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京・三条大橋「鳴神の音にきこえし大橋は~」 [狂歌入東海道]

55kyouohhasi_1.jpg 第五十五作目は「京・三条大橋ノ図」。狂歌は「鳴神の音にきこえし大橋は雲の上ふむこゝちこそすれ」。柿本人麻呂「鳴神の音のみ~」と同じく〝なるかみ〟と読むのだろう。

 この狂歌入東海道の「三条大橋」は真正面からで、江戸出立「日本橋」は真横から描かれた図。比して保永堂版の「三条大橋」は横から、「日本橋」は真正面からの図。広重さん、細かく気を遣っています。

 三条大橋へ至る前に「粟田口刑場跡」あり。約一万五千人が処刑されたとか。明智光秀の遺体も晒された。大きな町の街道外れには概ね刑場あり。品川の「鈴ヶ森刑場」、日光街道の千住「小塚原刑場」、中山道の大宮「小原刑場」など。治安維持の見せしめとはいえ残酷なり。

55sanjyouuta_1.jpg さて、弥次喜多らも伊勢詣り後に京に入っているはずだが~。彼らは奈良海道を経て伏見まで来たが、京へ入らずに大阪への下り船に乗ってしまう。鉄道開通の明治十年まで三十石客船が稼働。だが伏見~大阪間で大雨に遭って接岸。その待機中に小便で上陸。再び乗船の混雑で、間違えて上り船に乗ってしまう。伏見に戻った彼らは御所仕えらしき女らに三条大橋への道を訊ねるも、馬鹿にされたか〝五条の橋〟を教えられる。

 結局〝五条の遊所〟に上がってしまう。喜多さん、コトが済んだ後で、相方が彼の着物で男装して逃亡。逃がしたと迫られて褌一つで放り出された。その後で〝三条の宿〟で一泊するも、彼らに京は向いていなかったか。〝雲の上ふむこゝちこそすれ〟とまで詠まれた三条大橋の感慨を一言も記さずに大阪へ行ってしまう。

 〝五条の遊所〟とは。ここは五、六年前(2010年に摘発・閉鎖)まで鴨川の「五条大橋~七条橋」右岸は庶民相手の遊所(遊郭~五条新町~赤線~五条楽園)があったそうな。今も遊郭風建物、赤線カフェ風建物が数多く残っているらしい。お上品な京都だが、やはり〝悪所〟は欠かせなかったのだろう。

 かくして『東海道中膝栗毛』の〆はなんとも歯切れが悪い。京からの道中ならば、日本橋に立たずに内藤新宿か品川宿で遊びまわって終わり、みたいな感じ。十返舎一九は二十年も書き続けてキレを失ったか、未練一杯で引き延ばしたか。

 それでも現・三条大橋の橋詰めには〝弥次さん喜多さんの銅像〟が建っている。その点は広重の方が華麗に「三条大橋」で〆ている。おっと、まだ一作「京・内裏」があった。


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