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青山・外人墓地の概要・概歴 [青山・外人墓地]

gaijinbotiA1_1.jpg お気に入り自転車コースが幾つかある。力と意欲なき日は平坦コースを走る。「新宿~信濃町~神宮外苑~青山霊園中央通り」そして六本木辺りを散策して戻ってくる。

 車やバイクでは青山霊園両側の「外苑西通り」「外苑東通り」を走るが、自転車だと横道に入りたくなる。某日、神宮の銀杏並木を経て青山通りを右折、最初の左折路を入ったら、その道が霊園中央通りへ直結で六本木に抜ける道だった。

 その道の右側に「外人墓地」あり。明治維新の「お雇い外国人」(官・企業・大学の)や宣教師、貿易商人など当時は東京に1万人ほどの外国人がいて、日本で亡くなった100名ほどが眠っているらしい。

 「外人墓地」から「東京ミッドタウン」や「六本木ヒルズ」が見える。明治維新から今が一枚の絵に収まる稀な風景。風景スケッチは苦手だが、その画を案内図のように描いてみた。ここに眠っている方々はどんな経歴で、どんな貢献を日本にして下さったのだろうか。自転車散歩ついでに一人ずつを調べてみましょうか、と思った。まずその前に青山霊園・外人墓地の概要・概歴を知っておきたい。

 青山霊園は明治9年(1876)に東京府の管理下へ。明治10年、築地居留地などに住む外国人専用の墓地を青山霊園に設けると決定。最初の埋葬は明治13年。明治32年の居留地制度廃止に伴い、外人墓地も一般墓地として扱われるようになる。

 そして戦後。多くの墓が無縁仏になると推測され、墓地を公園に変える計画が浮上。昭和35年(1960)、策を講じるも無縁化は進まず。平成12年(2000)より管理費滞納を理由に無縁化を促進しつつ平成15年に「霊園と公園」の共存方針が決定。

kensyouhi_1.jpg かくして外人墓地の多くの墓前に、石原都知事の名で「期日までに権利者から申し出がない場合は無縁仏として改葬する」旨の看板は建った。これはマズイと平成17年(2005)に設立申請のNPO法人「国際遺産を守る会 お墓の縁者捜索プロジェクト」が立ち上った。今も同サイトが最も詳しい外人墓地データになっている。

 だが現外人墓地には平成19年(2007)春、石原都知事名で「外人墓地の顕彰碑」が建っている。文面は「青山霊園(外人墓地)に埋葬されている方々は、江戸時代末期から大正時代にかけて来日し、わが国近代化に指導的役割を果たされました。近代日本の建設に尽力された方々の偉業や功績を称え、永く後世に伝えるため、ここに顕彰碑を設立します。平成十九年三月 東京都知事 石原慎太郎」

 NPO法人が心配した〝無縁仏として改葬して公園にする〟計画は中断されたらしい。この経緯をネット巡りで改めて探ってみた。2005年11月4日の「ライヴドア・ニュース」に「外人墓地は全129区画のうち78区画、約6割が〝無縁仏〟。これらを改葬して広場をつくる計画で、永続的な保存が危ぶまれている」なる報があった。

 次に魚住昭責任編集のウェブマガジン「魚の目」に<東郷和彦氏の「東京都知事 石原慎太郎殿」>と題された記事あり。2005年5月から2007年1月までの経緯が、概ねこんな内容で報告されていた。

 外人墓地撤廃の報に驚き、知事の力でその計画を撤廃してほしいと嘆願した。6月7日に担当建設局長より「外人墓地の区域は『歴史的墓所空間』と位置づけ、青山霊園の代表的な空間の一つとして保存して行く。ご心配されるような公園スペースを拡大するため取り壊す予定なし」という回答を得たと報告。その後の交渉でも、霊園内外人墓地は貸付対象箇所にもならないとの返信を得たと報告。かくして2007年4月4日に青山学院などゆかりの方々も参加しての「顕彰碑」お披露目式が行われた。以上がサイト巡りして把握できた概要・概歴。

 小生は3年前の2013年2月に管理事務所で外人墓地についてのA4版8頁折のカラーパンフをいただき、梅渓昇著『お雇い外国人』も読んだ記憶がある。試みに最寄りの新宿図書館蔵書を「お雇い外国人」で検索すれば45件もヒット。鹿島出版会からは17巻の全集刊行あり。〝気が向いた時に、軽い気持ちで〟お墓の一人ずつの簡単プロフィールを調べ、自転車散歩の際に掃苔できたらいいなぁと思った。


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