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京・内裏「おもい立さは先よしといそ五十路~」 [狂歌入東海道]

56dairi_1.jpg 保永堂版最後は「三条大橋之図」だが、「狂歌入東海道」第五十六作目「大尾(たいび=最後)」として「内裏(だいり)」が描かれている。狂歌は「おもい立さは先よしといそ五十路こえてみやこをけふはつの空」。

 ボストン美術館は「おもい立さ〝い〟」だが、「おもい立さ〝ハ(ば)〟」だろう。さらに同美術館は「けふみつの空」。〝ミ〟と〝者のくずし字=は〟が似ていて「ミ・は」を迷ったが、筆運びから推測すれば「は」ではなかろうか。「けふはつの空」。〝ミ〟ならば「けふミつの空」で「今日見た空」。「いそ=数多い」。とりあえずこう解釈しておく。最後まで狂歌解釈に惑わされました。

 さて広重は何故に「内裏」まで描いたのだろう。「内裏」は京都御所。平安京ではなく江戸後期の「内裏」を調べれば、なんと松平定信が復元し、その形が今に至っていると知って、思わず声を上げてしまった。

56dairiuta_1.jpg56dairiup_1.jpg 定信と云えば〝寛政の改革〟。浅間山噴火を端にした天明大飢饉で、江戸は緊縮財政・風紀取締。それが恋川春町を自刃に追い込み、山東京伝が手鎖五十日の刑、蔦重が財産半分没収の刑など。その最中に定信は京都・天明大火で焼失の内裏を、しかも平安京の形式で復元したと!江戸の庶民文化を締め付けた「寛政の改革」の一方でそんな大事業をしていたとは。改めて松平定信をお勉強してみよう。また広重が「内裏」を描いたのは「八朔御馬献上」帯同で内裏へ入ったゆえ、と推測したがいかがだろうか。

 数年前の「池袋西口古本まつり」で朽ちた五十六枚綴りの「狂歌入東海道」を入手し、その〝狂歌(くずし字)〟解読をと軽い気持ちで始めたら、四カ月余も要してしまった。

 当初は酷暑をさけて冷房部屋でお遊びの積りだったが、早や秋は過ぎて冬を迎えつつある。その間に「古文書講座」受講もあった。ケツから何かを突っ込まれてポリープを二度に渡って取った。〝長かったなぁ〟と思いますが、十返舎一九は『東海道中膝栗毛』は八編十七冊で完も、弥次喜多らの道中記は二十年余(三十八歳の初編から五十八歳の十二編完)も書き続けた。それを思えば四カ月は僅かなもの。

 これにて「狂歌東海道」シリーズ終了です。狂歌の解読・解釈、また机上の東海道五十三次で記述誤りも多かったと思います。なお参考資料は「日本橋」の項に列挙しました。終盤に入手の本も多く、例えば『東海道中膝栗毛』校注の麻生磯次著の『芭蕉物語』(上・中・下巻)を神田の古本市で入手。広重、一九に加えて芭蕉と共に東海道を歩くことも出来たかなとも思います。気が向いた加筆、修正して行きます。


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