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十全病院の名医デュアン・シモンズ [青山・外人墓地]

Simmons1_1.jpg 福沢諭吉によるシモンズ墓碑銘の次はデュアン・シモンズ(Duane B.Simmons)の経歴・業績。ここは関連書を探すより「十全病院」を前身にする横浜市立大学医学部の同窓会「倶進会」のサイトと、『福翁自伝』(新潮新書)を参考にさせていただく。

 シモンズは横浜開港後の安政6年(1859)、派遣宣教師兼医師としてフルベッキ(青山・外人墓地に眠る)と共に来日。翌年、宣教師を辞して医者として横浜居留地で開業。一時帰国して再来日。フルベッキ推薦で明治3年(1870)に大学東校で1年間奉職。

 明治5年に伝染病予防の建議書を神奈川権令に提出。それによって同年、横浜市中病院が設立。翌年に「十全病院」と改称。神奈川県雇医に就任。以来、十全病院の名医として活躍。日々の治療活動の他に脚気の研究、明治10・11年のコレラ流行の際の治療・予防、県下の種痘実施、梅毒、駆虫剤セメンエン、薬用石鹸などで貢献。

 福沢諭吉の発疹チフスを治療したのは明治3年5月で福沢37歳、シモンズ36歳の時。ここは『福翁自伝』から当時を探ってみよう。当時の福沢は三田の島原藩中屋敷を手に入れるべく奔走中の頃。彼は25歳から昼夜問わずの飲酒生活で、30代になって「これではイカン」と猛省して少しづつ禁酒。37歳で酷い熱病(発疹チフス)に罹って万死一世の幸を得たときに、(治療をしてくれた)シモンズから「節酒の賜物で助かった」と言われたと記していた。また病後に(シモンズからだろう)馬に乗るのがいいと勧められて乗馬で諸方への運動を始めたと記していた。

 話をシモンズに戻す。かくして福沢諭吉が慶応義塾内に医学所を設立すると、彼は臨床講義を受け持った。明治13年(1880)に十全病院を辞して再び帰国。明治19年(1886)末に日本へ戻ってくると、福沢の紹介で三田に居を構えて、日本主義陣営の闘士として「時事新報」に健筆をふるった。明治22年(1889)2月に腎炎で逝去。似顔絵は、前回のパーマーで久々に墨+水彩だったので、今回は墨絵にした。


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