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散歩の眼の祖は、松尾芭蕉~永井荷風か [散歩日和]

kafu&yumeji.jpg あたしにとって街散歩と云えば永井荷風だった。大正4年(1915)に『日和下駄』(一名東京散策記)を発表。いで立ちは日和下駄と蝙蝠傘。

 彼は子供時分から市中散歩が好きだった。今で云う中学時代は麹町永田町から神田錦町の私立英語学校まで徒歩通学。充分に遠いが荷風少年は、遠廻りして散歩を愉しんだ。家が再び小石川旧宅に戻ると、両国の水練場へ通い出し、下町や大川筋の光景に一方ならぬ興を覚えた。

 昔ながら(江戸)の名所古蹟が日々破却される時勢にあって、表通り裏へまわると、昔の面影を残した暮しがあって、自身の感情に調和する感慨、無常悲哀の寂しい詩興感を覚えた。同じく散歩好きの植草甚一に言わせれば、それは「スクエア」に対する「ヒップ」の眼だと解説する。荷風が江戸戯作者の身に落とし、隠居然の身ゆえの眼が今も人を惹きつける。膨大な日記『断腸亭日乗』もまた、荷風散歩日記でもある。

 裏町に入ると、新時代に取り残されて昔ながらの渡世をしている老人がいて、そんな家の娘の行く末へ想いを馳せる。横町から娘らが清元をさらう江戸音曲の哀調が聞こえる。王道人世から外れた人々の暮らしへの共感で、彼はさらに固陋偏狭な気分に浸って行く。玉ノ井の裏路地で一句「蚊ばしらのくづるゝかたや路地の口」「色町や真昼しづかに猫の恋」 荷風の句には擦過する絵が浮かんでくる。

 同書にはそんな荷風の眼で淫祠、樹、江戸切絵図、寺、水、路地、閑地、坂、夕陽の各章にわけて東京散歩が書かれている。昭和11年の『断腸亭日乗』に「写真機を携え亀戸へ」の記述が続き、翌12年には「名塩君来りカメラ撮影の方法を教へられる」があり、以後「帰宅後写真現像」の記述が繰り返される。yosiwara.jpg それは『墨東奇譚』完成の頃で、私家本には自身撮影の玉の井風景写真に俳句を添えたりしている。

 俳句と云えば松尾芭蕉を忘れてはいけないだろう。全身冴えたアンテナ感知で発句の機を狙っていた。出羽の山中の宿で心のシャッター「蚤虱馬の尿する枕もと」「むざんやな甲の下のきりぎりす」。一茶も同じで美女と擦過して「振向ばはや美女過る柳哉」。西行も同じだ。囲炉裏の残り火に心のシャッター「なべてなき黒き焔の苦しみは夜の思ひの報なるべし」。その眼や心は、路上スナップの写真家と変わらない。

 下町と云えば、目下セクハラ問題多発の荒木経惟(アラーキー)の生家は三ノ輪の下駄屋だった。同地には2千名余の吉原遊女が投げ込まれた「総霊塔」(写真下)があり、荷風はそこに文学碑を設けた。荷風散歩にならって、あたしも浅草~山谷堀を遡って~吉原~三ノ輪~浄閑寺を訪ねたことがあった。

 巨編『荷風と東京』を著わした川本三郎には十余の「街歩き」本がある。散歩書は無数~。彼らの眼と心は写真家と変わらず。「路上スナップ」はなにも特別なことでもなんでもない。

 挿絵上は小生調べで、当時の荷風カメラは昭和8年発売開始の二眼レフ「ローラコード」で、竹久夢二が最初の妻たまき~彦乃~そしてお葉さんの多数ヌード写真を撮った写真機は「パール・コダック」かなと推測したもの。

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