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「CANP」の二人の思い出 [スケッチ・美術系]

moriyamahon2.jpg 昭和51年(1976)の大森大道のイメージショップ「CAMP」初期メンバー8人のうちAは、20歳頃の友人だった。44年オリンピックで「東京はうるせぇ~」てんで二人で脱出し、伊豆・河津へ逃げた。

 貧乏青年の長逗留で金が尽きた。Aは親が伊豆諸島の赴任教師時代に「離島体験」あり。磯で食材確保、山で〝百合根〟を掘って食うことなどを教えてくれた。町の小さな温泉銭湯に入ると「混浴」だった。

 数年後にあたしは広告制作会社へ。未だ遊んでいた彼を同社に誘った。彼のデッサンは美術研究所の講師も舌を巻く腕で、同社先輩デザイナーらも感嘆の声で彼を迎えてくれた。2年後にあたしはPR会社へ転職し、彼は写真専門学校に入学した。

 数年後、彼は同校をトップ成績で卒業し「CAMP」に参加。カメラ雑誌に彼の「擬似強姦写真」が載った。よくわからぬがカメラで強姦云々~。その後、彼の噂は消えた。大森大道が『写真よさようなら』(アレ・ブレ・ボケの極致)からスランプで、クスリ漬けで痩せていた頃だろうか~、Aが突然に我家を訪ね来て「結婚するから保証人のサインをくれ」。

 当時のあたしは「ポプコン~世界歌謡祭からデビュー」のタレント群を擁した会社のライターで、「あたしの文章&田村仁(タムジン)写真」によるパンフ制作時期が続いた。因幡晃、佐々木幸男、世良公則&ツイスト、円広志、サンデー、大友裕子など~。当時のタムジンは超望遠レンズで粒子の粗い(アレ)写真が特徴だった。

 同社宣伝部が、新しい写真家を探していて、あたしはAを推薦した。彼はプレゼに妻の全裸を東松照明のように黒っぽく焼き込んだ写真を提出。担当者は新風を期待で「矢神純子」のジャケ写を依頼してくれた。彼が住む福生ハウスでの撮影。だが結果は狙い外れでボツ。彼との付き合いが途切れた。

 あたしは同社タレントが多く所属するレコード会社の仕事も請け負って、次第に忙しくなっていった。そんな折、タクシーに乗り込むと運転手がニヤリと振り向いて「〇〇ちゃんだろ」。Aだった。

 田村仁宅で、互いの自宅近くに出没する蛇、大島の黒ヘビ、大島ロッジの話で盛り上がったことがある。彼の息子も伊豆大島暮しとかだった。島滞在の某年某日~「今、港に着いたがジープを貸してくれ」とタムジン。あたしが島で乗っていたのはジムニーで、ジープ所有の某を紹介。以後、彼は某宅に通って多数アーティスト、歌手の撮影を重ねていると聞く。

 もうひとりの「CAMP」メンバーBとは、彼が恐いおニイさん方を撮った写真で「木村伊兵衛賞」受賞後に逢ったと記憶する。彼は受賞したって食えるワケじゃない。写真誌の掲載料はいくらで~など苦しい生活を語った。そんな折に、某企業から同社PR資料バインダーに収める池袋の各事業素のペラ資料の制作を依頼された。Bにギャラを提示しアルバイト撮影を依頼。最初は気持ちよく撮影していたが、突然「お前は俺の名声を利用している」と言い出し、腰を抜かすほど驚いた。彼ともお付き合いはそこで終わった。

 大森大道は彼について「二人とも救いようもないエゴイストであることも似ているが、もしア・プリオリな写真家はどちらかときかれれば、ぼくはためらわずに彼を指すだろう」と記していた。Bは昨年2月、肺がんで74歳で亡くなったらしい。

 そんなことを思い出せば、PR会社時代に某女子社員が、有名記者らが世界取材で撮った写真を預かって売る仕事が大繁盛で、あたしも写真整理を手伝ったことがある。彼女はその後独立して大きな写真エージェントの女社長になった。小生、長年フリーゆえ、多数カメラマンと組み、また有名写真家の撮影現場も拝見してきたが、それらは省略。そ・そう云えばゴールデン街のおミッチャンも写真家だったし、「汀」の渚ようこ&大森大道の絡みもある~とキリがない。

 追記:ソール・ライターは無名・無口・無欲を貫き通したが、「You Yube」で拝見する大森大道、荒木経惟らは隠棲してもいい歳だろうに「なんとまぁ、おしゃべりなことよ」と思った。

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