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絵に賭ける夫支える健気妻 [スケッチ・美術系]

suiyoku2_1.jpg<マティス・メモ2> ●マティスはカミールと別れた直後に、23歳アメリー・パレイユに惚れた。前妻が痩身・優美・はかなげだったのに比し、アメリーは豊かな胸・快活さ・情熱的な南部トゥールーズ出身。●28歳で結婚(1898)。新婚旅行は、新妻が夫にターナー作品を見せたいとロンドンへ。そしてマルセイユから船でコルシカ島(イタリア半島付け根の西の海、フランス領)で5カ月。ここでマティスは色彩開花。55点を描く。印象派(後期)へ大きく舵を切って歩み出した。

●1899年、長男ジャン誕生。息子を新妻の故郷に預け、パリで新生活スタート。アメリーは帽子屋開業だが、マティスの絵が売れるはずもない。〝ヒモ〟状態だが、セザンヌ「水浴する三人の女」(1600フランで、ロダンの石膏胸像がおまけ付き)を買った。この絵はマティスが37年間も持ち続けた。「この絵が私を精神的に支えてくれた。私はこの絵から信念と忍耐力をもらった」。

●1900年、30歳で次男ピエール誕生。アメリーは夫に妻子を捨てた闇を見たのだろう、前妻との娘マルグリットを我が子として育てることを決めた。(多くの書がマルグリットをアメリーが産んだ子としている)。帽子屋と三人の子を抱えた妻の励みは〝夫が絵に専念〟。なんと健気な。

●最年長で「アカデミー・カミロ」入学。●1902年、静物画が130フランで売れた。先がちょっと見え始めた時にアメリーの実家に不幸が襲った。(続く)

 カット絵はセザンヌ「三人の浴女」模写。両側の木と地で三角形の構図。特徴は粗い平行筆触。底辺に三人の浴女。裸婦の粗い描写から、裸婦描写より構図主眼の習作だろうか。いや、一連の水浴図の当初は〝覗く男〟が描かれていたから「性」の何らかの意が含まれていようか。セザンヌは水浴図を50点も描き「大水浴図」に発展させている。さて、マティスはこの絵から何を得たか。解説文をいろいろ探せば「マティスはセザンヌの色彩の構築、その後に色彩の単純化、構図の平面化を学んだ」なる記述もあったが、小生の判断は資料を読み進んだ後にしたい。

 セザンヌは印象派から孤高のポスト印象派へ。そして1906年没で翌年「サロン・ドートンヌ」で回顧展が行われている。マティスはこの絵から精神論を言っているようでもあり、ならば同じく法律を勉強しながら絵画に転向した先輩として励みにしていたのじゃないかとも推測されるが~。(続く)


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