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金子光晴⑧エロじじい晩年と名著 [読書・言葉備忘録]

kanekozensyu_1.jpg 昭和21年(1946)光晴51歳、三代子46歳、息子22歳。山中湖畔から焼失を免れた吉祥寺の我家に戻る。息子、早大に入学。「コスモス」創刊に同人参加。彼の反戦・反権力を貫いた詩、著作に評価高まるも稿料は僅か。モンココ化粧品本舗は営業不振で収入途絶えた。今や小説家・三代子の収入頼り。

 昭和23年(1948)53歳。詩人志望の大川内令子25歳と深間になる。彼女との関係はその後30年余続く。三代子はリューマチで半臥状態で、光晴は旺盛な執筆活動。昭和26年56歳。翻訳『ランボオ詩集』『アラゴン詩集』刊。その翌年に詩集『人間の悲劇』発表。ママゼル本舗(染髪)の宣伝部に籍を置く。令子との結婚承諾を得るべく彼女の実父に会いに佐賀県へ。併せて九州一円で講演。

 昭和28年(1953)58歳。マダム・ジュジュ化粧本舗の顧問になる。息子のパリ留学に両親が揃っていることが条件で令子と無断離婚し、三代子との籍に戻す。詩集『人間の悲劇』が第5回読売文学賞を受賞。翌年、息子、パリ留学。令子の籍を戻す。昭和32年(1957)62歳。自伝『詩人』刊。

 三代子は中国青年将校との交情を描いた『新宿に雨降る』を発表。彼と令子との婚姻届けを知って、昭和34年『去年の雪』で憤懣を吐露。不自由な身体ながら三代子が光晴を殴りかかり、その後に光晴は三代子を抱く、60歳を越えても愛憎と愛欲の旺盛なこと。

 昭和40年(1965)70歳。詩集『IL』と『絶望の精神史』を刊。『IL』は翌年に歴程賞を受賞。翌々年72歳。『定本金子光晴全詩集』はじめ出版多数。新宿紀伊国屋書店で『若葉のうた』サイン会。昭和44年(1969)74歳。軽い脳震塞で入院。テレビ「人に歴史あり」に出演。昭和46年(1971)76歳。三代子とのアジア・欧州放浪記『どくろ杯』から続く三部作を執筆。この頃に美大中退の18歳木村まさ子と交際。80歳直前にも人妻と交際。晩年の「エロじじい」大奮闘。その人気について、本人は「反戦・反権力で過激右翼に狙われていたから〝エロじじい〟浸透で丁度いいんだよ」と言っていたとか。

 昭和47年(1972)77歳。前年刊の『風流尸解記』が芸術選奨文部大臣賞を受賞。昭和49年(1974)79歳。7月から半年間、雑誌『面白半分』編集長。光晴は死の2週間前に令子(愛称うさぎ)とデート。二人の関係は昭和23年から28年間も続いた。光晴はその顛末を『姫鬼』に書き、桜井慈人も『恋兎 令子と金子光晴』に書く。令子の内股に「みつ」と彫り、自身の肩に「れいこ」と彫った。

 昭和50年(1975)80歳。自宅で苦しみなく急性心不全で永眠。その2年後に森三代子も死去。まぁ、夫妻共にあっぱれな性遍歴と、反戦・反権力を貫いた詩人だった。小生に性遍歴は見習うことは出来ぬも、反戦・反権力は見習えそうです。近くの図書館に『金子光晴全集』が開架であり、少しづつ読んで行きたく思っています。(完)

 参考資料:金子光晴『どくろ杯』『ねむれ巴里』『西ひがし』『絶望の精神史』『金子光晴全集・第十二巻』。竹川弘太郎『狂骨の詩人 金子光晴』、森乾『父・金子光晴 夜の果てへの旅』、『相棒 金子光晴・森三代子自選エッセイ集』、ちくま日本文庫『金子光晴』、山本夏彦『夢想庵物語』、群ようこ『あなたみたいな明治の女』、山崎洋子『熱月』など。

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