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漂流し米国帰化のジョセフ・ヒコ(1) [青山・外人墓地]

hiko5_1.jpg 「ジョ・ブスケ之墓」を見上げ、幕末~維新の横浜を想っていると、背後で老夫妻の「ジョン万次郎のお墓はどこだろう」と呟く声がした。思わず振り返って「それは雑司ヶ谷霊園で、ここで眠っているのはジュセフ・ヒコ、浜田彦蔵です」。「おぉ、そうだったねぇ」と彦蔵の墓を探し出した。

 その墓標上に「JISEPH HECO」、下に大きく「浄世夫彦之墓」。墓側に「濵田鋹子の碑」。彼女は18歳で40歳の彦蔵と明治10年に結婚。享年86歳。碑文に「ジョセフ・ヒコ氏墓地保存会の尽力で昭和31年に田端大龍寺から改葬して亡夫の墓側に埋葬した」と、鋹子の姪の名が刻まれていた。

 海難を経て数奇な人生を送った人物としてはジョン万次郎(天保12年<1841>に遭難)が有名だが、日米の時代激変に翻弄され続けたのがジョセフ・ヒコ。ここは楽しく読める小説・吉村昭著『アメリカ彦蔵』を読むことにした。

IMG_8244_1.JPG 彦蔵は天保8年(1837)兵庫県播磨生まれ。北斎死去の翌年・嘉永3年(1850)に13歳で船に乗って熊野灘で遭難漂流。米船に救われてサンフランシスコへ。全員で香港まで戻るも、ここで彼らは当地に暮す元漂流者らに会う。誰もが帰国を試みるも「異国船打払い令」で本土を踏めずに虚しく異国で生きていた。彼らはペリー大艦隊に乗って日本送還を耳にし、それでは帰国ままならぬと判断。彦蔵ら3人は米国に引き返し、他は苦労を重ねた後に交易船で帰国。

 米国に戻った二人は米船のコック職に就き、彦蔵は税関長サンダースの許で暮らすことになる。絵のような若さで英語覚えも良く、可愛がられる存在だったのだろう。ちなみにジョン万次郎も救出した捕鯨船・船長に頭の良さを気に入られて養子。彦蔵も学校に通い、洗礼も受けてジョセフ・ヒコ。後に帰国チャンスを得て、洗礼したことで身の危険を避けるべく米国籍取得。

 安政6年(1859)、アメリカ領事館付き通訳で帰国。翌年、「咸臨丸」の水先案内人を務めるブルック大尉を神奈川奉行へ引き合わせる通訳から同船艦長・勝海舟、通弁・中浜〈ジョン)万次郎らに会った。この時、万次郎34歳で、ヒコは22歳だった。(続く)


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