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民主遥かなり~フルベッキ [青山・外人墓地]

Varbeck2_1.jpg 「フルベッキ群像写真」が時に話題になる。3月末のBS7「歴史ミステリーロマン幕末維新の謎を解け」で2時間再現ドラマ。天皇がらみゆえ核心に迫れぬまま曖昧な放送で終わった。その件は弊ブログのカテゴリー「ミカドの肖像」(17)で少し紹介済。

 だが、その奇怪説はフルベッキに関係なく、彼の生涯をまともに紹介した書を!と求めたら「彼は自由と民主の思想に貢献した」と評する大橋昭夫/平野日出雄著『明治維新とあるお雇い外国人』に出会った。同著より彼の人生をまとめる。

 フルベッキ来日は、安政6年(1859)。オランダ生まれで20代でアメリカ移住。29歳の時に、改革派教会の伝道師として妻マリアと長崎へ。切支丹禁令下ゆえ、まずは欧州文化と近代思想の啓蒙を兼ねて英語教師。文久3年(1863)、政府が英語通詞養成の「長崎洋楽所」を設立し、彼を迎えた。同所は「済美館」と改称され、教員19名に生徒100名。全員が後に幕末・明治に活躍。

 慶応2年(1866)、長崎警備の佐賀藩開設「致遠館」校長に迎えられて両校で教えるも、幕府校ではない同館では理想の教育を展開。大隈重信、副島種民らは日本が学ぶべきはフルベッキが教えるアメリカの独立宣言、自由と民主思想にありと確信。大隈は後に「致遠館が早稲田大学の源流」と語る。

Varbeckhaka_1_1.jpg 同時期に勝海舟の息子・小鹿、岩倉具視の二人の息子をはじめ多数子弟のアメリカ留学を斡旋。明治5年までのアメリカ留学生500名余で、その半数が彼とフェリス(米国)の世話によった。そして当時の写真が、あの「群像写真」。

 明治2年(1869)、政府の招きで東京の開成学校(後の大学南校)に就任。大隈重信に欧米視察の草案概要を作成。高橋是清がフルベッキ宅に下宿。明治4年、文部省設置で最高顧問。新学制に貢献。岩倉が彼の欧米視察の草案概要を見て、総勢50名に使節団で欧米に出発。だが、ここでフルベッキの思惑が外れた。使節団が選択したのは自由と民主主義ではなく、ドイツ帝国=プロシャ的軍事独裁の官僚国家だった。

 明治6年、政府から離れ宣教師の仕事を望むが、7名の子を抱えて翻訳顧問でさらに5年契約。フルベッキとジュ・ブスケは欧州各国の憲法を翻訳。明治9年、天皇による「国憲を草案せよ」に二人が協力。オランダやベルギーの自由主義的精神を盛り込むが、その部分は岩倉・伊藤博文らに削除されてプロシャ型憲法へ。明治22年「大日本帝国憲法」制定。天皇制絶対主義、富国強兵、中央集権、思想信条の抑圧、国家神道~。

 政府から無用の存在になった彼は、もの静かな宣教師として明治31年(1898)に赤坂の自宅で急逝。68歳。その棺は政府派遣の近衛師団儀仗兵に守られ埋葬されたが、彼は日本に自由と民主主義を定着させることが叶わなかったことを悔いていたに違いない。


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