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堀田善衛『定家明月記抄・続編』(小生抄3) [鶉衣・方丈記他]

hota3nin_1.jpg 貞応2年、定家は書写の日々。息子・為家25歳でやっと「千首和歌」を遂げる。高倉院没。12歳の御堀河天皇へ。摂政は近衛家実だが、実権は西園寺公経(定家妻の弟で、関東申次役)。

 元仁元年(1224)、定家63歳。11月より一家総がかりで『源氏物語』54帖の書写開始。京都は相変わらず悪疫流行、盗賊群盗で荒廃極まる。北条政子没。(前年に北条義時も没)

 嘉禄2年、為家28歳で公卿・参議。孫5歳も叙爵。定家65歳にして、またも召使女性に子を生ませた。かく場合の子は、概ね寺へ預けられて女児は尼、男児は僧の道を歩むそうな。定家は後鳥羽院側近らとは逆に九条、西園寺の隆盛にあやかって大順調。京極邸も新築した。

 寛喜2年(1230)67歳。京都は再び飢餓。彗星爆発。群盗跋扈。翌3年、天皇の行幸も飢餓者が道に溢れて通行ままならず。定家はそんな世間に「吾ガ事二非ズ」で、庭木と月を愛でつつ書写の日々。『天台止観』『伊勢物語』『大和物語』等を書写。

 翌・貞永元年(1232)71歳。権中納言。同年の『明月記』記入は2日のみだが、同年に九条道家から『新勅撰和歌集』撰集を下命。集まる歌は後鳥羽院時代に比して精彩なし。天皇に序文・目録を見せるだけの定家独撰だが、その直後に御堀河天皇逝去。

 同年に鎌倉幕府「御成敗式目51ヶ条」制定。著者は以下3点に注目。①承久の乱の罪状は父子各々別。②第34条に「姦通=罪科」。京の〝色文化〟に終止符。③官職は幕府に申請。これで平安文化終焉。公卿らは妻を離別して、関東の女を迎え始めたと指摘。

 天福元年(1233)定家72歳。10月に出家。文暦元年(1234)定家73歳。『新勅撰和歌集』を道家に持参。道家は後鳥羽、順徳、土御門の三院の百首を切り捨て、関東勢の詠歌に差し替えた。著者は「政治が文化をもぎ取った」と記す。翌年、定家74歳。『明月記』は12月で書き止まった。

 4年後の延応元年(1239)2月、後鳥羽院が隠岐で没(60歳)。定家はその2年後、仁治2年(1241)80歳で没。これにて「続編」の小生抄おわり。

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