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凌雲閣設計と写真のバルトン(2) [青山・外人墓地]

ryuunkaku2_1.jpg 子供時分に、こんな歌を唄った。いろはに金平糖/金平糖は甘い/甘いはお砂糖/お砂糖は白い~(略)~黄色いはバナナ/バナナは高い/高いは十二階/十二階は恐い~ きっとこの歌を唄った最後の世代だろう。昔、バナナは病気にならないと食えぬ高価食材。それはどうでもよくて、その浅草十二階・凌雲閣の設計がウィリアム・K・バートン(和名バルトン)だと今になって知った。

 以下、細馬宏道著『浅草十二階』を参考にする。開業は明治23年11月(荷風11歳の時)。構造は10階まで煉瓦八角形。その上に木造2階で計12階、52㍍。バルトルは自国・英国の給水塔をヒントにしたらしい。内径11㍍、建坪37坪。真ん中に「日本初のエレベータ」。上下二対。轟音を発し8階まで約30㍍を2分で昇った。

 当初の売りが、このエレベーター。施工は東京電燈㈱(現・東京電力)。駆動は7馬力モーター。2~7各階に6、7店舗。8階から9階へは階段。中央らせん階段で10階の展望室へ。さらに木造建築で12階まで登れた。

 眼下南東に「ひょうたん池」(現・興行街六区に沿った東側)、北は田圃の中の「吉原」、西は隣接「花屋敷」。だがエレベーターは故障続きで翌24年に警察通達で停止。以来、穴が空いたままで、エレベーター復活は大正3年。

 エレベーター無き後の売りは、階段壁面展示の写真「百美人」。投票で順位を決める美人コンテスト。撮ったのは小川一眞。バルトンも写真家で、二人の関係も知りたくなってくる。

 当時の写真は湿板から乾板への過渡期。湿板は長時間露光で、その場で現像。乾板になると露出時間が短くて〝早撮り〟の異名。このガラス乾板は英国で明治10年頃に普及し、バルトルは同国の乾板写真で名を成していた。乾板は明治16年に江崎禮二(後に凌雲閣社長)が日本に個人輸入。

 小川一眞がバルトルと出会ったのは、明治20年8月の皆既日食。米国の撮影隊に参加すれば、そこにバルトルがいて、小川は彼の撮影パートナー兼通訳になった。明治21年、バルトルは磐梯山噴火を撮影。明治22年、バルトルは榎本武揚会長「日本写真家」初代メンバーに。かくして凌雲閣の写真展示は小川の「百美人」から「吉原美人」「日本百景」「シカゴ万博」など次々にシリーズ展示。

 バルトルも明治24年に『実地写真術』を刊。同書は国会図書館デジタルコレクションでネット閲覧可能。前書きに~今から十年前に余が英文を以て記述し、其後、今日に至るまで数回の改良を加えたる写真術の小本の訳をここに~と書かれ、「東京帝国大学工科大学に於いて ダブリー・ケー・バルトン」とあった。

 明治24年10月、マグニチュード8の濃尾地震。死者7千名。バルトンと小川一眞は地震学者ジョン・ミルン と共に現地入り。翌年に写真集『日本の大地震』を刊。著者:ミルン&バルトン/製版印刷:小川一眞。なおミルンも明治9年来日のお雇い外国人。明治9年には伊豆大島・三原山噴火も調査。〝日本地震学の父〟。

 明治27年6月、今度はマグニチュード7が東京を襲った。凌雲閣に怪我人なしも亀裂が生じて大改良工事。地震から一ヶ月後に日清戦争。凌雲閣は戦争画や戦地ジオラマが展示された。

 バルトルは明治29年(1896)、台湾全土の衛生工事調査、都市部の上下水道調査を終えて帰国した翌年に病死。日本人妻「満津」との間に生まれた長女「タマ」を遺して逝った。設計者没に合わせたように凌雲閣は次第に人気凋落。六区は活動写真全盛。凌雲閣は社名を「十二階」に変えて演芸場になった。十二階下は銘酒屋(私娼窟)になっていた。ちなみに荷風は明治41年に帰朝。父の住む大久保余丁町の「来青閣」で生活。

 大正3年4月にエレベーター復活。浅草はオペラブーム。そして大正12年9月1日、関東大震災。8階付近から折れて炎上。9月23日に工兵隊によって破壊された。

 そして93年後の今、バルトルの墓の背後に東京ミッドタウン、六本木ヒルズ森タワーは聳えている。子供時分に平屋に住んでいた小生も今は7階で、息子夫妻は12階で暮してい、地上は遥か下だ。


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