SSブログ

石部「都女のはらをかゝへてわらふめり~」 [狂歌入東海道]

52isibe_1.jpg 第五十二作目は「石部」。狂歌は「都女のはらをかゝへてわらふめりはらみ村てふここの名どころ」。漢字で書く。「都女の腹を抱へて笑ふめり孕み村てふこの名処」。めり=~のようだ。てふ=~という。

 〝はらみ村〟には驚いた。そこは石部宿を出て草津宿へ向かう途中、現JR西日本草津線「手原」駅辺り。手原村の由来が〝手孕村〟。歌舞伎「源平布引瀧」に〝手を産み落とした〟という伝説があって、そこからの命名とか。手原村の先に「草津の追分」があって、「右・中山道/左・東海道」の道標。

 石部宿に戻ろう。この絵は石部宿の旅籠風景。梅が咲く中庭から旅籠内の様子が描かれている。風呂場で疲れを癒す二人組(この風呂桶がカッコいい)。按摩さんに肩を揉ませて気持ちよさげな男。その前の着飾った女は何者なのだろう。同宿は京から約九里十三町。京立ちの旅人が最初に泊る宿場(本陣二軒、旅籠三十二軒)。宿場には旅籠を含み四百五十八軒の町並が続き、道中薬(胃薬)「和中散本舗」跡(重要文化財)が当時の豪商の忍ばせる。

52isibeuta_1.jpg 同宿には芭蕉「躑躅いけてその陰に干鱈割く女」の句碑あり。芭蕉が昼食をせんと茶店に寄ったら、山からとってきたばかりの躑躅が瓶にあり、その裏で客の顔を見た女房が干鱈を割いている、との情景を詠っている。

 宿を出て、冒頭の〝はらみ村(手原村)〟へ。さらに西へ幾つかの立場を経て「草津宿」手前の立場・目川の里へ。ここの風景が保永堂版に描かれている。名物が菜飯・焼き豆腐の田楽。旅人らはそれで小腹を満たしたに違いない。やがて草津川を渡って「草津宿」へ。


コメント(0) 

水口「四つ五つふればあがると子供等が~」 [狂歌入東海道]

51minakuti_1.jpg 第五十一作目は「水口(みなくち)」。狂歌は「四つ五つふればあがると子供等はみな口々にいひてあそべり」。双六のサイコロ次第では一気に〝上がり〟になる。三条大橋まであと僅か。東海道を旅する人、二十年に亘って『東海道中膝栗毛』を書き続けた十返舎一九にとって、多数「東海道五十三次」を描いてきた広重にとっても〝あと僅かでゴール〟です。

 土山宿から野洲川沿いの道を二里二十九町(11.5㎞)で水口宿。この絵は、相も変わらぬ旅籠の客引きの様子。ここは水口城の城下町。本陣と脇本陣が各一軒。旅籠が四十一軒。宿場は三筋で構成されている。

 創業・元禄十三年(1700)の老舗旅籠・桝又旅館が、十数年前まで営業していたらしい。そこから伺えるように、古い建物が遺る雰囲気ある街並み。保永堂版「水口」は〝名物干瓢〟。街道沿いで女らが干瓢を干している図。

51minakutiuta3_1.jpggoyutomeonna.jpg 宿場を出ると「横田の渡し」。この渡し場跡に巨大な(9.7㍍)の大常夜灯(文政五年・1842年建造)が遺っている。この横田で、芭蕉は同郷の服部土芳と二十年振りに会った。十歳の少年が今は二十九歳で、芭蕉は四十二歳。二人は水口宿で呑み交わす。「命二つの中に生きたる桜哉」。互いに命があって、この歳まで生きて再会できた。二人の間には今は盛りとばかり桜のいきいきと咲いている。芭蕉は水口に四、五日滞在して発句、歌仙を催した。

 現在の水口宿は近江鉄道が走ってい、最寄り駅は「水口石橋」駅。宿場を出て、さらに進めが昔は川を渡っていたが、今は明治十七年築造の〝天井川(隧道)〟下の「大沙川トンネル」(数日前のブログでiPhoneで描いた)や「由良谷トンネル」をくぐって石部宿へ。これは川の堆積物が積もって川底が上ってのことらしい。江戸時代の旅人らは、川の下に道が出来るなぁ~んてことは、夢にも思はなかっただろう。

 蛇足:保永堂版「御油(旅人留女」の二組の絡みが、この「水口宿」の絵にも描かれている。引き込まれて草鞋を抜いている男のポーズもまったく同じ。広重はこうした〝流用多々〟で東海道ものを幾作も描いたとわかる。


コメント(0) 

土山「急ぐとも心してゆけすべりなば~」 [狂歌入東海道]

50tutiyama_1.jpg 第五十作目は「土山・鈴鹿山之図」。狂歌は「急ぐとも心してゆけすべりなばあと戻りせん雨の土山」。「なば==したならば」。「せん=せ(する)+ん(意思)=しよう」。雨の土山は急いでいても心して行きなさい。滑ったならば後戻りしましょう。

 鈴鹿峠(京へ十七里、江戸へ百十一里)を越えても、まだ急坂の上り下りが続く。強飯が名物の「猪鼻の立場」、蟹ガ坂飴が名物の「猪鼻峠」。ここから急坂の蟹ガ坂を下る。

 坂之下から土山への厳しい道を、鈴鹿馬子唄は「坂は照る照る鈴鹿は曇るあいの土山雨が降る」。鈴鹿峠までの上り坂は天気が良くて、峠は曇っていて、下った土山は雨が降っている。鈴鹿山脈を越えると気候が変わる、と歌っている。

50tutiyamaup_1.jpg 「伊勢参宮名所図会」には「間(あい)」と記されているが、道の駅〝あいの土山〟サイトには「あい」の意は七説ありと説明されていた。

 この絵は、厳しい山道・鈴鹿峠の図。峠の向こうに茶屋の屋根が見え、上り下りの旅人らは合羽や蓑を被っている。保永堂版「土山・春之雨」も大名行列の先頭の武士らが雨仕度で歩いている図。

 当時は鈴鹿峠を越えた(京側からは峠の手前)宿で本陣二軒、旅籠四十四軒で栄えていたが、その後の峠を避けた国道などで次第に忘れられた存在へ。それゆえ当時の建物などが今も遺って、街道情緒が味わえるらしい。峠を越えれば、京はもうすぐです。


コメント(1) 

iPhoneで絵を描くテスト [狂歌入東海道]

tonner (320x460).jpg テストです。iPhoneの「メール」アプリの「フリーハンドで描く」で描いた絵。これをパソコンに送ったら「png」ファイルだったので、「jpg」変換する方法を調べてPC上で変換。小サイズにしてブログにアップ。〝あぁ、出来た!〟

 この「メールのフリーハンドで描く」は〝スプレー〟があって面白かった。ちなみに、このトンネルは「水口宿」から「石部宿」の間の「大沙川トンネル」。トンネル上を川(隧道)が流れている。

 これで「iPhone6s」で絵を描くのは<1>「メモ」の手描きで(10月21日「永井荷風の狂歌論」の荷風似顔絵)、<2>「写真」のマークアップで(10月25日「坂之下」の芭蕉似顔絵)。そしてこの<3>「メール」のフリーハンド。以上三つの手描きを試したことになる。使い勝手はそれぞれに違った。

 以上三つの機能を一つにまとめれば、なかなかの「お絵描きアプリ」になるものを~。事情があって三つに分けたのだろうか。 


コメント(0) 

坂之下「すゞか山ふる双六はたび人の~」 [狂歌入東海道]

49sakanosite_1.jpg 第四十九作目は「坂之下・筆捨山之図」。狂歌は「すゞか山ふる双六はたび人のさきへさきへといそぐ駅路」。鈴・振る・駅路の繋がり。判読困難なくずし字は、旧字の場合が多い。「駅は驛」のくずし字。内容は、双六ならばひと振りで〝上がり〟になる宿場まで来て足が早くなる、だろう。

 絵は「坂之下」に入る手前の〝筆捨山〟の奇嶺を、旅人らが立ちどまって眺めている図。保永堂版も同じく「阪之下・筆捨嶺」。

 同嶺について、三重観光サイトはこう説明。「奇岩怪石の多い山で松、楓、つつじが繁茂。絵師・狩野法眼元信がこの山を描こうとしたが、山の姿の変化が激しくて描けずに筆を捨てたのでこの名がついたと言われている」。

basyousan.jog_1.jpg49sakanositeuta_1.jpg 奇岩の山を楽しんだら「坂之下宿へ。昔は鈴鹿山の坂下にあったが、水害に遭って現在の地に移ったとか。ここもまた鈴鹿峠を控えて、大名行列の宿泊が多く本陣三軒、脇本陣一軒、旅籠四十八軒。相当に賑わっていたらしい。

 しかし「関宿」と同じく、明治になると鈴鹿峠を嫌った「関西本線」が、また昭和の「新名神高速道路」が坂之下宿を避けたゆえに過疎化。今は民家数十軒のひっそりした山村の呈らしい。

 宿場を出れば、曲がりくねった急坂で近江と伊勢の境〝鈴鹿峠〟へ。西行法師「鈴鹿山浮き世をよそにふり捨てていかになりゆくわが身なるらむ」。親、妻、子を捨てて出家した頃の歌だろう。不安と寂しさが溢れている。そして芭蕉「ほっしんの初(はじめ)に越ゆる鈴鹿山」。

 おや、同じような歌と句だなぁと思った。『芭蕉七部集』をひもとけば「猿蓑」に収録で、西行の行脚に想いを寄せて作った句とあって納得です。なお「坂之下宿」の次「土山宿」は滋賀県甲賀市に入ってゆくが、芭蕉生誕地は山を南西側に越えた三重県伊賀市。

 絵は芭蕉のつもり。〝筆を捨て〟スマホのタッチペンで「写真」アプリの〝マークアップ(落書き)〟で描いてみた。


コメント(0) 

関「くゞつめに引とめられて定宿の~」 [狂歌入東海道]

48seki_1_1.jpg 第四十八作目は「関」。狂歌は「くゞつめに引とめられて定宿の言訳くらき関の旅人」。「くゞつめ」を古語辞典でひく。「傀儡(くぐつ)=各地を漂白した旅人。くぐつの女が歌舞に優れ売春もしたことから=浮かれめ、遊女、くぐつめ〈女)。「くらき」には煩悩に悩まされ迷う意もあり。

 そんな女に引き留められて、定宿では言い訳も後ろめたい。同宿はそう詠われるほど〝くゞつめ〟が多かったらしい。女郎屋が五軒、飯盛女のいる旅籠が五十軒とか。

 狂歌は妖しいが、絵は逆に本陣より大名出立の緊張が張りつめている。見送る役人らが仰々しく見送っている。保永堂版「関」も同じく「本陣早立」の図。まだ明けやらぬ朝に身支度の武士や駕籠が待ち構えている。関宿の本陣は川北本陣と伊東本陣(松井家)が道を向かい合っていた。保永堂版は川北本陣らしい。

48sekiutaup_1.jpg ならば、この絵は伊東本陣だろうか。関宿でなぜに本陣に泊る大名一行が描かれたかは伊勢街道との分岐「東の追分」、大和伊賀海道への「西の追分」があり、加えて隣の亀山が城下町で、儀礼の面倒くささが敬遠されてのことらしい。

 それで大いに賑わった関宿だったが、明治20年代に亀山駅が開通し、「JR東海」が名古屋~亀山。「JR西日本」が亀山~大阪になって、亀山発展に比して急凋落。その影響が幸い?してだろう、古い町並みが今も遺されているらしい。東西追分間が約1.8㎞で、伝統的町屋が二百軒余遺されて「重要伝統的建造物保存地区」「日本の道百選」に指定。江戸時代にタイムスリップしたような街並みで、今も人々が生活しているそうな。ここまで机上の東海道旅を続けて来て、初めて訪ねてみたいと思った宿場です。


コメント(0) 

永井荷風の狂歌論 [狂歌入東海道]

kafu1_1_1.jpg 荷風全集・第十四巻に『狂歌を論ず』(大正6年、三十七歳)あり。以下、その概要をまとめる。まず冒頭で浮世絵好きになって「狂歌」に興味を覚えたと記す。浮世絵に狂歌挿入例が多かったからだろう。

 狂歌は俳諧、小唄、後の川柳、都都逸を一括して江戸庶民の間で発達した近世俗語体の短詩である。俳諧と狂歌の本質は〝滑稽諧謔〟なり。これは南北朝以来の戦乱による諸行無常、厭世思想と修養を経て洒脱となって滑稽諧謔に至った。これが徳川三百年を経て江戸都人の精神になった。

 さらに続く。「明暦の大火、安政の大地震~。江戸の都人は惨憺たる天変地妖に対しても亦滑稽諧謔の辞を弄せずんば己(や)む能はざりしなり」。滑稽諧謔で乗り切る他になかった。よって和歌の貴族的なるを砕いて平民的に自由ならしめたる他ない。

 俳諧は也有(横井)も「富貴誠に浮雲、滑稽初めて正風」と指摘する通りだが、俗悪野卑に走りがけるも「芭蕉の正風」によって清新幽雅の調を出さんと欲する刷新で世の迎ふるところなりしが~。

 狂歌は白河楽翁公(松平定信)の幕政改革までの約二十年間、天明寛政の頃に最も輝いた。この時期に浮世絵と狂歌は密接な関係を有した。だが寛政の改革で、戯作者らへの賞罰などあり。

 その後も広く世人に喜び迎えられたが、其の調は其の普及と共に卑俗となり、天保以降に及んでは全く軽口地口の類と擇(えら)ぶ所なきに至れり。そして「維新の後世態人情一変して江戸の旧文化随時衰退するや狂歌も亦その例に洩れざりき」。

 ここから荷風も好きでよく作った俳句に言及。「俳句は狂歌と同じく天保以後甚だ俗悪となりしが、明治に及び日清戦争前後に至りて角田竹冷正岡子規の二家各自同好の士を集めて大に俳諧を論ぜしより遽(にはか)に勃興の新機運に迎えへり」。

 俳諧狂歌は仏教的哀愁と都人特有の機智諧謔によっているが、西洋諸國近世の新文化及び哲学の普及・侵入によって軽躁、驕倣、無頼になってしまった。『伊そしてこう結んでいた。『伊勢物語』は国文中の真髄。芭蕉、蜀山人に江戸文学の精粋なりと、その含蓄を味わうことが真の文明となすべきなり。

 ※前回「永井荷風の狂歌」にスマホの「メモ・手描き機能」で描いた荷風の若き外遊時の似顔絵をアップしたので、今回も同様手法で晩年の荷風も描いた。スマホで絵が描けるとは思わなかった。


コメント(0) 

亀山「さえきりて長閑に見ゆる亀山の~」 [狂歌入東海道]

47kameyama_1.jpg 第四十七作目は「亀山」。狂歌は「さえきりて長閑に見ゆる亀山の松の羽をのす鶴の一こゑ」。今回は手前判読経緯を記す。まず書き出しはミミズ風で、一字一字をどこで区切るかがポイント。そこに留意して「さえきりて」と読む。さて「冴えきりて」か「遮りて」のどちらだろう。「て」は「天」のくずし字(変体仮名)。次は「長」+「門構え+木=閑」で長閑。「耳」の変体仮名の「に」。

 「見・由(ゆ)・る・亀山の」。「松・尓(に)・羽。を・の・春(す)」。「のす」が馴染無いゆえに古語辞典をひく。「のす=乗す、載す」。「鶴」が読めなかったが「鳥」のくずし字を知っていたので「鳥」の項をくずし字辞典でひく。旧字の「靏」とわかった。「鶴」と来れば「ひとこえ」と続く。

47kameyamaup_1.jpg さて「亀山宿」です。あたしンちの液晶テレビはシャープ「AQUOS」。今も「世界の亀山モデル」のシールが貼ってある。かつてのCFで「亀山工場」映像が流れていたが、同社は凋落して台湾の「鴻海(ホンハイ)」に買収された。同工場は「亀山駅」西5㎞に建っているらしい。絵の左に亀山城の惣門を行き来する旅人らが描かれている。(間違った記述があったので、以下を割愛)


コメント(0) 

庄野「宿入にそれと知らせて名物の~」 [狂歌入東海道]

 第四十六作目は「庄野」。狂歌は「宿入にそれと知らせて名物のまづかうばしく見ゆる焼米」。名物の〝焼米〟は、籾付きの米を炒り、こぶし大の俵に詰めた焼米。そのまま食べたり、湯を注いで食べたりの非常食、保存食らしい。

46syounouta_1.jpg46syouno_1.jpg 庄野宿は鈴鹿川左岸沿いにあって、今もひっそりした古い町並みが残っているらしい。旧家・小林家を庄野宿資料館とし、江戸時代の様子が紹介されているとか。またここは「吉良の仁吉の〝荒神山の血煙〟の観音寺あり。某演歌歌手の芝居で〝吉良の仁吉〟の芝居を取材したことがあった。

 絵は長閑な田園風景の街道を早駕籠、早飛脚が行き交っている。保永堂版「庄野・白雨」は夕立の坂道をござを被せた駕籠が急ぎ走り、笠と蓑の男らが駈け下っている図。広重は雨の情景がうまい。名作と評される逸品とか。

 東海道を歩く方々のサイトには「何もない庄野宿です。そこが良かった」なる記述あり。そう云えば、観音寺の〝吉良の仁吉碑〟は二代目広沢虎造が建てたとか。あたしの子供時分はテレビもスマホもなく、楽しみはラジオだけ。虎造節の浪曲にシビれたものです。何もない旧東海道を歩けば、昔の気分に浸れそうです。


コメント(0) 

石薬師「石薬師瓦と黄金まく人は~」 [狂歌入東海道]

45isiyakusi_1.jpg 第四十五作目は「石薬師」。狂歌は「石薬師瓦と黄金まく人は瑠璃の玉とも光る旅宿」。

 伊勢参りに行く弥次喜多らと別れたせいか、狂歌解読がおぼつかなくなった。石薬師寺の正式名称が「高富山〝瑠璃光院〟石薬師寺」で〝瑠璃の玉〟はわかるも〝瓦と黄金まく人〟の意がまったくわからない。

 同境内に一休禅師の「名も高き誓ひも重き石薬師瑠璃の光はあらたなりけり」があるそうで、その歌碑のくずし字を筆写した。

 石薬師宿は、四日市宿と亀山宿の間が五里半(21.6㎞)と長かったので、天和二年(1616)に設けられたとか。旅籠わずか十五軒ほど。

 絵は貴重な「問屋場(といやば)の図」。問屋場45isiyakusiuta_1.jpgは御用向きの人馬の継立て、継飛脚、助郷(村民らが動員される労働課役)手配の場。馬や人を指示する「人馬指(じんばさし)」がいて、人馬や荷の数や賃銭などの「帳付け」もいる。馬の交換で荷の積み替え作業、馬の世話、裸で汗を拭っている馬方、いざ出発と鉢巻を巻く男たちが描かれている。

 なお現「石薬師宿」は明治の国文学者・歌人の佐々木信綱の生誕地で、宿場は旧東海道の史蹟よりも佐々木信綱を前面に打ち出しているそうな。


コメント(0) 

四日市「梅が香に袖ふりあふて泊り村~」 [狂歌入東海道]

44yotukaiti_1.jpg 第四十四先目が「四日市」。狂歌は「梅が香に袖ふりあふて泊り村つえつき坂をのぼる旅人」。

 弥次喜多らの宿はむさくるしく、相部屋だった。先に風呂に入った喜多さんが弥次さんに「婀娜な女が湯加減を訊いてきたから、(夜の)約束をしてきた。おめぇが入っている時に、もう一人の年増が話しかけてくるかも」。

 弥次さん、年増を待つ長風呂で湯あたりで倒れてしまう。深夜に二人は壁伝いに婀娜な女の部屋へ夜這い。部屋を間違えたか、触れば菰に巻かれた石地蔵で〝死人〟かと大騒ぎ。「はひかけし地蔵の顔も三度笠またかぶりたる首尾のわるさと」。「はいかけし=這い掛けし=夜這い」。「仏(地蔵)の顔も三度」にかけて、笠を被りたいほど恥ずかしい。

44yotukaitiuta_1.jpg 早朝に宿を出た二人は「やうやうと東海道もこれからははなのみやこへ四日市なり」。四日市に来て京が近づいたせいか、街道がなんとなく華やいで来た、と詠っている。やがて「日永の追分」。左の鳥居をくぐれば伊勢参道道で、右が京。なんと!弥次喜多らは左へ曲がって伊勢参りへ行ってしまう。「狂歌入東海道」は彼らと別れて京へ向かいます。

 絵のように長閑な四日市だったが、今は石油コンビナートの街。昭和34年頃から〝四日町ぜんそく〟で公害との闘いが繰り広げられた。そんな四日町を過ぎて京へ向かえば、丘陵を登る〝杖衝坂(つえつきさか)〟。冒頭狂歌の「つえつき坂をのぼる旅人」となる。

 ここに芭蕉句碑「徒歩ならば杖つき坂を落馬かな」。伊賀へ四度目の帰郷の際、この坂を嫌って馬に乗って落馬したそうな。この句は〝季語なし〟の有名句とか。


コメント(1) 

桑名「乗り合いのちいか雀のはなしには~」 [狂歌入東海道]

43kuwana_1.jpg 第四十三作目は「桑名」(富田立場の図)。狂歌は「乗り合いのちいか雀のはなしにはやき蛤も舌をかくせり」。桑名宿から四日市の間の「富田の焼き蛤」が有名。「名物・焼きはまぐり」の看板と店頭で蛤を焼いている光景が描かれている。

 狂歌の〝ちいか雀〟とは何だろう。「雀(舌切雀)」と「蛤の舌」。乗り合いの子らが話す舌切り雀の話しに、桑名の蛤も舌を引っ込めるという意だろう。〝蛤の舌〟は、殻からベロッと伸び出た足(舌)のこと。

 高浜虚子の句「蛤を逃がせば舌を出しにけり」「舌焼いて焼蛤と申すべき」。弥次喜多らは船で桑名に着くや、早速〝焼き蛤で酒〟を楽しんで、ここで卑猥な歌を紹介している。〓しぐれはまぐり(煮蛤)みやげにさんせ、宮(宿)のお亀(飯盛女)が情所(なさけどこ・女陰)ヤレコリャよヲしよヲし~。

43kuwanauta1_1.jpg 二人は〝富田立場〟の茶屋でも焼蛤を食べた。なにしろ〝桑名の焼蛤〟は東海道を旅する人の大きな楽しみ。大皿に焼蛤をのせて運ぶ女の尻をちょいとあたって(触って)「おまへんの蛤なら、なをうまかろふ」。ふざけているから大皿の焼蛤が、弥次さんの懐に転げ入った。「アツ・アツッ~、金玉が焦げるぅ」。股引の前合わせを広げると、焼蛤がポコッと出て、喜多さん「ご安産でございます」。

「軟膏はまだ入れねどもはまぐりのやけどにつけてよむたはれうた」。軟膏を蛤貝に入れて売られてい、そのことを詠った戯れ。そうこうしているうちに、四日市から宿引が出向いてきて誘われた。

 なお『膝栗毛・第五編序』には一九の狂歌「名物をあがりなされとたび人にくちをあかするはまぐりの茶屋」に豊国の画が収められていた。また挿絵には「はまぐりの茶屋は同者を松かさにいぶせて世話をやく女ども」。「同者=道者=巡礼者」、焼蛤は松かさを燃料にしたり、乾燥した松葉をかぶせて焼いていた。


コメント(1) 

永井荷風の狂歌 [狂歌入東海道]

wakakikafu_1.jpg 永井荷風が大田南畝(蜀山人)の経歴調べをしていた。それを読み、小生も大田南畝関連書を読み出した。大田南畝は〝江戸狂歌〟の代表格。しかし荷風が詠んだのは狂歌ではなく俳句だった。今回、改めて荷風全集をひも解けば、なんと全集第十一巻目次に「狂歌」あり。わずか四首掲載。かくして荷風の狂歌を鑑賞です。

◉「てんてんとはぢもばちをと永調子うき世をよそのしのび駒かな」(わか家の稽古三味線の皮にかきける。大正四年画帖)。八重次(藤間静枝)と離婚し『日和下駄』を描いていた頃の作。「はぢ・ばち」の地口洒落に〝しのび駒〟が効いている。しのび駒=練習の時に消音する胴にのせる細長い駒。

◉「こし方の暮のかづかづ冬ざれてかゞむ背中の圓火鉢かな」(大正四年画帖)。この圓(まる)火鉢は、永井家にずっとあって、常に荷風の机邊(きへん)にあった。二首共に〝画帖〟とあるので、絵も見てみたい。

◉「時は今天が下しる雨聲會酒戰のてがら誰がたてけん」(大正五年五月「文明」)。この狂歌を調べて少し驚いた。隠棲好みの荷風だが若い時分には総理大臣主催の文学者との歓談会に招待されて〝誉なり〟と喜んでいた。

 同会は西園寺公望(きんもち)の主催。荷風の「雨声会の記」(全集第十四巻)によれば、それは大正五年で十回目の会。第二次西園寺内閣の総辞職が大正元年で、その後の開催だったのだろう。会場は柳橋「常盤」。荷風はその五年前(明治四十四年初冬)の会にも、川上眉山の自刃で空いた席に選ばれて出席していた。「文人たるもの感佩(かんぱい)せざらんとするも得べけんや。われ席上最も年少の後輩なり」。「筵に倍するも書生に黄吻一語感謝の意を述ぶべき辞柄をしらず」。よってこの手記を記念に残すと記していた。

 大正五年の荷風は三十七歳。三十一歳からの慶應義塾文科教授と「三田文学」編集を辞した頃で、隠棲する直前の〝栄誉〟と言えそう。ちなみに西園寺は正妻を持たぬ家憲で、四人の女性(新橋芸者二人と女中頭二人)と事実婚とか。女中頭に手を出すのは勝海舟も同じ。

◉「めてたさは翁に似たるあこの髯角も羊はまろくをさめて」(昭和六年色紙)。昭和六年は未年ゆえ詠んだ一首だろう。年賀色紙には髭と丸まった角の羊が描かれていたような気がする。

 カットは外遊時代の若き荷風。入手したばかり「iPhone6s」の〝メモ・手描き〟で描いた。


コメント(0) 

宮「わたつみを守れる神のみやの船~」 [狂歌入東海道]

42miya_1.jpg 第四十二作目は「宮」。狂歌は「わたつみを守れる神のみやの船なみちゆたかにこぎかへるみゆ」。ボストン美術館では「神のみやの〝松〟」だが、偏は木じゃなく舟だろう。ゆえに「船」。わだつみ(海)を守れる神の宮の船浪路豊かに漕ぎ返る見ゆ」。宮=熱田神宮。熱田神宮なら大楠で、やはり〝松〟ではない。大伴家持の歌に「~漕ぎ隠る見ゆ」あり。結句はそれに似ている。

 弥次喜多らは「宮宿」で泊。ここでも弥次さんは隣の部屋の瞽女(ごぜ)さんに夜這いして大騒ぎ。瞽女さんの枕元から自分の部屋まで長々と褌が続くお粗末。喜多さん、爆笑しつつ一首。

「瞽女どのにおもひこみしは是もまた恋に目のなき人にこそあれ」。翌朝、慌ただしく船着場へ。ここから海上七里の渡しで桑名へ。今ここは「宮の渡し公園」とかで、当時の船着き場が復元とか。江戸時代は常時五十艘もの渡し船が稼働する賑やかさ。

42miyauta2_1.jpg42miyautaup_1.jpg「おのづから祈らずとても神ゐます宮のわたしは浪風もなし」。

 順風に帆を上げて滑るように走る船。小便がしたくなった弥次さんは、宿で貰った火吹竹にソコを宛がって致した。竹筒に溜めてから捨てると勘違いし、筒先の穴から小便がジョロジョロと洩れ広がって船の中は大騒ぎ。それでも船は無事に桑名へ着。

 「膝栗毛四編」これにて完。


コメント(1) 

鳴海「たかぬひし梅の笠寺春さめに~」 [狂歌入東海道]

41narumi_1.jpg 第四十一作目は「鳴海」。狂歌は「たかぬひし梅の笠寺春さめに旅うぐいすの着てや行らん」。「たかぬひし=たか(誰が)ぬいし(縫ったのか)」だろう。この解釈には難儀した。笠寺の観音様は笠を被っているそうで、衣も着ていたのだろうか。「行らん=推量の〝らむ〟=行くのであろう」。「旅うぐいす」の意がわからず宿題です。

 膝栗毛の「鳴海宿」は狂歌二首を含めても僅か五行で、次の「宮宿」へ移ってしまう。どんな宿場だったのだろう。改めて地図を見れば、「鳴海宿」は伊勢湾の奥、現・名古屋港近く。港に注ぐ天白川の河口すこし上流沿い。弥次喜多らは鳴海宿に着いて、まず一首~

 「旅人のいそがば汗に鳴海がたこゝもしぼりの名物なれば」。絵を見れば〝有松絞〟と同じように絞りを店頭に飾った店の連なり。ここでは〝有松絞り〟ではなく〝鳴海絞〟になっている。同じような絵が『尾張名所図形・鳴海宿』にもあった。これで「ここもしぼりの名物なれば」の意を了解。〝鳴海がた=鳴海潟〟。〝汗・しぼり〟は縁語だろう。

41narumiuta_1.jpg 宿場を出て天白川に架かる〝田ばた橋〟を渡ると「笠寺観音」へ。笠をいただきもふ木像なるゆへ、この名ありとかや~と記して~

 「執着のなみだ雨に濡れじとやかさをましたるくはんをんの像」。冒頭狂歌の「笠寺」が詠われている。「執着(煩悩)の涙雨に濡れじとや(濡れないように)かさ(笠)をましたる(被っていらっしゃる)くはんをん(観音)の像」。「まし・たる=いらっしゃっている、おなりになっている」尊敬語。「くはんをん=観音の旧仮名くわんお(を)ん」。

 これしきのことで手こずっていると、己の文学知識・素養のなさを痛感する。「あぁ、文学部へ行っていればよかったなぁ」と思う。絵が描けない時は「あぁ、美術学校へ行けばよかったなぁ」とも悔やむ。このブログは誰も見ていないだろうから告白すれば、あたしは「理工学部応用化学科中退」です。あの時代は長髪でドロップアウト、中退がカッコよかったんです、と負け惜しみ。でも、これは心の底から「若い時分にもっと・もっと勉強しておけばよかった」。


コメント(1) 

池鯉鮒「春風に池の水のとけそめて~」 [狂歌入東海道]

40tiryu_1.jpg 第四十作目は「池鯉鮒(知立・ちりふ・ちりゅう)」。狂歌は「春風に池の水のとけそめて刎出(はねで)る鯉や鮒の花なる」。まぁ、珍しい地名だこと。古代より知立神社があって「知立」だったが、同神社は低地で池が多くて鯉や鮒の産地。旅人に旨い魚を提供したいと「池鯉鮒」になったとか。

 弥次さんは草鞋で足を痛めたので、この宿で草履を買っただけで同宿を打ち過ぎた。池鯉鮒宿の記述がないので、俳句双頭の句を紹介する。

 知立神社参道に芭蕉句碑あり。「不断たつ池鯉鮒の宿の木綿糸」。〝不断たつ=絶え間なく続き立つ〟だろうか。池鯉鮒は木綿も名物。一茶は「はつ雪やちりふの市の銭叺(ぜにかます)」。銭叺=蒲で編んだ銭入れ。

40tiryuuta_1.jpg この絵は、池鯉鮒宿の入口の茶屋前で人々が大名行列に平伏していると思ったが、よく見れば「八朔御馬献上」を迎えている様子が描かれている。保永堂版「藤川」で描かれた〝八朔御馬献上〟図は、司馬江漢「藤川」と内容・構図そっくりの図だったが、この絵はリアリティがあって、広重はやはり〝八朔御馬献上〟に幕府から派遣されたのではないかと思った。

 一方、保永堂版「池鯉鮒」は「首夏馬市」。知立松並木沿いで毎年四月二十五日~五月五日に開催される馬市(五百頭規模)が描かれていた。現在は「馬市の跡」の石碑が建っているそうな。

 同宿を出て「今岡村」立場へ。ここは芋川饂飩(うどん)が名物。「名物のしるしなりけり往来の客をもつなぐいも川の蕎麦」。

 さらに阿野、坂部、落合村を経て有松村へ。ここは絞りが名物。各染屋ごとに〝絞り〟を飾り立てての商い。「名物・有松絞り、さぁさぁお入りなさい」とうるさいほどの客引きに辟易して一首。

 「ほしいもの有まつ染よ人の身のあぶらしぼりし金にかへても」。弥次さんは浴衣を買おうと思ったが、店主とのやりとりで気分を害し手拭だけを買った。次の「鳴海宿」はもうすぐです。


コメント(0) 

岡崎「宿毎に夕化粧して客をまつ~」 [狂歌入東海道]

39okazaki_1.jpg 第三十九作目は「岡崎」(矢はぎのはし)。狂歌は「宿毎に夕化粧して客をまつこころもせはしぢょぢょのぢょん女郎」。「岡崎女郎衆」の〝ぢょぢょ〟リフレイン。今の漫画世代には「ジョジョ立ち」が浸透しているが~。

 当時は山東京伝『敵討岡崎女郎衆』(文化三年刊)有り。♪岡崎女郎衆は好い女郎衆~ なる歌もあったほど〝岡崎女郎衆〟は有名だったらしい。とは云え遊郭があったわけでもないから〝岡崎女郎衆=飯盛女〟のことだろう。

 岡崎宿は〝家康と三河武士〟の町。岡崎城(家康生誕の城)の城下町。防衛のためだろう〝岡崎二十七曲〟なる曲がり続く町並みに旅籠が約百五十軒。この宿毎に夕化粧して客を待つ飯盛女らがいた。

 弥次喜多らは「ここは東海に名だたる一勝地にて、殊に賑しく、両側の茶屋、いぢれも奇麗に見へたり」。そんな茶屋で昼飯に「鮎の煮びたし」を〝うめぇ・うめぇ〟と食った。その奥座敷から居続けの近在客三人が、それぞれの相方の遊女に送りだされて〝空尻馬=駄賃馬〟に乗って帰って行く。その光景が面白かったのだろう~

39okazakiuta2_1.jpg 「三味せんの駒にうち乗帰るなり岡崎ぢょろしゆ買に来ぬれば」。岡崎女郎衆と遊んで、三味線の駒ならぬ駄賃馬(駒)に乗って帰るよ、詠っている。そして宿場外れの松葉川に架かる矢矧(やはぎ)橋へ。

 この絵は、橋の向こうに岡崎城が描かれている。保永堂版も同じ構図だが俯瞰で描かれ、橋を渡っているのが大名行列。この橋は長さ二百八間(約370㍍)で当時の日本一。余りの立派さにシーボルトが精密スケッチを遺しているそうな。

 「欄干は弓のごとくに反橋やこれも矢はぎの川にわたせば」。「矧(はぎ)」は弓偏に引でアーチ橋。今、この橋はなく、岡崎城は明治維新に取り壊され、戦後に三層五重の天守閣が復元とか。

 田辺聖子は岡崎宿の記述で面白いことを記している。「大阪は太閤はん贔屓で、徳川嫌いである」。そして小生は思う。江戸っ子は「徳川好きで、朝廷や天皇に馴染なく、薩長嫌いだ」と。江戸っ子は突然の官軍の御旗と〝宮さん・宮さん~〟に眼を剥いたに違いない。

 ★sabotenさん、コメントありがとうございます。このシリーズは数年前のもので、小生は目下別テーマで遊んでいますので、当時記したことへの質問をされても少々面倒です。また専門家でもなく「隠居遊び」ですから、間違いも多々をご了承の上、ご自由に参考にして下さい。このシリーズ冒頭に記した通り、この「狂歌入り」は古本市で3千円で入手のボロボロ、明治頃の刷りだろうと思います。価値はありませんが56枚揃いですから、勉強なさる方がいらっしゃるのあれば、手元にあったら便利でしょう。差し上げますよ。★sabotenさん、メールアドレスをコメント欄にご記入下さい。確認次第消去しますからどうぞ~。


コメント(1) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。