学校)の英語教師を務めながら、日本にスポーツを広めた。日本初のスポーツ紹介本を出版、体育会による「部活動」のシステムを作り上げ、スポーツマンシップを説き、陸上競技やボートなどを教え、運動会を普及させたスポーツの恩人」

 碑石裏に「公益財団法人 日本陸上競技連盟 2013年10月」。ネット検索すれば、その時に同連盟による「生誕160周年の会」が墓前開催されたとか。この日に合せて墓も整備されたのだろう。その前年6月には高橋孝蔵著『倫敦から来た近代スポーツの伝道師~お雇い外国人F.W.ストレンジの活躍』も出版。

strange1_1.jpg 同書参考にストレンジについて要約。これまでは氏の出自や業績に不確部分が多く、最近の調査によって明らかになったらしい。彼は元教授でワイン事業成功の父の三男として1853年生れ。ロンドン大学のカレッジ時代に、後に東京帝国大学総長他を歴任し文部大臣になる留学生・菊池大麓と交流。その縁で明治5年(1875)に東京英語学校の教師として21歳で来日。

 彼は英語授業の他にクリケット、ランニング、ハンマー投げ、棒高跳び、野球、サッカー、ボートを、さらに学校の運動会や部活動、スポーツマンシップの普及発展に尽力。日本初のスポーツガイドブック『OUTDOOR GAMES』も上梓。

 プライベートでは郵便汽船三菱会社(後の日本郵船)のお雇い外国人ハルの妻の妹で、鹿鳴館の華といわれた美貌のエディスが芦ノ湖でボート転覆したのを助けたことが縁で彼女と結婚。二児誕生。34歳の若さで勲五等双光旭日章受章。だがボート競技はじめに熱中し過ぎたか夫婦不和へ。心身疲労が重なってか心臓麻痺で急逝。

 外人墓地のすぐ北に神宮球場、秩父宮ラグビー場、そして目下は更地の国立競技場がある。昭和39年の東京オリンピックでは注目されなかっただろうが、今は墓もきれいになり、再評価本も出版されて〝日本近代スポーツの父〟が二度目の東京オリンピックを迎えようとしている。


コメント(0) 

新聞発行とグラバー商会のヒコ(2) [青山・外人墓地]

hiko1_1.jpg (2)から吉村昭著に加え近盛晴嘉著『ジョセフ・ヒコ』も参考にする。ヒコは「咸臨丸」を見送った後に「自分の道を歩もう」と領事館を辞職。貿易業に励むも井伊大老事件(桜田門の変)で、横浜まで攘夷暴徒の恐怖が迫った。彼も命を狙われ、逃げるように渡米。

 リンカーン大統領に謁見、正式な領事館通訳官に任命されるが、米国も南北戦争で人心荒れ放題。文久2年に帰国、横浜へ。日本でも生麦事件、イギリス公使館焼き打ち、翌年は長州と米国艦交戦。彼はワイオミング号から下関砲撃を見る。

 世情が落ち着けば、交易は活発化する。彼は欧米情報に機敏に反応した商売を展開。日本商人のために外国新聞のダイジェスト和訳新聞を発行。日本語下手の彼は、ヘボンの和英辞書作りの助手・岸田吟香の編集協力を得て月2回の新聞を発行。手書きから木版刷りへ。「海外新聞」は26号まで。止めたのはヘボンの辞書原稿完成で、上海で印刷のために岸田が横浜を去ったためらしい。

 ヒコはこの横浜時代に、岩亀楼の妓を落籍していたと近盛著にあり。岩亀楼は現・横浜スタジアムの地にあった港崎遊郭で最も立派な楼。偉人の妾を〝らしゃめん〟と言ったとか。慶応2年、横浜大火(遊郭も全焼)。ヒコは横浜を後にし、米国に帰る知人の商社を引き継ぐために長崎へ。

 長崎の交易はグラバー商会が仕切っていた。同商会が佐賀藩の高島炭鉱を共同経営したく、それを手助けしたことで同商会にも所属。薩長への武器調達にも奔走とか。明治になるとグラバーは政府依頼で造幣機を香港より輸入で、ヒコはその扱いも担当。大坂造幣局創設。だが武器商売がなくなったグラバー商会は破算。

 明治5年、井上馨の勧めで大蔵省・会計局へ。日本語不得手で自然退職。神戸での事業は順調で、明治10年に(1)冒頭で紹介の鋹子と結婚。浜田彦蔵になる。明治21年、東京・根岸に移転。翌22年に原町に新築転居。体調悪く隅田川沿いが身体にいいと本所横綱町に転居。明治30年、心臓病で逝去。享年61歳。新聞見出しは「アメリカ彦蔵死す。日本で新聞の創設者」。

 吉村昭の小説は時代考察は入念も、ヒコの人間像には迫っていない。ヒコを軸に海難による漂流民群像を、また日米の激動に翻弄された幕末~明治を描いたように思う。これは小生の邪推だが、江戸っ子の著者は当然ながら薩長嫌いで、ヒコ愛着には至らなかったのだろう。

 昭和39年、有志によって「日本の新聞百年感謝奉告祭」が青山墓地で行われたそうな。明治情緒漂う外人墓地に、時としてこうした〝今の風〟も吹く。次回は真新しさで異彩を放つ「F.W.ストレイジ」の墓を見る。


コメント(0) 

漂流し米国帰化のジョセフ・ヒコ(1) [青山・外人墓地]

hiko5_1.jpg 「ジョ・ブスケ之墓」を見上げ、幕末~維新の横浜を想っていると、背後で老夫妻の「ジョン万次郎のお墓はどこだろう」と呟く声がした。思わず振り返って「それは雑司ヶ谷霊園で、ここで眠っているのはジュセフ・ヒコ、浜田彦蔵です」。「おぉ、そうだったねぇ」と彦蔵の墓を探し出した。

 その墓標上に「JISEPH HECO」、下に大きく「浄世夫彦之墓」。墓側に「濵田鋹子の碑」。彼女は18歳で40歳の彦蔵と明治10年に結婚。享年86歳。碑文に「ジョセフ・ヒコ氏墓地保存会の尽力で昭和31年に田端大龍寺から改葬して亡夫の墓側に埋葬した」と、鋹子の姪の名が刻まれていた。

 海難を経て数奇な人生を送った人物としてはジョン万次郎(天保12年<1841>に遭難)が有名だが、日米の時代激変に翻弄され続けたのがジョセフ・ヒコ。ここは楽しく読める小説・吉村昭著『アメリカ彦蔵』を読むことにした。

IMG_8244_1.JPG 彦蔵は天保8年(1837)兵庫県播磨生まれ。北斎死去の翌年・嘉永3年(1850)に13歳で船に乗って熊野灘で遭難漂流。米船に救われてサンフランシスコへ。全員で香港まで戻るも、ここで彼らは当地に暮す元漂流者らに会う。誰もが帰国を試みるも「異国船打払い令」で本土を踏めずに虚しく異国で生きていた。彼らはペリー大艦隊に乗って日本送還を耳にし、それでは帰国ままならぬと判断。彦蔵ら3人は米国に引き返し、他は苦労を重ねた後に交易船で帰国。

 米国に戻った二人は米船のコック職に就き、彦蔵は税関長サンダースの許で暮らすことになる。絵のような若さで英語覚えも良く、可愛がられる存在だったのだろう。ちなみにジョン万次郎も救出した捕鯨船・船長に頭の良さを気に入られて養子。彦蔵も学校に通い、洗礼も受けてジョセフ・ヒコ。後に帰国チャンスを得て、洗礼したことで身の危険を避けるべく米国籍取得。

 安政6年(1859)、アメリカ領事館付き通訳で帰国。翌年、「咸臨丸」の水先案内人を務めるブルック大尉を神奈川奉行へ引き合わせる通訳から同船艦長・勝海舟、通弁・中浜〈ジョン)万次郎らに会った。この時、万次郎34歳で、ヒコは22歳だった。(続く)


コメント(0) 

ジュ・ブスケの家族物語 [青山・外人墓地]

bousquat2_1.jpg 「アンナ・ホイットニー之墓」の南側に、大きな石柱墓碑。「佛人治部輔氏之墓」(フランス人ジュ・ブスケの墓)。おぉ、先日記したフルベッキの翻訳顧問時代に、共に欧州各国の憲法を翻訳したジュ・ブスケさんだ。明治9年の天皇勅令「国憲を草案せよ」に、二人は協力して自由主義を盛り込むも、明治政府はその部分を削除して「プロシャ型憲法」にした、と記したばかり。

 ジュ・ブスケ(Aibert Charies du Bousquat)を検索すると、曾孫・林邦宏氏による「歴史散歩」があった。そこからジュ・ブスケさんのプロフィールを探ってみる。彼はベルー生まれで、フランス士官学卒で少尉。慶応2年(1867)、幕府要請でフランス軍事顧問団(計19名中、士官6名のひとり)として来日。

 報告書の作成年代は不明だが、早大図書館の古典籍総合データベースで、彼が記して翻訳されただろう「西洋万国陸軍建置之原則并仏国陸軍建置及編成/ジブスケ」が公開されて、誰もが居ながらにしてネット閲覧できる。

 顧問団は横浜で軍事訓練を1年ほどしたが、戊辰戦争(慶応4年~)で幕府崩壊。顧問団は解散も、彼は慶応4年に士族・黒田平之丞の次女・花子と結婚していたこともあって、フランス公使館通訳として日本に留まった。その後、富岡製糸場建設などに尽力(機械導入やフランス人技師ブリュナを推薦など)。明治4年からは翻訳官として雇用され、フルベッキと各国憲法翻訳や、明治憲法草案の共同作業をしたのはその頃だろう。

bousquethaka1_1.jpg 彼は花子との間に6子をもうけ、政府との契約後はフランス領事として日本滞在。明治15年(1882)没。外人墓地への埋葬にアーネスト・サトウも立ち会ったとか。この墓標の隣に彼の功績が刻まれた大きな碑石もある。

 ジュ・ブスケさんの三男・林治信さんが明治40年(1907)に日本帰化。彼の孫が林邦宏さん。同じ墓地に「故・林治信之墓」「「林正治墓」があるのが頷けた。氏のサイトには横浜生まれながらフランスに旅立った子らのその後が詳しくレポートされていて日仏にわたるファミリー・ヒストリーが紹介されている。

 また同サイトにはジュ・ブスケさんが明治2年に横浜で攘夷派の残党暴漢に襲われて軽症を負ったとも記されていた。小生は目下、吉村昭著『アメリカ彦蔵』読書中。攘夷派の暴挙は生麦事件からで、当時の横浜の様子が詳細に記されていた。次回は〝アメリカ彦蔵=浜田彦蔵之へ。


コメント(0) 

ホイットニー家と勝海舟 [青山・外人墓地]

kathu&whi5_1.jpg アンナ・ホイットニーのお墓には勝海舟の墓碑銘が刻まれていた。「明治十六年四月十七日 骸化土霊帰天 ホイットニー親友 勝安芳誌」。安芳(やすとし)は勝安房守の維新後の名で〝あほう〟のシャレ。漢文は「体は土になるが、霊は天に帰る」の意らしい。裏には「義人必由信而得生」。漢文聖書で「義人は信仰によって生きる」の意とか。

 フルベッキ紹介の大橋昭夫/平野日出雄著『明治維新とあるお雇い外国人』にも、フルベッキと勝海舟の交流が記されていた。勝は長崎で知り合ったフルベッキの世話で16歳の長男・小鹿をアメリカ留学させた。(アナポリス海軍兵学校卒業後、明治10年帰国。海軍大尉に任官後、明治25歳で病没。青山墓地に埋葬されている)

 さて、ウイリアム・コグスウェル・ホイットニー家(妻アンナ、長男ウィリス、長女クララ、次女アデレイド)は、駐米公使・森有礼の勧めで明治8年(1875)に来日し、勝邸敷地内に家を建て、「商法講習所」(一橋大の前身)で教え始めた。何があったか契約途中に解雇で、勝海舟が何かと援助。ウィリアムは津田仙が設立「銀座簿記夜学校」の先生になった。(津田仙は、街路樹ニセアカシアを日本に持ち帰った農学者で、津田塾創設の津田梅子の父。青山墓地で眠っている)

kathu&w2_1.jpg 明治12年、ウイリアムは自身の療養と息子ウィリスの勉強(当初は東大で医学を勉強。ペンシルヴェニア大医学部へ)などで帰国。(この辺はサイト「複式簿記がやってきた!」に詳しい。明治15年(1882)、一家は再来日途中でウイリアムがロンドンで没。アンナ未亡人が一家を率いて来日。彼女もまた翌明治16年、49歳で病没。外人墓地二人目の埋葬で〝親友=勝安芳〟の募誌となる。

 ホイットニー家の物語はまだ続く。明治19年に医学を学んで帰国した息子ウイリスが、母アンナに寄せられた弔慰金を元に、勝海舟の地に施療病院を開設。同年クララが勝の三男・梅太郎と結婚。(一男五女を授かる)。

 同病院は明治21年、ウイリアムの実弟G.ブレイスウェイト夫妻(アンナの隣の墓で眠る)も協力して赤坂病院へ発展。明治31年(1898)にフルベッキ最期を看病し、その1年後の勝海舟の最期も看病。

 同病院は現在「日本基督教団赤坂教会」になっている。このシリーズ最初に外人墓地から東京ミッドタウンを望むスケッチをしたが、同ビル裏側に赤坂元氷川の勝安芳邸跡、赤坂教会がある。なお勝海舟夫妻の墓は洗足池湖畔だが、父小吉をはじめ「勝家之墓」は外人墓地から中央通りを挟んだ向こう側にある。昭和28年7月改修とあるが荒れていた。脇に〝お糸さん〟の小さな墓があった。※『クララの日記』を読みたかったが、図書館、書店になかった。


コメント(0) 

民主遥かなり~フルベッキ [青山・外人墓地]

Varbeck2_1.jpg 「フルベッキ群像写真」が時に話題になる。3月末のBS7「歴史ミステリーロマン幕末維新の謎を解け」で2時間再現ドラマ。天皇がらみゆえ核心に迫れぬまま曖昧な放送で終わった。その件は弊ブログのカテゴリー「ミカドの肖像」(17)で少し紹介済。

 だが、その奇怪説はフルベッキに関係なく、彼の生涯をまともに紹介した書を!と求めたら「彼は自由と民主の思想に貢献した」と評する大橋昭夫/平野日出雄著『明治維新とあるお雇い外国人』に出会った。同著より彼の人生をまとめる。

 フルベッキ来日は、安政6年(1859)。オランダ生まれで20代でアメリカ移住。29歳の時に、改革派教会の伝道師として妻マリアと長崎へ。切支丹禁令下ゆえ、まずは欧州文化と近代思想の啓蒙を兼ねて英語教師。文久3年(1863)、政府が英語通詞養成の「長崎洋楽所」を設立し、彼を迎えた。同所は「済美館」と改称され、教員19名に生徒100名。全員が後に幕末・明治に活躍。

 慶応2年(1866)、長崎警備の佐賀藩開設「致遠館」校長に迎えられて両校で教えるも、幕府校ではない同館では理想の教育を展開。大隈重信、副島種民らは日本が学ぶべきはフルベッキが教えるアメリカの独立宣言、自由と民主思想にありと確信。大隈は後に「致遠館が早稲田大学の源流」と語る。

Varbeckhaka_1_1.jpg 同時期に勝海舟の息子・小鹿、岩倉具視の二人の息子をはじめ多数子弟のアメリカ留学を斡旋。明治5年までのアメリカ留学生500名余で、その半数が彼とフェリス(米国)の世話によった。そして当時の写真が、あの「群像写真」。

 明治2年(1869)、政府の招きで東京の開成学校(後の大学南校)に就任。大隈重信に欧米視察の草案概要を作成。高橋是清がフルベッキ宅に下宿。明治4年、文部省設置で最高顧問。新学制に貢献。岩倉が彼の欧米視察の草案概要を見て、総勢50名に使節団で欧米に出発。だが、ここでフルベッキの思惑が外れた。使節団が選択したのは自由と民主主義ではなく、ドイツ帝国=プロシャ的軍事独裁の官僚国家だった。

 明治6年、政府から離れ宣教師の仕事を望むが、7名の子を抱えて翻訳顧問でさらに5年契約。フルベッキとジュ・ブスケは欧州各国の憲法を翻訳。明治9年、天皇による「国憲を草案せよ」に二人が協力。オランダやベルギーの自由主義的精神を盛り込むが、その部分は岩倉・伊藤博文らに削除されてプロシャ型憲法へ。明治22年「大日本帝国憲法」制定。天皇制絶対主義、富国強兵、中央集権、思想信条の抑圧、国家神道~。

 政府から無用の存在になった彼は、もの静かな宣教師として明治31年(1898)に赤坂の自宅で急逝。68歳。その棺は政府派遣の近衛師団儀仗兵に守られ埋葬されたが、彼は日本に自由と民主主義を定着させることが叶わなかったことを悔いていたに違いない。


コメント(0) 

御真影を描いたキョソーネ [青山・外人墓地]

Chissone7_1.jpg エドアルド・キョソーネ(Edoardo Chiossone)表記はキヨソネ、キヨッソーネ等々だが、鹿島出版会刊の隈元謙次郎著『お雇いは外国人~美術』を参考にさせていただくので同著の「キョソーネ」と記す。

 彼が大蔵省紙幣寮(印刷局)招聘で来日したのは43歳、明治8年。イタリア出身。すでに銅板彫刻家としても名を成していた。イタリア国立銀行が紙幣製作をドイツのドルドルフ会社へ委託した際に、彼も同銀行から同社に技術習得で派遣。そこに日本が新紙幣製造を同社へ委託し、彼がその仕事に従事したのが縁で招聘されたらしい。彼と一緒に招聘されたのはドルドルフ会社の銅板摺師カール・アントン・ブリュックと活版摺師ブルーノ・リーベンス。

 ブリュックは明治13年(1880)に41歳で病没。外人墓地最初の埋葬らしい。その墓は前回スケッチ背側の「印刷局墓地」内。墓碑には「印刷局工師独逸國人卡路安通布里攸詁墓」(この漢字でカールアントンブリュック)

 キョソーネ最初の仕事は地権状、煙草鑑札、印紙の図案・彫刻・印刷。これが日本の最初の凸版印刷。続いて切手8種の原版。漉入模様紙製造を指導。またシーボルトの石版画、大久保利通や西郷従道(後に西郷隆盛も)コンテ画などを描く。

 明治9年、紙幣局設立で国立銀行紙幣製造を開始。まず1円紙幣が彼による最初の紙幣。明治12年、印刷局長同行で4か月半の古美術調査旅行。この時の写真や模写した古美術群は石版刊行されて、貴重資料として遺された。

Chiossonehaka_1.jpg 明治21年に明治天皇の正装と軍装姿、大正天皇、大山巌、岩倉具視などを描く。印刷局に17年にわたって奉職後は、好きな日本美術蒐集に熱中。明治31年4月、麹町の自宅で没。66歳だった。

 彼が蒐集した美術品は遺言で故郷ジェノバに設立の「キョソーネ東洋美術館」に収蔵。彼に指導された人達が「凸版印刷」を設立。

 ここで重要なのは、彼が描いた明治天皇(御真影)は実像でありながら宗教的画像化で天皇制絶対主義、富国強兵、国家神道、思想信条の自由抑圧へ存分に利用されたこと。この辺は弊ブログのカテゴリー『ミカドの肖像』(15~23)でも詳しい。彼の美術、印刷技術は日本に貢献したが、その腕、技術が利用されて日本はとんでもない方向に走り出した。

 キョソーネは天皇制絶対主義に加担したのか、利用されたのか。外人墓地に行った際に墓前で問いかけてみよう。墓には「江帑安留帑(エドアルド)喜与曽禰(キョソーネ)先生墓」と刻まれている。


コメント(0) 

青山・外人墓地の概要・概歴 [青山・外人墓地]

gaijinbotiA1_1.jpg お気に入り自転車コースが幾つかある。力と意欲なき日は平坦コースを走る。「新宿~信濃町~神宮外苑~青山霊園中央通り」そして六本木辺りを散策して戻ってくる。

 車やバイクでは青山霊園両側の「外苑西通り」「外苑東通り」を走るが、自転車だと横道に入りたくなる。某日、神宮の銀杏並木を経て青山通りを右折、最初の左折路を入ったら、その道が霊園中央通りへ直結で六本木に抜ける道だった。

 その道の右側に「外人墓地」あり。明治維新の「お雇い外国人」(官・企業・大学の)や宣教師、貿易商人など当時は東京に1万人ほどの外国人がいて、日本で亡くなった100名ほどが眠っているらしい。

 「外人墓地」から「東京ミッドタウン」や「六本木ヒルズ」が見える。明治維新から今が一枚の絵に収まる稀な風景。風景スケッチは苦手だが、その画を案内図のように描いてみた。ここに眠っている方々はどんな経歴で、どんな貢献を日本にして下さったのだろうか。自転車散歩ついでに一人ずつを調べてみましょうか、と思った。まずその前に青山霊園・外人墓地の概要・概歴を知っておきたい。

 青山霊園は明治9年(1876)に東京府の管理下へ。明治10年、築地居留地などに住む外国人専用の墓地を青山霊園に設けると決定。最初の埋葬は明治13年。明治32年の居留地制度廃止に伴い、外人墓地も一般墓地として扱われるようになる。

 そして戦後。多くの墓が無縁仏になると推測され、墓地を公園に変える計画が浮上。昭和35年(1960)、策を講じるも無縁化は進まず。平成12年(2000)より管理費滞納を理由に無縁化を促進しつつ平成15年に「霊園と公園」の共存方針が決定。

kensyouhi_1.jpg かくして外人墓地の多くの墓前に、石原都知事の名で「期日までに権利者から申し出がない場合は無縁仏として改葬する」旨の看板は建った。これはマズイと平成17年(2005)に設立申請のNPO法人「国際遺産を守る会 お墓の縁者捜索プロジェクト」が立ち上った。今も同サイトが最も詳しい外人墓地データになっている。

 だが現外人墓地には平成19年(2007)春、石原都知事名で「外人墓地の顕彰碑」が建っている。文面は「青山霊園(外人墓地)に埋葬されている方々は、江戸時代末期から大正時代にかけて来日し、わが国近代化に指導的役割を果たされました。近代日本の建設に尽力された方々の偉業や功績を称え、永く後世に伝えるため、ここに顕彰碑を設立します。平成十九年三月 東京都知事 石原慎太郎」

 NPO法人が心配した〝無縁仏として改葬して公園にする〟計画は中断されたらしい。この経緯をネット巡りで改めて探ってみた。2005年11月4日の「ライヴドア・ニュース」に「外人墓地は全129区画のうち78区画、約6割が〝無縁仏〟。これらを改葬して広場をつくる計画で、永続的な保存が危ぶまれている」なる報があった。

 次に魚住昭責任編集のウェブマガジン「魚の目」に<東郷和彦氏の「東京都知事 石原慎太郎殿」>と題された記事あり。2005年5月から2007年1月までの経緯が、概ねこんな内容で報告されていた。

 外人墓地撤廃の報に驚き、知事の力でその計画を撤廃してほしいと嘆願した。6月7日に担当建設局長より「外人墓地の区域は『歴史的墓所空間』と位置づけ、青山霊園の代表的な空間の一つとして保存して行く。ご心配されるような公園スペースを拡大するため取り壊す予定なし」という回答を得たと報告。その後の交渉でも、霊園内外人墓地は貸付対象箇所にもならないとの返信を得たと報告。かくして2007年4月4日に青山学院などゆかりの方々も参加しての「顕彰碑」お披露目式が行われた。以上がサイト巡りして把握できた概要・概歴。

 小生は3年前の2013年2月に管理事務所で外人墓地についてのA4版8頁折のカラーパンフをいただき、梅渓昇著『お雇い外国人』も読んだ記憶がある。試みに最寄りの新宿図書館蔵書を「お雇い外国人」で検索すれば45件もヒット。鹿島出版会からは17巻の全集刊行あり。〝気が向いた時に、軽い気持ちで〟お墓の一人ずつの簡単プロフィールを調べ、自転車散歩の際に掃苔できたらいいなぁと思った。


コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。