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世代越えマティスとピカソの不思議縁 [スケッチ・美術系]

bousi1_1.jpg<マティス・メモ5> ●ピカソのグループは当初〝フォーヴィスム〟を異質の思っていたそうな。●末期結核ながらマティス「裸体の男」などのモデルを務めたゴルベールが、病状悪化で自身が編纂の権威ある美術評論誌執筆が出来ず、若い助手アポリネール(後にローランサンの彼氏。詩「ミラボー橋」、小説「若きドン・ジュアンの冒険」)にマティスの画論を聞き取らせた。アポリネールはこれを卑劣にもライバル誌に発表して前衛美術評論家としてデビュー。(彼はちょっと狡い所がある奴らしく、ローランサン関連書を読んだ時も、そんな記述があったような) 経緯はどうあれ、これによって印象派に次ぐ逞しく激しい革新の波が渦巻くことになった。

●1906年、マティスはアルジェリアに約2週間の取材旅行からコルウールに戻って「青い裸婦、ビスクラの思い出」を描いた。アフリカ美術の影響で、その裸婦は野性味・生命力・逞しさが満ちていた。一方、ピカソ(26歳)もアフリカ美術の影響からキュビスムの原点になる「アヴィニョンの娘たち」(1907年夏)で注目の存在になる。

●スタイン家の夫妻(マイケルとサラ)がマティス作を蒐集し、スタイン兄妹(レオとガードルード)がピカソを応援。またマティスはロシアの繊維業界の雄シチューキンがパトロンになって生活一変。マティスはシチューキンを〝洗濯船〟に案内(1908年、マティス38歳)して「アヴィニョンの娘たち」を見せ、ピカソ作の蒐集も薦めた。かくしてマティス、ピカソ両雄の人気急上昇。

●マティスはモンパルナスの廃修道院に移住して、やっと家族一緒に暮らせるようになった。教室も設けて後輩を指導。だがすぐに自分がグループ・リーダーには向かぬ資質だと認識して教室を閉じることになる。リーダーになるには内省的過ぎたのだろう。彼の声に耳を傾ければ理論的・分析的で明晰なことを言っているのに気付くが、如何せん人を引っ張って行くパワーと魅力がなかった。比してピカソはヤンチャなガキ大将的資質だ。

●それでもマティスはピカソを応援し、若い画家らがサロンに入選し、作品が売れるように尽力した。マティスとピカソの違いについて「マティスは戦火の町で怯え育ち、〝家業を継がぬ・法律の勉強を途中放棄・10年経ても画家として眼が出ぬ〟と嘲笑を浴びてきた。一方ピカソは子供時代から称賛を浴びて育った」と分析される。40歳にならんとするマティスと20代半ばのピカソによる絵画革新のムーブメント。

●ここで両者の違いを自分なりに把握すべく、次回はマティス「青い裸婦、ビスクラの思い出」とピカソ「アヴィニョンの娘たち」から二人の不思議な関係を探ってみる(続く)。●カット絵はフォ―ヴの第一波、マティス「帽子の女(マティス婦人)」の一部簡易模写。


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野獣なら吠えてみようかマティスぞへ [スケッチ・美術系]

mado1_1.jpg<マティス・メモ4> ●1905年、マティス夫妻は南仏コリウール(スペインに隣接)へ。カラフルな果実、ピンクの家、漁師たちの生活。光と色が溢れていた。多数作品をパリに持ち帰った。伝統的手法と手を切った作品群。

●同年サロン・ドートンヌに「コリウールの開かれた窓」「帽子の女(マティス婦人)」そして「日本の着物」「散歩道」を出品。展示された第七室には他にドラン、マルケ、ルオー、ヴァラマンクらの作品。「野獣(フォーブ)の檻」と評され〝フォーヴィスム〟誕生。 

●「帽子の女」が500フランで売れた。点描が消え、よりゴーギャン風へ。これはコリウールにゴーギャン友人のダニエル・ド・モンフレがいて、彼の家でゴーギャン作品群を見たせいらしい。次に顔アップの「マティス婦人の肖像、緑の筋のある女」も大話題。

●1906年「生きる歓び」で点描のシニャックと決別。マティス個展がドリュエ画廊で開催。画商やコレクターが次々と誕生。画商ドリュエが近作まとめて2000フランで購入。ヴォラールが旧作まとめて2200フランで購入。後に経済支援とマティスに野心を与えるロシアの繊維業界の大物セルゲイ・イワノヴィッチも接近。スタイン家が「生きる歓び」を買い、スタイン兄妹を通じて〝洗濯船〟のピカソと知り合う。この時マティス36歳、ピカソ25歳。

●この時期のマティス急評価は、こう説明されている。「1905年:サロン・ドートンヌで人々は嘲りと笑い声を発し/1906年:敬意を払うようになり/1907年:畏敬の念をもって接した」。マティスの絵はコレクターが先を争って求め出す。同年セザンヌ死去。

 カット絵は「コリウールの開かれた窓」の簡易模写。この絵にはスーラの点描とゴーギャンの平塗りがミックスされている。影がない。実景を超えて光と色が溢れている。(続く)


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襲ひ来る事件や誹謗耐へに耐へ [スケッチ・美術系]

otoko1_1.jpg<マティス・メモ3> ●1902年、パリで10年を経ても画家として独立出来ぬ彼に、実家から月100フランの仕送りが絶えた。そして妻の実家パレイル家に大トラブル発生。妻の両親が仕えるアルベール(元司法大臣)が終身年金基金を持ち逃げ(当時のフランスを賑わせた「アルベール事件」)に巻き込まれ、マティスも両親擁護に奔走。

●披露困憊して実家のボアンで静養すれば、地元民は「父の商売を継がない。法律家の勉強を途中放棄。画家としても無能」とバカ扱い。マティスの頑なさ、プライベート侵害へ過剰反応、内省的など人から敬遠気味の印象は、これら辛い体験もあってのこと推測した。

●1903年、息子二人を故郷に残してパリへ。「セザンヌが正しければ、私も正しい」呪文を唱えるように呟きつつ渾身の絵画修行。●「アカデミー・カミロ」入学後、ややして理想教師に出会った。ロダンの助士を務めたブルーデン(代表作「弓をひくヘラクレス」)。彼の彫刻教室で「外見のリアリティではなく内面の感情の表現」の大切さ。「視覚的な単純化」を教えられた。彼の盟友で美術評論家ゴルベール(代表著作「線の倫理」)を裸体モデルに彫刻「奴隷」制作。ゴルベールは末期結核。マティスは死にゆく彼(1907年没)をモデルに3年間で油彩、素描100回余。モデルと画家の真剣勝負。

●1904年、アンデパンダン展に油彩画6点を出品。「卵の静物」が400フランで売れた。次第に画商が注目。同展主催の独立美術協会副会長にしてスーラと共に点描の新印象派画家ポール・シニャックと南仏サントロペで交流。彼の説く点描と、セザンヌの「思いのままの色彩で描く」の両路線に葛藤。だが同時期に携わったゴッホ展準備を通じて「点描」から解放される。独自の道を歩み出し、次第に前衛画家として注目を浴び出したのが35歳。

 カット絵は、死にゆく男をモデルにした「裸体の男―奴隷」の一部模写。マティスはすでに細部単純化を身に付けている。「マティス=女体」イメージだが、最初に取り組んだのが男性裸体だったとは。(続く)


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絵に賭ける夫支える健気妻 [スケッチ・美術系]

suiyoku2_1.jpg<マティス・メモ2> ●マティスはカミールと別れた直後に、23歳アメリー・パレイユに惚れた。前妻が痩身・優美・はかなげだったのに比し、アメリーは豊かな胸・快活さ・情熱的な南部トゥールーズ出身。●28歳で結婚(1898)。新婚旅行は、新妻が夫にターナー作品を見せたいとロンドンへ。そしてマルセイユから船でコルシカ島(イタリア半島付け根の西の海、フランス領)で5カ月。ここでマティスは色彩開花。55点を描く。印象派(後期)へ大きく舵を切って歩み出した。

●1899年、長男ジャン誕生。息子を新妻の故郷に預け、パリで新生活スタート。アメリーは帽子屋開業だが、マティスの絵が売れるはずもない。〝ヒモ〟状態だが、セザンヌ「水浴する三人の女」(1600フランで、ロダンの石膏胸像がおまけ付き)を買った。この絵はマティスが37年間も持ち続けた。「この絵が私を精神的に支えてくれた。私はこの絵から信念と忍耐力をもらった」。

●1900年、30歳で次男ピエール誕生。アメリーは夫に妻子を捨てた闇を見たのだろう、前妻との娘マルグリットを我が子として育てることを決めた。(多くの書がマルグリットをアメリーが産んだ子としている)。帽子屋と三人の子を抱えた妻の励みは〝夫が絵に専念〟。なんと健気な。

●最年長で「アカデミー・カミロ」入学。●1902年、静物画が130フランで売れた。先がちょっと見え始めた時にアメリーの実家に不幸が襲った。(続く)

 カット絵はセザンヌ「三人の浴女」模写。両側の木と地で三角形の構図。特徴は粗い平行筆触。底辺に三人の浴女。裸婦の粗い描写から、裸婦描写より構図主眼の習作だろうか。いや、一連の水浴図の当初は〝覗く男〟が描かれていたから「性」の何らかの意が含まれていようか。セザンヌは水浴図を50点も描き「大水浴図」に発展させている。さて、マティスはこの絵から何を得たか。解説文をいろいろ探せば「マティスはセザンヌの色彩の構築、その後に色彩の単純化、構図の平面化を学んだ」なる記述もあったが、小生の判断は資料を読み進んだ後にしたい。

 セザンヌは印象派から孤高のポスト印象派へ。そして1906年没で翌年「サロン・ドートンヌ」で回顧展が行われている。マティスはこの絵から精神論を言っているようでもあり、ならば同じく法律を勉強しながら絵画に転向した先輩として励みにしていたのじゃないかとも推測されるが~。(続く)


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師と妻子捨てて行かねば革新へ [スケッチ・美術系]

matissehatue1_1.jpg<マティス・メモ1> ●マティスは1869年大晦日、祖母の住む北フランスは織物の町カトーで生まれた。父はパリの百貨店勤めで、帽子屋で働く母と結婚。故郷近くのボアンで雑貨店経営。●1歳、ボアンにドイツ侵攻。●1880年、25歳の五姓田義松は渡仏し、翌年からルーブル美術館で模写開始。この時、マティスはまだ10歳。

●マティス17歳、パリの法律学校で学び、故郷で法律事務所で働くも満足せず。●1889年、徴兵検査不合格。本人は後に腸の病気と言っているが実際はヘルニアだったそうな。●1890年、20歳。1年間の療養中に母から油彩道具を貰う。油彩入門書と多色石版画を参考に最初の絵、題して「本のある静物」を描く。これを機に法律から画家志望。

●21歳、父の反対を説得してパリへ。最初の画塾に失望し、ギュスターヴ・モロー(幻想的作品が多い象徴主義の画家、60歳)の教室へ通う。●モンパルナスで友人と共同生活。帽子屋で働く19歳のモデル・カミーユ(カトリーヌ・ジョブロー)と所帯を持つ。師の勧めでルーブル美術館の古典作品を模写。●24歳、娘マルグリット誕生。翌年、5度目の挑戦で「エコール・デ・ボザール」(国立美術学校)入学。●1896年、国民美術家協会のサロンに5作品出品。「読書する女」が政府買上げ。画家として生きるメドを得る。

●だが、夏滞在のブルターニャ(フランス北西部の半島)の別荘主、ピーター・ラッセルから印象派の「色彩を最優先にし、感情に従って描く」を教えられる。ラッセルはパリの画塾でゴッホ、ロートレック、エミール・ベルナールらと同塾。ロダンのモデルをしていたマリアンヌと結婚していた。時流はすでにポスト印象派の時代。

 これで画風一変。象徴主義モローが怒り、妻も「やっと掴んだ実績(写実の)を捨てるのか」と呆れる。絵画の新たな流れを知ったら、もう元へは戻れない。師と妻子と別れ(捨て)、新たな絵画を模索し始めた。この時、27歳。

 カット絵は、マティス最初の絵「本のある静物」簡易模写。模写しつつ、私事だが小学生の頃に描いた「達磨ストーブ」の絵が、何かのコンクールに入賞し、本人知らぬ間に額装されて上野?かどこかに展示された事を思い出した。それで図に乗って〝画家になりたい〟などと思わずに、本当に良かったと振り返った。朧げながら多色のストーブ絵で、ちょっと印象派風だったような。あの絵は手許に戻らず、どこへ消えたのだろうか。


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裸体にも小難しいぞマティス顔 [スケッチ・美術系]

matisse1_1.jpg<マティス・メモ:まずはじめに> 藤田嗣治はマティスが建てたニースの「ロザリオ礼拝堂」を見て、自分も礼拝堂を建てようと思った。マティスの礼拝堂はステンドグラスが特徴で、藤田の「平和と聖母礼拝堂」には見事なフレスコ画が描かれている。

 マティスは礼拝堂完成から4年後に84歳で亡くなり、藤田は礼拝堂完成から2年後に81歳で亡くなった。マティスはモネより29歳後輩で、ピカソの12歳先輩、藤田の17歳先輩で、1869年12月31日生まれ。

 マティスより11歳後輩の熊倉守一は「ルオーの厚塗りが嫌いで、マティスも嫌いで、ピカソほどわかりやすい絵はない」と言ったとか。1歳違いのピカソとは資質が違うのにピカソの何がわかって、マティスの何が嫌いかは言っていない。寡黙はずるい。

 小生はマティスの絵を見て「いいなぁ」と思った。アンリ・マティスは果たしてどんな人物で、どんな絵を描いた画家なのだろうか。その絵は画集で見ることができるも、その絵の意や人物についてわからない。

 ならば〝安易〟を求めずに分厚い関連書さまざまを読んでみることにした。最初のカット絵はマティス似顔絵。その風貌は、白髭を蓄えた晩年の志賀直哉に似ている。同じく細菌学者パスツールに似ている。色彩鮮やかでエロチックな絵が多いから享楽的・楽天的・助平で下世話な顔がお似合いだろうに、なんでこんなに小難しい顔をしているのだろうか。まぁ、読みつつ私流箇条書きにまとめて行くに従って、その謎が解けるかもしれない。以下、参考にした関連書一覧です。

 460頁もの分厚い評伝、ヒラリー・スパーリング著『マティス~知られざる生涯』(訳本、2012年刊)、ジル・ネレ著「マティス」、「マティスとモデルたち」図録、フランソワーズ・ジロー「マティスとピカソ~芸術家の友情」、メアリー・トンプキンズ・ルイス「セザンヌ」訳本、フォルクマール・エッサ-ス「アンリ・マティス」訳本、ジェームズ・H・ルービン著「印象派」訳本、ネットPDFの大久保恭子「世紀の転換期におけるヌード」他。


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へたも絵のうち=熊谷守一(3) [スケッチ・美術系]

morikazu2_1.jpg 熊谷翁はどんな絵で人気を得たのだろう。今回は前々回に続き「裸婦」「ネコ」を水彩で簡易模写。こんな感じの絵に加え、書と墨絵も売れた。絵は赤い輪郭線をもって幾つかの平塗り色塊で構成。しかも小さい板に描かれ、これを画友らは「天狗(仙人)のおとし板」と言ったそうな。

 画集には、これら絵がいかに優れたデッサンに基づいているかや、輪郭線の狭間・境界について小難しく解説されているが、隠居の絵画趣味(の小生)にとっては、それほどでもない写実力と思った。美術学校前の数点は〝ちゃんと描いている〟が、以後は荒々しい筆跡のフォーヴィズム、キュビズム的油彩と、五姓田義松が遺した風景画ラフ(習作)ばかり。例えばピカソが十代で写実を征服し、その後の写実打破とは大きく違って、熊谷翁は端から細部を描くのが苦手、億劫、ものぐさだったように思えてならない。

 これら絵に至る前のクロッキーも画集にあって「無形なイメージを含む無数の線が次々に塗り潰されて残った線の研ぎ澄まされて~」なぁんて記されるが、小生の感想は普通か下手なクロッキーが、推敲されてまともな線が残されたと思ってしまう。(素人は平気でこんなことが言える。改めて素人っていいなぁです。でも墨画はいい。美術館のカラスの絵は思わず見入って動けなかった)

 「上手は先が見えているが、下手はどうなるかわからないスケールの大きさがある」と言ったとか。二科研究生には下手を奨励、下手に元気を与えたそうな。(これも素人ゆえ言える事だが、二科は芸能人が入選する例からも伺えるがてぇした絵は少ない)。昭和40年、85歳の時の座談会では自身の絵について「写真や医者みたいに細かく見る見方もあるが、自分が絵を描くときは、或る物の明るさがどれだけあるか、或は色でもみんな寄せ集めた色がこれだけあるという風に見ている」と説明。

 画集を見ると、そんな絵を描き始めたのが50代後半からで、最初は風景画や裸体画が多く、次第に身の回りの花や昆虫や猫や鳥を描くようになっている。「簡明な形の面白さ、モダンな色が魅力。時代や流行、世俗を超越」の評価で人気画家へ。

 そんな絵にふさわしいのが寡黙だろう。彼の著作も「聞き書き」。ゆえに彼の絵を論ずると〝愚〟になる。あたしも細部を描かなくなったら寡黙になろう。熊谷守一翁の絵についての隠居お勉強はここまで。


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へたも絵のうち=熊谷守一(2) [スケッチ・美術系]

kumagai3_1.jpg 熊谷守一は明治13年(1880)生まれ。おや、五姓田義松の渡仏年だ。藤田嗣治より6歳先輩。父は製糸工場経営から初代岐阜市長、衆議院議員になった孫六郎。守一は父晩年(45歳)の子。4歳で生母から離され、岐阜市の女工400名を有する製糸工場隣接の元旅館の屋敷へ。妾二人が同居で、彼女らに育てられる。大人等の愛憎や損得の醜い姿を見ながら育つ。

 明治33年に東京美術学校・西洋画科専科入学。黒田清輝や藤島武二らに習う。同期に大島を背景にルネッサンス風肉体美の男が漂流船に立つ「南風」を描いた和田三造、裸の漁師らが獲物を肩に行進する「海の幸」を描いた青木繁ら。熊谷や青木らは黒田清輝と彼の師コランがアカデズム系ゆえに評価せずも、黒田は彼らに自由に描かせたとか。

 熊谷2年の秋に父急逝、破産。熊谷の卒業制作は「自画像」。他は文展に出品拒否された「轢死」、入選の「蝋燭」。暗く重くパッとせず。卒業後は樺太調査隊帯同の絵記録係2年。故郷で日傭(ひよう=切り出した木を川で運ぶ仕事)など。35歳で東京に戻るが「二科」出品の他は描かず、働きもせず。余りの極貧を見かねた友人らの援助で暮す。

 42歳で結婚。次々に子を設けるも、絵を売って生活することを知らず。絵に値が付いて売買されるのも理解できない。極貧ながら多数野鳥を飼い、好きな機械修理やチェロを弾く。45歳、次男が亡くなった時に、思わず亡骸を前に絵筆を握った。感情が筆跡・色に溢れた傑作。

 同年、新宿遊郭裏に「二科研究所」ができ、友人らの計らいで〝主任〟。週一の指導報酬で家賃が払えるようになる。妻が実家から得たお金で現・美術館の地に家を建てるも家財道具なし。植物を育て、虫や鳥と遊ぶ日々。余りの無欲・極貧に、周囲から援助の輪が広がる。個展の手配、コレクター出現。薦められるままに書いた書や墨絵が大好評。帰国中の藤田嗣治とも共同展。58歳にして、初めて絵を売って生活することを覚えた。カット絵はチェロを弾く熊谷翁の写真より。次は彼の絵について。(続く)


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へたも絵のうち=熊谷守一(1) [スケッチ・美術系]

morikazu1_1.jpg にわか絵画趣味の小生は、熊谷守一翁を知らなかった。それは絵画系検索中にYouTube「レオナルド・フジタの晩年」に引っ掛かって、それを食い入るように観ていたら、それが終わると同時に熊谷守一の生前(94歳)映像に切り替わったんだ。

 そんな偶然で知った熊谷翁。調べれば池袋・要町近くに「豊島区立熊谷守一美術館」(豊島区千早町2丁目)があるとか。その辺りは東京大空襲まで「池袋モンパルナス」なるアトリエ村(佐伯祐三や中村彜らのは〝下落合アトリエ村〟)があって芸術家が集まっていたらしい。

 熊谷守一は明治13年の岐阜生まれで、同地に45年間在住。97歳没後は二女の画家・熊谷榧(かや)が私設美術館を設立。2007年に豊島区に守一作品153点を寄贈して現美術館になったそうな。まずは図書館で熊谷翁の画集など3冊を借り、自転車を駆って要小学校裏の同美術館に行った。画集で「尾長」を見たが、「そろそろ美術館はこの辺かしら」と思った数軒手前で〝オナガの群れ〟に遭遇した。

 まずは熊谷守一がどのような絵で有名になったかの、その一例に「尾長」と風景画「氏家桃林」を模写してみた。これらを幾作も模写してみれば、あたしも細部を気にせずに絵が描けるようになるかも知れないと思った。

 細部描写を放棄し、赤い輪郭線で区切った幾つかの色塊で平面構成した作品群。これらはベルナール、ゴーギャンらの「クロワゾニスム」と共通すると思えるがどうだろうか。さて写実・細部描写の域から脱しなかった五姓田義松が、これら絵をもって人気を博した画家がいたと知ったら、腰を抜かさんばかりに驚いたんじゃないかと思った。

 熊谷守一とはどんな人物で、どういう経緯でこういう絵に辿り着いたのだろう。同館で求めた翁の『へたも絵のうち』、大川公一著『無欲越え 熊谷守一評伝』、数冊の画集から〝細部を気にせぬ心〟をちょいと学んでみたいと思った。(続く)


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ピカソや熊谷翁になれなかった義松 [スケッチ・美術系]

moriiti1_1.jpg 五姓田義松展の図録には風景画〝習作〟とされたラフが幾作もあった。それらを見ていてふと閃いた。「彼はここから細部描写に入って行くが〝ものぐさ=熊谷翁〟は、ここから細部無視。幾つかのブロックにまとめた平面塗り構成で仕上げた」と。

 義松には細部を描き込む自信があって、熊谷翁は細部描写が面倒くさいか、書き込むことで曝け出される己が恥ずかしくて〝逃げた〟と思った。この推測が正しいかを検証するために、義松の習作(ラフ)から熊谷守一だったらこう仕上げると模写図を描いてみた。

 これをかかぁに見せると「あらっ、この単純な絵の方がいいわ」と言った。風景画の描き方がこれで良いのなら〝楽〟である。だが、実際はそう単純ではないだろう。ここで若くして写実を極めたピカソの場合も考えてみた。「ピカソ石版展」図版に「二人の裸婦」や「闘牛」が写実から次第に〝飛んでいるピカソ〟になる過程がリトグラフに収められていた。「闘牛」全10点のなか3点を模写。

picasso1_1_1.jpg 最初の写実風の牛から、各支点を結ぶ線が生まれて抽象化され、最後の10作目では一筆書きのような線画になった。同図録解説によると「ピカソはこうして作品を仕上げるのではなく、これら過程は想像力の展開ゆえ〝完成作〟はない。最後の線画は滋養を吸い取られた形骸」だろうと記されていた。これがピカソの〝描くことが生きること〟の意なり。

 これまたよく言われることだが「ピカソは写実的に描くことを十代で征服し(義松と同じ)、後は出来上がったものを次々に破壊する宿命になった」。義松は写実力を得た後の進化・破壊・創造を放棄したために自らの才を朽ちらせてしまったのだろうと考えられる。

 義松が写実からの進化に挑戦していれば、ひょっとして日本の明治にピカソが出現したかもしれない。以上、隠居のてなぐさみ美術のたわごとでした。これにて五姓田義松を終え、次に熊谷守一翁へ移る。


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義松の風景画を模写して [スケッチ・美術系]

fukemosya2_1.jpg 五姓田義松の多数風景画から17歳・明治5年作「横浜根岸相沢村」(10.7×26.2㎝)を簡易模写。風景スケッチのコツが掴めるかもしれないと、チマチマと筆を動かした。それを(左)かかぁに見せれば「あら、いいじゃないの」と言った。

 だが隠す必要もないから告白すれば、風景スケッチになると決まって困惑する。どう描けばいいのかわからない。「水彩画=風景スケッチ」イメージがある。初心者向け水彩教本は概ね風景画だが、「いいなぁ」と思う絵には出会わない。あたしは絵の初心者だが、すでに多数画家の風景画を見ている。

 見たまま細かく正確に描けば写真に近づく。写真を超えた美しいアニメ背景もあり、風景写真にデジタル処理の絵もある。広告向きのイラスト風の風景画。写実力を磨けば超写実画もあろう。いや、短い筆触で印象派のように、または立体を放棄し平面的に描こうか。水平線や遠近法からも解放されて抽象画風に描こうか。いや、そもそも公衆の場に画架を立てるなんぞ恥ずかしい行為があたしに出来るワケもない。

 一方、厳しい自然に分け入って自然の神秘・一瞬の美を求める写真家もいる。月日を要し動物生態を撮る写真家もいる。今や世界の観光写真も溢れ満ちている。写真ではなく〝風景を描く〟ってなんだろう。

 「なにも描かない白が最も美しいんですよ。人間は愚かだから何かを描きたがる」と言ったのは97歳の熊谷守一翁らしい。彼が「スケッチ旅行」でものにする絵は、細部を気にせずに括った数色の平塗り構成で、マティスの風景画にも通じて、これまた〝いい味〟だから、絵を描き始めた隠居の頭はますますこんがらがってしまう。


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義松はなぜ忘れ去られたか? [スケッチ・美術系]

yosimatu7_1.jpg 五姓田義松はワーグマンに6年間師事し、明治4年・16歳で独立。当時の油彩材は高価で、主に鉛筆と水彩で洋画を習得。だがそれらとて輸入品。前回と同じく図録解説に私見を挟めば「日本初の鉛筆工場」が新宿御苑脇にあったことも付け加えたい。

 信州高遠藩主・内藤家屋敷(新宿御苑)の玉藻池と現・内藤町の間に水が流れていた。江戸市中通水に余った玉川上水を流す渋谷川。そこに米搗き水車が四つ。明治20年に「眞崎仁六」が水車一つを借りて日本初の鉛筆工場を作った。大正5年に彼は三菱鉛筆に迎えられ、そこが同社創業の地。そう記された絵入り「鉛筆の碑」が内藤神社脇に人知れず建っている。(下のカット絵参照)

 話を戻す。図録解説には水彩絵具を自作したとある。その詳細も気になるが、義松が洋画習得に心血を注いだ「鉛筆画・水彩画」は他洋画家より優れ、かつ風景画には印象派を知るよしもないが水面の光の揺らぎまで描かれていると説明されている。

 明治10年(22歳)、第1回内国勧業博覧会で洋画家の最高位受賞。翌年に明治天皇の北陸・東海道御巡幸に供奉。23歳で宮内省より依頼の孝明天皇(12年前に崩御)の肖像画を完成(京都に遺された肖像画を参考に、洋紙で裏打ちされた和紙に水彩画)。昭憲皇后肖像画(油彩)も完成。その2年後に高橋由一が例の〝ミカドの肖像=明治天皇〟を描く。

 義松の渡仏は明治13年(1880)25歳。翌年にサロン入選。後に日本洋画界を政治的にもリードする黒田清輝の渡仏はその4年後。彼の「読書」がパリのサロンに入選は、義松入選から10年も後のこと。

enpitukojyo1_1.jpg 義松の渡仏、サロン入選がいかに早かったか。だが西洋絵画の革新はもっと早かった。義松渡仏時に、ドガはもう〝踊り子〟を描いていて、6年前の1874年に印象派第1回展。黒田清輝が帰国して東京美術学校・西洋画科教授になった頃には、モネは早や晩年だった。

 義松は日本で身に付けた洋画をもって本場に挑戦した。その結果、印象派の流れに乗れなかったことで、帰国後は次第に忘れ去られたらしい。では黒田清輝が新しい絵画を学んで帰国したかと言えばそうでもない。彼が師事したコラン先生も伝統的アカデミズムの画家。黒田の代表作「湖畔」はアカデミズムに印象派要素少々の感。

 明治画壇をリードするには、黒田清輝が有していた〝柔軟さ〟と〝政治的気質〟が必要だったような気がしないでもない。似顔絵カットはチラシや図録に掲載「五姓田義松の白黒写真」(帰国後)から勝手着色。ニ枚目に描き過ぎて微妙に似ていないが、どこか頑な感じは出せたか。(続く)


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横浜「五姓田義松展」へ [スケッチ・美術系]

yosimatutiti1_1.jpg テレビ「日曜美術館」で知った神奈川県立歴史博物館「没後100年 五姓田義松~最後の天才」展。図録発売が遅れて10月23日以後とかで、それを待って出かけた。

 最寄り駅「東新宿」(副都心線)に乗れば、東急東横線~みなとみらい線「馬車道」まで直通。同駅から地上へ出れば目の前が「神奈川県立歴史博物館」だった。その旧館が明治37年建立の横浜正金銀行本店。思わず「おぉ、荷風さんの正金銀行じゃないか」と呟いてしまった。永井荷風が同銀行ニューヨーク支店で働き出したのが明治38年。そこからフランス・リヨン支店勤務になった。

 にわか絵画趣味の小生は、学芸員の説明会があれば聴講する。説明は五姓田義松の経歴から始まった。父・弥平治は紀州藩士の子として江戸で生まれ、幕末の状況判断で町絵師になった。初代五姓田芳柳。彼は横浜開港で洋風に似た作風を身に付け、息子を口説いて横浜在住の英国画家ワーグマンの元に入門させた。その時、慶応元年で義松10歳。

 翌年に日本洋画の祖・高橋由一が37歳で入門。明治になると義松は横浜に移住し、絵の修行を本格化。幕末・明治初期の油彩材は輸入品ゆえ、まずは鉛筆と水彩で洋画の勉強。16歳で独立すると、風景画や風俗画を描いて居留地の西洋人に売って一家を養ったとか。時は明治4年頃。彼の鉛筆デッサンを見れば、現・画学生らが当然のように駆使するクロスハッキングが自在に使われ、立体・陰影が描き出されている。

 同展では、義松が遺した膨大な「鉛筆デッサン+水彩』作品が展示されていて、図録はそれらを全収録。水彩で絵を描き始めた小生には理想の教科書・お手本になった。義松は作画中の父の姿を多数スケッチしている。まずはその一枚を模写。当時の絵師はこんな格好で絵を描いていたんですねぇ。(続く)

 ★神奈川県博開館50周年記念プロジェクト 千葉様 コメント返信がケラれて使えませんので、ここで返信です。まずは素敵だった展覧会「五姓田義松展」をありがとうございました。さて、こんなブログがお役に立てればどうぞご自由に使って下さいませ。当方の郵便番号は<000-0000>です。50周年企画頑張って下さい。楽しみにしています。


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永青文庫・春画展の違和感 [スケッチ・美術系]

eiseibunko1_1.jpg 新江戸川公園に自転車を止め、裏山から「永青文庫・春画展」へ。入口の行列は短かったが、中は大混雑だった。春画は女性に人気があるらしく、娘さんから年配女性が大半。カップル客も多く、概ね訳知り顔の女性が会話をリードしていた。

 高齢男性の二人組がいて、お一人は目がご不自由かしら、片方の老人がウヒッヒッと卑猥な感じで連れに説明している。「いいかね、腕の太さ程のマツタケがハマグリの前にニュッと突き出ていてなぁ、ハマグリから汁が滴っているんだ」。こんな調子で延々とやっているものだから、行列は全く動こうとしない。

 カップルのひそひそ会話や、高齢男性らの卑猥な会話が耳に入ってくるのも、押し合いへし合いしつつ展示ケースに顔を押付け合って観ているからだ。屏風に描かれた大春画もあるが、概ね手書きや版画で現物は小さく豆本もある。小生にとっては春画よりそれらに見入る人々の観察の方が断然面白かった。

 春画は「笑い絵」で「枕絵」。誰かが秘かに入手の春画を、仲間らと胸ときめかせつつも人の性の滑稽さを笑い合って愉しんだり、一人こっそり春情昂ぶらせて観るものだろう。だがここでは公衆が押し合いへし合って観る光景が展開で、妙な違和感を覚えた。

 日本人ならば浮世絵(春画を含んでの)の知識は当然だろう。大英博物館の春画展図録は1万余円で、この春画展図録はドカベン型のブ厚い小型版で4千円。まぁ、飛ぶように売れていたが、あたしは微塵も欲しいとは思わなかった。

 実は小生、河出書房新社刊の林美一+リチャード・レイン共同監修の「定本・浮世絵春画名品集成」(定価1600円)を池袋西口広場「古本市」で北斎2冊をはじめ計5冊を各500円で入手済。これはA4版見開き無修正の画集。五冊も観れば他は〝似たり寄ったり〟とわかる。この加熱気味・春画展を、えらく醒めた眼で見たあたしでした。

 カット絵は北斎春画一部を筆で早描き模写。昨夜のテレビ「藤田嗣治」特番を観ていて「あっ、藤田の面相筆が描く乳白色の女の手の線は北斎にそっくりだ」と気が付いた。


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