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食パン&精養軒コック長のチャリ [青山・外人墓地]

hess1_1.jpg 新宿図書館で「築地居留地」検索で関連書を借りた。清水正雄著『東京築地居留地百話』に居留地がらみで青山・外人墓地に眠っている5名が紹介されていた。まずは見出し「食パンのチャリ」の項より通称チャリ・ヘス、正式名カール・ヤコブ・ヘスについて。同項は古川鮎子著『グランシェフ③フランスパン祖チャリ舎の足跡をたどって』を参考にしていて、これに川崎晴朗著『築地外国人居留地』、「上野精養軒」サイト、「西洋料理人列伝」サイト他も参考にまとめるが、それぞれ年代記述が異なっているので確かでない点をご了承のほど。

 彼はドイツ系スイス人でチューリッヒ生まれ。パリでシェフ修行。明治2年(1869)に上海経由で来日。神戸で働き、横浜の洋菓子店で働いていた時に、築地精養軒(その前身のレストラン)開業に向けてコック長に招かれた。この時、明治5年で35歳。神戸時代に綿谷よしと所帯を構えてい、子には恵まれなかった。

 だが1年もせぬ内に、酔って列車から落ちて片腕を失った(明治5年に新橋~横浜間が開通)。同年4月の銀座大火で精養軒の前身レストランも焼失。一方、ヘスは明治7年(1874)に築地居留地内(現・入船3-10)に本格ベーカリーと清涼飲料水の会社「チャリ舎」設立(清水著には舎屋写真掲載)。〝西洋料理と食パンの開祖〟と評される。

cyari1_1.jpg 工場が明治20年頃に現・築地7丁目(現・北海道漁連)の地に移転。ヘスは併せて明治17年~29年に精養軒コック長でもあり。ヘスの工場は明治42年には合名会社となって従業員100名の大工場に。本格的なフランスパン、クロワッサン、あんぱん等。そしてシャンペンサイダー、レモネード、ジンジャーエールの製造販売。毎朝100台の箱車が一斉に配達に出発する光景が展開された。

 彼はその後も精養軒でコック指導をするなどしたが、明治30年(1897)に愛妻、養子、弟子らに見守られながら病没。墓碑には「故チャリヘス之墓」。裏面に「入法偉誉浄教居士」。戒名に首を傾げたが、川崎晴朗著には「彼の埋葬は遺言で芝・増上寺で執り行われたが、彼の弟(ホテルで理髪業)が再来日して青山霊園に改めた」とあり。愛妻〝およしさん〟と弟の間に確執があったのだろうか。

 食がらみゆえ、ついでに小生の青山・外人墓地への自転車散歩で腹が減った場合は、霊園参道?の「やぶそば」、または国立競技場近くまで戻って、かの「水明亭の久留米チャンポン」をいただく。


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