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堀田善衛『定家明月記私抄・続編』(小生抄2) [鶉衣・方丈記他]

sadaietuika_2_1.jpg 承久2年(1220)、定家59歳。2月、順徳天皇の内裏歌会で定家が詠んだ歌。「道のべの野原の柳したもえぬあはれ嘆の煙くらべに」(ぬ=打消しではなく完了・並列)。野原の柳は下萌えした。私の胸の嘆きと煙くらべ(想いの強さを競い合っているようだ)。特別な歌でもないが、これに後鳥羽院が激怒した。勅命で勘当(閉門)。歌人として公的会合に一切出席ならぬ処罰。

 著者は、7年前の定家邸の柳2本が、後鳥羽院に持ち去られた事件の定家の怒りを含んだ歌と解釈されての激怒と記している。また同歌の本歌は、菅原道真「道のべの朽ち木の柳春来ればあはれ昔としのばれぞする」と「夕されば野にも山にも立つ煙嘆きよりこそ燃えまさりけれ」。

 菅原道真は醍醐天皇の右大臣ながら、誣告(ブコク、虚偽告訴)によって大宰府に左遷されて同地で没。これは天皇の判断ミスが明白で、この話題は宮廷で「禁忌」のこと。さらに後に後鳥羽院が隠岐で記した『御口伝』にある和歌の考え~宮廷文化の君臣間を和する=和歌という考えと、定家の和歌に対する考えの相違に起因したと指摘する。

 ネット小説?鈴木了馬氏の『たれもや通ふ萩の下道』では、芭蕉解釈として「柳下に鍛す=刀鍛冶=3種の神器の刀剣なしで即位した後鳥羽院の嘆き」。また「刀剣=草薙剣=野火の草を払う草薙剣をもたぬ後鳥羽院の嘆き」と解釈して怒ったと書かれていた。

 また小生ブログ「応仁の乱」では、足利義政の東山山荘の造営にあたって、しばしば寺院、公家の庭から樹木や庭石を掠奪したと記していて、これも興味深いが~。ともあれ定家は冷泉自邸の閑居謹慎。これが幸いしたか、定家は宮廷無関係で「歌論」を家芸・家学の歌道として独立化した。

 そして著者は、こう続ける。承久3年の『顕註蜜勘』『後撰集』『拾遺集』などの注釈を主にした歌論を書いて門外不出の秘伝書とした。さらに一家総出で『源氏物語、伊勢物語、大和物語、土佐日記』などを書写。家芸・家学の教科書化を拡充。和歌を天皇から離れた家学(歌学)として独立させたと解説する。

 ここでは「承久の乱」を省略(いずれお勉強)するが、承久4年(貞応元年)1222年に定家61歳。11歳の御堀川天皇(高倉天皇)へ。定家は隠居し、息子・為家が娶ったのが関東豪族・宇都宮頼綱の娘(北条時政の孫)で、鎌倉(北条)政権との絆を強固にした。

 定家は「紅旗征戒吾ガ事二非ズ」と記すも、生涯フリーの小生からみれば「定家=どっぷり・したたかな官僚的忖度人生」に思えてくる。

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