SSブログ

近代窯業を育てたワグネル [青山・外人墓地]

wagener4_1.jpg 鹿島出版会の吉田光邦著『お雇い外国人ー産業』とサイト『横浜市立大学医学部医学科同窓会・倶進会〝横浜医史めぐり3〟を参考にする。ゴットフリード・ワグネル(Gottfried Wagener)は、1831年ドイツ生まれ。ゲッティンゲル大学の数学物理学の博士号を21歳で取得。ドイツで数学教師から翻訳官。フランス語、イタリア語、スペイン語を習得。パリで弟と化学工場を試みるが失敗。

 そんな折に上海の米国商社が長崎に石鹸工場を計画。慶応4年(1868年9月から明治元年)にワグナムを長崎に招聘。だが工場計画は頓挫。佐賀藩に雇われて有田で窯業技術を指導。新たな釉薬、コバルト顔料、石炭窯の実験などで伊万里焼(有田焼)の近代化に貢献。

 明治4年(1871)より大学南校(現・東大)でドイツ語教師。翌年に大学東校(現・東大医学部)で数学、物理、化学のお雇い教師。その仕事に並行して好きな美術工芸品の蒐集・研究。

 明治6年(1873)のウィーン万国博出品の顧問に就任。日本は未だ工業力未熟ゆえに伝統美術工芸品の出品を提案。大人気を博す。併せて職工24名に西洋技術を習得させるべく各所に配属。研究資料も蒐集した。

wagenerhaka_1.jpg 明治7年の帰国後は、教壇に立つと同時に「勧業寮」で諸産業の研究開発にも従事。「七宝釉薬」研究もこの時。明治9年(1876)には米国フィラデルフィア万国博の準備委員会メンバーに。

 帰国後は東大理学部で製造化学の担当教師。東京職工学校(東京工業大学)で窯業学の教師を兼任。併せて陶磁器、七宝釉薬、ガラス、石鹸製造などの技術改良。明治15年(1882)、自ら作った陶磁窯で作成作品を「旭焼」とした。

 大学の6年契約を終えた後は、リウマチ悪化でドイツに一時帰国。明治25年(1892)に帰来して弟子らの教育に当たっていたが、同年11月に駿河台の居宅で永眠。享年61歳。

 青山・外人墓地の墓碑は「旭焼」のレリーフが嵌められている。大震災や大戦で損傷した墓は、1980年の没後90年に「日本セラミック協会」にとって修復。京都市・岡崎公園に幅4㍍の大きな碑があり、東工大・大岡山キャンパスにも記念碑が建立されている。似顔絵は「有田焼」発想でピーコックブルー1色のカマイウ技法で描いてみた。


コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。