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隠居のクロッキー帖 [暮らしの手帖]

croquis1_1.jpg ここ数ヶ月のブログ絵は、クロッキー帖に描いたもの。併せて「メモ」もクロッキー帖になった。今までのメモは、使用済コピー紙の半裁裏利用で、使用後はゴミ箱へポイ! 後日に「あの時のメモは!」と慌ててゴミ箱を漁ったりしていた。

 「メモ」を改めて考えれば二つに大別できるそうだ。クロッキー帖メモ1は、日程的な、日々の暮し上のメモ。病院へ行く日時、仕事の進行、先日はここに「ウイルスバスターズ3年契約更新の受領書」も貼った。シリアルナンバーなど紛失しがちで貼っておけば大丈夫。

(2)は調べごとのメモ。あたしは無教養ゆえ知らぬ漢字の読みや意。カタカナ英語の意などをメモする。ブログに書くことは間違いのないように調べてから記す。北斎「悪玉踊り」では江戸の改革、浮世絵師、川柳、歌舞伎舞踊などいろいろと調べメモった。加えて今は「青山・外人墓地」調べが容易ではなく、それ専用メモ帖を設けている。

 やはりメモは〝ポイ捨て紙〟ではなく、保存可能な帳面(綴り帖=クロッキー帖)が良い。振り返れば「くずし字」を習っていた時のメモも専用ノートにしておけば良かったと反省する。かくして目下は1:ブログ絵用、2:日程や暮しメモ。3:勉強や調べごと。4:青山・外人墓地用と4冊のクロッキー帖を手元に置いている。

 振り返れば20代後半からワーカホリック。打ち合わせメモ、資料、取材メモ等々はひと仕事済めば、それらはまとめてゴミ箱へドボンッ。頭を切り替えて次の仕事に取り掛かっていた。お仕事は、他人様の為の請負仕事ゆえにポイ捨てが習慣だったが、隠居して初めて自分の関心事のメモになった。隠居してこそ自分の人生かも。そんな隠居暮らしがやっと身につき始めたってことだろうか。


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硯の海に遊ぶ [鶉衣・方丈記他]

yokoinoe1_1.jpg 絵を描き始めて横井也有『鶉衣』の筆写・解釈が中断された。今日は同著「四芸賦」より、絵についての記述に注目。その部分はこう始まっている。

 ~そも又画ばかり(ほど)位(品格)の品々(さまざま)なるはなし。能画(よい絵)のうへは(ついては)さらにいはず(改めて言うまでもない)。鳥羽絵(漫画)の男は痩せてさびしく、大津絵(旅土産の絵)の若衆は肥えて哀れなり。うき世絵は又平(岩佐又兵衛)に始まり菱川(師宣)に定り、今、西川(祐信)につきたるといふべし。旅籠屋の屏風には、芥子か牡丹か知れぬ花咲きて、人より大きなる鶏の、屋の棟にとまりたるこそ目さむるわざなれ(興ざめのさま)。又は藪寺のふすまには、遠水(遠くの水)に波高く、遠人(遠くにいる人)の目鼻あざやかに、帆かけ舟に乗りて跡へ走る(風の逆に走る)、これらも絵にあらずとはいはざるべし(絵ではないとはいえない)。

 デッサンが滅茶苦茶でも、絵は絵に違いないと言っている。真面目あらざる小生は、弊ブログで菱川師宣(もろのぶ)の春本『好色いと柳』と『床の置物』の各「序」を筆写したことがある。大田南畝が横井也有の同著を出版したのは天明7年(1786)。也有翁はその3年前に没ゆえ、彼が語る浮世絵は歌麿、北斎らを知らず。同章の最後を筆写する。

 ~俳諧師の絵は、上手下手の沙汰なしとて、翁(芭蕉)も跡をのこし給へば、我も我流の筆ぬらしそめて、破れ鍋の画賛をかけば、綴蓋(とぢぶた)の望みてありて、こゝかしこにちりぼふ。あハれ恥しらぬわざながら「はゞからず書きちらすはよし」と、吉田の法師を無理なる荷担人(かたうど)にして、此年此硯の海に遊ぶ事にぞありける。

 小生も、哀れ恥知らぬわざながら、はばからず下手な絵をネット上に書き散している。


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スニーカー・スケッチ [暮らしの手帖]

newbalance2_1.jpg 昨年5月、かかぁが買ったスニーカー「ニューバランス」がいいなぁと思って、同じのを買った。ブルーのジーンンズにちょうどいい。

 同製品だが小生のは色褪せ、踵底も斜めに減った。使用頻度、歩く距離が違うからだろう。

 また同じのを買った。履く前に、いろんな角度からスケッチをした。


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JINSでメガネ新調 [暮らしの手帖]

sinmegane1_1.jpg 子供の頃からメガネ人生。当初はセルロイド製丸型。コイル状ツルが耳に絡んで痛かった。以来、この歳まで新メガネ更新幾度ぞ。今回はデスク用メガネのフレームが壊れての新調。「長らへて春に新たな老い眼鏡」。

 すでに両眼共に白内障手術済。右目が10年前、左眼が2年前に手術。〝人工眼〟はお好みレンズ装着可だが、子供時分からのメガネ人生を一変するのもどうかと思い、また片目ずつの手術ゆえ左右が極端に違うのも按配悪かろうと〝肉眼〟よりやや良く見える程度の〝人工眼〟にした。

 このデスク用メガネは2009年誂え。室内専用ゆえジョン・レノン風の丸縁サングラスに新レンズを嵌め替えたもの。今までに様々なメガネ店で誂えてきたが今回は「JINS」にしてみた。

 フレーム交換のみは受け付けず、レンズ一体販売。それを了として選んだフレームは、スポーツ&生活共用の「エアフレーム」なる商品。この軽量・ソフトなフィット感はどうなっているのだろう、と観察しつつ絵を描いてみた。

 肝心の値段は「遠近レンズ+新フレーム+ブルーライトカット」で、なんと18,252円。安さに驚いた。壊れたメガネは確か5、6万円。度の強い遠近レンズで薄型、超薄型、紫外線防止等々のひと言毎にグングンと高くなった。

 <追記> その安さについてネットで云々されているので、誂えたメガネを把握しておく。JINSのフレームはデザインから一貫生産。レンズは非球体レンズでHOYA製(通常レンズは球体)。私のデスク用メガネはレンズ屈折率1.60の薄型レンズ。1.70からは超薄型レンズとか。1.60までは粘りがあり衝撃に強い。それでも半フレームゆえ「落とした場合は破損リスク」ありと言われた。(安いから破損したら買い換えればいいだろう)

 2年前に拵えた通常使用メガネは約4万円ほど。〝安くなったなぁ〟と感心したが、今回はさらに安い18,000円で、かつ進化している。なんだか嫌な時代だが、眼に関しては白内障手術、眼鏡の低価格・高性能でいい時代になっている。

 江戸時代の馬琴をはじめ、明治・大正、そして昭和~、眼が悪かった先人らに、この好状況を早く迎えさせてあげたかった。


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伊藤礼の小型耕耘機から [読書・言葉備忘録]

kouunkiup_1.jpg 伊藤礼著『耕せど耕せど』の冒頭はリョービの小型耕耘機「エンジンカルチベーターRCVK-4200」購入の話から始まる。伊藤翁のリコイルスターターを引っ張る緊張が眼に浮かぶ。

 あたしは耕耘機は持たぬが、伊豆大島の家に小型エンジンの草刈機とチェーンソ―を持つ。数ヶ月、半年振りの大島暮らしで、久々にリコイルスターターを引っ張る時の「エンジン始動するか」の期待と不安たるや。

 小型耕耘機への想いは、さらに社会人スタート時の若き日の思い出へ至る。「新宿御苑前」の広告制作会社にグラフィックデザイナーとして入社。同社は三菱重工のハウスエージェンシーっぽい会社で、仕事は自動車から巨大タンカーまでだが、仕事量の多かったのが農業機械(耕耘機、トラクター、コンバイン等々)のカタログ制作だった。

 同社には農業青年が一人い、彼の出身地・埼玉で農業機械ロケがよく行われた。女性モデルがからむとカメラマンは腰の線が決まらぬとか言って、スカートの中に手を忍ばせていたのを妙に覚えている。「カメラマンになれば良かったなぁ」とも思った。

 農業機械カタログは全体写真から無数の引き出し線を伸ばして、各部のアップ写真とメカ特徴の説明文で構成された。そんな仕事を幾つもこなしたから、今でも複雑に込み入ったレイアウトがあると当時を思い出して職人的快感に浸ったりする。

 と言ってもメカに強いワケではなく〝エンジン始動ならず〟ば誰かの力に頼る他はない。そんな事などを想いつつ、伊藤礼著『耕して耕して』を読み終えた。同著には一枚の写真もなく、その小型耕耘機はこんな感じ~という絵を添えた。

(追記:同書は「ちくま文庫」になって『ダダダダ菜園記:明るい都市農業』タイトルで4月6日発売らしい)


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伊藤整・礼親子の著書を愉しむ [読書・言葉備忘録]

itooyako6_1.jpg 北斎「悪玉踊り」を描きつつ幾冊も読書した。そのなか何年も前に古本屋にて400円で購ったままの伊藤礼著『伊藤整氏奮闘の生涯』も読んだ。最終章は「伊藤整氏の死」。氏の没は昭和44年末、享年64歳。その時、次男礼氏は36歳。その16年後、52歳で父の生涯を書いた。

 知性派作家・伊藤整の家族を構えての戦中・戦後の奮闘。男親と息子の難しい関係。帯に”ユーモラスに描く”とあったがシリアスな奮闘記だった。「伊藤整氏の死」を読めば、己の人生を振り返り、やがて訪れる死の覚悟もしないワケには参らぬ。

 小生は20代前半に伊藤整翻訳のD・H・ローレンス『チャタレイ夫人の恋人』と、ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』を読んだ。そして隠居後に自転車に乗り始めて、今度は礼氏の愉快な自転車エッセー3冊を笑いを堪えつつ愉しんだ。

 礼氏は今82か83歳だろう。だが礼氏は己の人生や死の覚悟より『耕せど耕せど~久我山農場物語』(2年前の刊)で家庭菜園の奮闘を愉しそうに書いていた。自宅12坪の庭を〝久我山農場〟と称し、まずはリョービの小型耕運機「エンジンカルチベーターRCVH-4200」を買ったことから書き始めている。

 小生は少年期にヘルマン・ヘッセの青春小説を読み、50代になって思いがけずヘッセ『庭仕事の愉しみ』に出逢って、伊豆大島でガーデニングに精を出したことがある。島では時に襲ってくる塩害に庭仕事を断念したが、伊藤礼著によって、再び荒れ庭を耕してみるのもいいかなと思った。

 青年期に整氏、隠居後は次男・礼氏と親子二代の著書を愉しむなんてこたぁ~滅多にあることじゃない。昨日はお彼岸のお中日(20日)。墓参り(小平霊園)へ行けば、なんと伊藤家のお墓も同霊園にあった。


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「悪玉踊り」の歴史(悪玉踊り14) [北斎・広重・江漢他]

akudamarekisi1_1.jpg 北斎「悪玉踊り」は「うかれ坊主」(願人坊主)のなかの踊りでもあったので、改めて「悪玉踊り」関連史をまとめて終えたい。以下、時系列で整理する。

 まず寛政2年(1790)に山東京伝が「心学早染艸」で悪玉・善玉キャラクターを登場させた。文化8年(1811)に三代目坂東三津五郎が常磐津「願人坊主」(通称:うかれ坊主)を初演。ここで演じられた「悪玉踊り」が流行って、北斎が「踊独稽古」(文化12年・1815)のなかで「悪玉踊り」を描いた。

 そして天保3年(1832)の歌舞伎舞踊「弥生の花浅草祭」(通称:三社祭)の後段に善玉・悪玉の踊りが登場。昭和4年(1929)に六代目尾上菊五郎が清元「うかれ坊主」に改作して歌舞伎舞踊にした。現在も通称「三社祭」「うかれ坊主」が公演演目となっている。

 山東京伝によって生まれた悪玉キャラクターの踊りは、何と226年もの歴史を有する踊りとして現在も演じられている。ちなみに常磐津・清元「願人坊主」は、概ねこんな感じで始まる。 ~十四の春に一軒隣んのまた隣のおばさんとちょぼくり、色のいの字で味を覚え、裏のかみさん、向かいのおばさん、お松さん、おっ竹さん、椎茸さん、干瓢さん、お触り次第~

 とまぁ奔放な性遍歴が唄われて「悪玉踊り」の ♪とんびからすにならるるならばとんでゆきたやぬしのそば~」が始まる。また「悪玉踊り」の続きは「願人坊主」(うかれ坊主)へ戻って、手桶をくるくるまわす所作に入って行く。

 「願人坊主」の歌も、なんだか「バレ句=下ネタ川柳」と無縁ではない感がしないでもない。「ちょぼくれ」は上方の「ちょんがれ」で願人坊主の門付け芸だろうが、バレ句のように裏の意があるのだろう。なお北斎の「踊独稽古」は「悪玉踊り」の次に「團十郎冷水売」が描かれている。

 人を描く練習、久々に「くずし字」復習、人体構造、北斎の川柳、江戸のバレ句、歌舞伎舞踊~と多岐にわたって勉強させてもらって、このシリーズを終える。


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鎖骨が肩甲骨を吊る(悪玉踊り13) [北斎・広重・江漢他]

akudamasaigo2_1.jpg 「悪玉踊り」は順を飛ばして一気に最後の67図へ。背を向けているゆえ、最後に背中のお勉強もしよう。人体の骨格や筋肉は、己の身体を弄れば概ねわかるが、背中ばかりはよくわからない。

 まず身体前面「胸骨」につながった「鎖骨」が背側「肩甲骨(けんこうこつ)」を吊り下げて、肩甲骨は「上腕骨」につながっている。ここで「あっ」と唸ってしまった。この歳まで「鎖骨が肩甲骨を吊り下げていた」とは知らずに生きて来た。己の身体の無知に、なんと恥ずかしいことよ。死んで焼かれる前に、己の鎖骨についてを知って本当に良かった。背中についてのメモ図をいろいろと描き加えた。

 最後ゆえ「くずし字」も筆写。「うかれぼうづ(浮かれ坊主)よりおどるときハ(踊り時は)こゝにてておけをとり(手桶を取り)てのうへにて(手の上にて)くるくるとまわしやみをくも(闇を雲)いさみちらして(勇も散らして)とおもいれ(思い入れ)ありてかけゆく(駈け行く)なれどもこれハきやうげんのきどり(狂言の気取り)にてふりハなきつもりなり」

 つまり北斎の「悪玉踊り」は「うかれ坊主」(願人坊主)のなかのフリでもあったらしいのだ。今回で終わりと思ったが「うかれ坊主」を知らずに終わるワケに行かない。


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現代の悪玉キャラクター(悪玉踊り12) [北斎・広重・江漢他]

akudamaseifu3_1.jpg ネットの「悪玉踊り」巡りで、学習院大人文学科論集に<山東京伝『心学早染草』善玉悪玉の影響~天保から幕末まで>なる論がヒットした。善玉・悪玉キャラクターは、後の時代にどう展開されていったかの考察。

 小生も「悪玉踊り」を順に描いているばかりではなく、風刺画で遊んでみようと思った。過日記した政府の「テレビ電波を止めるぞ」との威圧見解。「放送法第二章の第四条の(二)政治的に公平であること」の文言を姑息解釈し、意にそぐわない番組を放送したテレビ局の電波許可を停止すると脅した件。

 それに対して当然のことだか政府解釈批判を展開した報道番組もあったが、報道の根幹を揺さぶられても何の行動を起こさなかったテレビ局もあった。きっと、そんなテレビ局は体制に尻尾を振って〝大本営発表〟をしかねない。この辺はしっかり見きわめておかなければならないだろう。

 「悪玉踊り」は図66まで続くが、そろそろ終わってもいいかなぁと思っている。今まで人を描いたことはまれで、思いがけずに人を描く練習になった。このシリーズの画材メモ。コピー紙より薄いマルマンのクロッキー帖、下書き鉛筆はuni2B、普通の消しゴム、プラチナ・カーボンインクを入れた万年筆ラミーサファリ、固形透明水彩、修正&ホワイトはuni-ball Signoの白1㍉ボールペン。すべて目下のお気に入り。


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擂粉木をきぬたに寺の秋牛蒡(悪玉踊り11) [北斎・広重・江漢他]

akudama121_1.jpg 今回の図は ♪チリチリチン~のシーン。その次に「鍋窯竈(なべかまへっつい)チリチツツン銅壺やかん擂鉢かツルツルツン擂粉木か~」と続く。再び北斎川柳(バレ句)を紹介。「擂粉木をきぬたに寺の秋牛蒡」。

 「きぬた」は布を台の上に載せ、棒で叩いて艶を出すこと。その叩き棒が擂粉木で、〝寺の秋牛蒡〟は坊主の逸物。固く黒光りってことらしい。(前回同様、参考は宿六心配著「北斎川柳」)。バレ句は「江戸の秘語・隠語事典」なくして意が汲み取れない。

 北斎の川柳(バレ句=性を笑う)を読んでいると、彼の〝わ印〟も本性と思えてくる。北斎艶本に書かれた林美一氏解説に<彼のほとんどの艶本は文化11~文政4年(1814~1821)制作で、文化11年『喜能會之故真通(きのえのこまつ)』のなかの、欧州でも話題騒然の「タコに犯される海女」がある>と記されていた。この「悪玉踊り」は同時期に描かれたものだとわかる。

 さてタコに関節はないが、今回は足の筋肉のお勉強。各筋肉と名称を図(クリックで拡大)に記入した。なお、膝関節を伸展する「中間広筋」は、その上に被さるように股関節を屈曲する「大腿直筋」があって直接触ることが出来ない。また〝大股開き〟をして股間(恥骨)から大腿部内側を経て内膝まで走っているのが薄筋(はっきん)。図に描けなかったので文章説明を加えた。

 江戸時代は、これら筋肉をどう言っていたのだろう。下腿三角筋は二つの腓腹筋とヒラメ筋で構成だが、普通はまとめて「ふくらはぎ」だろう。古語辞典には「こむら=腓」がある。出典元に「今昔物語」とあるから平安時代からあった名で、今も「腓(こむら)」が使われて「腓腹筋」。千年余も使い続けられた言葉だ。

 「臑・脛」も昔からの言葉で「臑当て」は大昔からの言葉。それで背中の「僧帽筋」なんてぇのも昔からあった名のようだが、これはキリスト教の聖職者が被る帽子〈フード)のことらしく、昔の名ではない。この辺の言葉調べも面白そう。


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股間探求(悪玉踊り10) [北斎・広重・江漢他]

akudama113_1.jpg スパッツ(レギンス)から赤フン、そしてレオタードヘ。とは言ってもそんな姿の女性を実見した経験なし。前回「腋の下」辺りの人体構造をお勉強したので、今度は股間辺りのお勉強。

 下腹部は骨盤に収まっている。骨盤は大腿骨と繋がっている。また骨盤は脊椎(せきつい)下部の腰椎(ようつい。5つの骨が椎間板を挟んで連なっている)と繋がっている。その腰椎は仙骨と結合し、仙骨下部は骨盤後方の尾骨になっている。己の腰回りをさすれば大腿骨の出っ張りがあり、その上に腸骨稜の曲線出っ張りがある。肛門後方を探れば尾骨も確認できる。

 かく真面目に北斎「悪玉踊り」を描いているのだが、北斎先生の絵には手抜きもある。ちなみに(36の図)は左手が理解不能の位置にあり、左足の指も逆だったりもする。先生は相当にくたびれていたか、急ぎ描きをしたか、はたまた彫師の雑仕事か。そういえば北斎は確か養子となった鏡磨師の家を飛び出して、木版彫師の弟子修行の経歴もあった。


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ポーズ集と下ネタ川柳(悪玉踊り9) [北斎・広重・江漢他]

akudama103_1.jpg この図を描きながら「腋の下」辺り(肩、胸筋上部、上腕筋)の構造を知らないことに気付いた。新聞にマラソン選手が両手を広げてゴールする写真があり、ネットで筋肉調べをしたので余白にメモ描きをした。追って、背中の構造・筋肉もお勉強しなければいけないだろう。

 ついでに踊る女性のスパッツ(レギンス)を「赤フン」にしたら、今度は下腹部や股間の構造も未知と知った。ネットでヌード写真を見ていたら、かかぁが「爺さんの助平はみっともないよ」と言った。この『絵本・踊独稽古』は同時期に門人対象の教材として描かれた膨大な「北斎漫画」と併せ、これは〝人体ポーズ集〟でもあったような気もする。するってぇと、こんな絵を描いているあたしは、北斎の同書刊後201年振りの門人ってぇことになる。

 「赤フン」ついでに北斎川柳。「立チながらこそ細布ハおっぱづれ」。細布=ふんどしらしい。ふんどしをちょっと脇にずらしてイタすってことか。北斎はバカだねぇ。こんな下らん川柳を無数に作っていたらしい。エロ川柳はバレ句=破礼句=艶句=エロチッ句とか。江戸後期から流行りだしたそうな。(参考:宿六心配著『北斎川柳』。未読だが渡辺信一郎著「江戸バレ句」集英社新書が面白そう)。為政者から虐げられた戯作者、浮世絵師、庶民らにとってエロは平等。将軍様の性も笑い飛ばす。北斎はこんなバレ句でストレス解消ゆえか、90歳の嘉永2年(1849)4月18日まで「画狂人」として絵を描き続けた。元浅草の誓教寺で同日に「北斎忌」が行われているらしい。


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為政者の庶民虐め(悪玉踊り8) [北斎・広重・江漢他]

akudama92_1.jpg 江戸時代の戯作者や浮世絵師らは、常に為政者から虐げられてきた。吉宗による「享保の改革」は行革もあったが年貢が厳しくなった。その孫・松平定信が家斉の老中になると吉宗を真似て「寛政の改革」(1787~1793)を断行。

 出版規制で山東京伝が手鎖50日、版元・蔦重が財産半分没収。恋川春町も怪死。文化元年(1804)には喜多川歌麿、同月磨、勝川春亭、同春英、歌川豊国、十辺舎一九らも手鎖50日の刑。この北斎「絵本・踊独稽古」に序文を書いてる七代・三升(市川団十郎)も、その後の天保の改革(1830~1843)に手鎖の刑から江戸払い。成田山から大阪へ旅立った。

 為政者は政治に失敗すると、行革より庶民を締め付けて乗り切ろうとする。庶民は「やっちゃぁいられない」から、馬鹿な踊りで憂さを晴らす他にない。この構図は今も変わらないような気がする。かつての総裁の孫も変に頑張っている。今は出版規制が出来ぬが、電波法の変な解釈でテレビ規制をしようとしている。

 テレビと云えば、某局社員は相当の高給取りらしい。テレビ規制の動きがあっても反発する気概もない腑抜けか、大本営好きなのかも知れない。またテレビ依存の人気タレントや芸人らは、収入面では〝庶民の域〟ではないのに〝庶民面〟で、そこが透けて見えるからシラケるばかり。テレビにも作る側と観る側に格差が生じているのだろう。そんな事を思いつつ今日も「悪玉踊り」を描いた。


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アメリカ大統領戦も踊る(悪玉踊り7) [北斎・広重・江漢他]

akudama82_1.jpg 「悪玉踊り」7回目。朝起きて机に座るとクロッキー帖を広げて、トリチリチンと呟きながら「悪玉踊り」を描くのが習慣になった。「悪玉踊り」を踊るのもバカなら、それをこんな風に描き遊ぶのもバカだと思う。「悪玉踊り」は「馬鹿踊り」でもあろう。

 アメリカの大統領戦の報道を観ていると、既成政治(家)への不満が渦巻いて民主党・共和党ともに反主流派のサンダース氏、トランプ氏に注目が集まっている。アメリカ人が自棄になって踊り始めているような気がしないでもない。

 為政者、既成政治家には本当にうんざりする。反エスタブリッシュメント(反既成政治家、反支配階級)現象。日本もやがて我慢の限界が来よう。憲法9条も立憲も無視。40年ルールなし崩しで高浜原発稼働、GPIF(年金積立金管理運用独立法人)は日本株の運用枠拡大で危惧された通り膨大な運用損を更新中。格差拡大、派遣社員拡大。議員らは政より己の懐が大事らしい。あぁそれなのに、それに代わる政治家・政党の影の薄いことよ。「あぁ、やんなっちゃった」と踊り出したくなってくる。

 くずし字は「23のつゝつんのあしつくのごとく(足付くの如く)ふミつける(踏みつける)」「此からだをつぎ能(の)不うばかり(次の風ばかり)うしろへ弥ぢりてせなかをミ世(後へ捩じりて背中を見せ)つ起のごとくなると(次の如くなると)こころへて(心得えて)すべし」「24のたいをこし(体を腰)より(合字)上をひ年(ね)りててをこゝへひく(手をここへ引く)也」


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悪玉カラスは~(悪玉踊り6) [北斎・広重・江漢他]

akudama72_1.jpg 少し飽きたが、踊りは激しさを増す。描いていると♪チリチントツツルテン~と調子のいいお囃子が聞こえてくるような。お囃子にノッてもう少し描き続けよう。

 歌の出だしは「とんびからす~」だったゆえ、2月22日の新聞報「都心カラス激減」記事への雑感。2000年をピークに1/4に激減とか。うむ、窓の外を見れば、確かにカラスが少ない。

 激減要因の一つに、某知事によるカラス捕獲装置があげられていたが、あれでカラスが捕獲できたとは思えない。また「天敵のオオタカやノスリが都心でも繁殖の結果」とあったが、カラスが逆にオオタカを追うシーンを何度か見たし、カラスが減るほどにオオタカが殖えてはいないだろう。やはり生ゴミ管理や巣落としの結果だろうと勝手判断している。逆に都心の空をオナガ(カラス科)の群れがスーッと飛び交っている。


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北斎原画ふんどし踊り(悪玉踊り5) [北斎・広重・江漢他]

akudama62_1.jpg 今回は北斎原画模写に彩色。ふんどしを何色にしようか。当時の歌舞伎の浮世絵を見つけた。肉襦袢に「赤ふん」だった。歌舞伎の演目ならわかるが、庶民はふんどし姿で、どこで踊ったのだろう。北斎がこの絵手本を描いたのは文化12年(1815)、56歳の時。前年より1冊60頁の「北斎漫画」(絵手本)刊行を開始。全15巻で図版総数3900余。これは門人が増えすぎて、彼らのニーズに応えたものらしい。この「踊独稽古(おどりひとりけいこ)」は、「北斎漫画」の合間に描かれたのだろう。

 くずし字は1行だけ記す。「此すじ(線)のごと(合字)く、左右のてをワ起者(は)らへ(脇腹へ)ひ起(き)つける也。〝のヲ〟尓(に)てひくべし。たゞしてのこうをうえ尓(に)す也」


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動きが激しくなって~(悪玉踊り4) [北斎・広重・江漢他]

akudama52_1.jpg 踊りの動きが大きくなってきた。トンビだかカラスだかが「飛んで行きたやぁ~」で、扇を振り回しつつ身体も回転し、後ろ向きになって「悪玉お面」を口に咥える。図解最後に「お面について」の説明あり。筆写する。

「悪玉ハ厚紙にて図の如くにくわんぜより(観世縒り)をつけ、ここより折〇〇〇中すべし。裏のくわんぜより(観世縒り)を咥へ踊るべし。「くわんぜより」で完全に行き詰まった。40分も思案して、やっと「観世縒り=和紙を細く切り指先で縒って糸のようにし、その2本を縒り合わせたもの」だと判明した。「中(ちゅう)すべし=真ん中に来る」で、これは古語akudamamen2_1.jpg辞典にあり。「折〇〇〇」はとうとうわからなかった。情けねぇ。


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