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世代越えマティスとピカソの不思議縁 [スケッチ・美術系]

bousi1_1.jpg<マティス・メモ5> ●ピカソのグループは当初〝フォーヴィスム〟を異質の思っていたそうな。●末期結核ながらマティス「裸体の男」などのモデルを務めたゴルベールが、病状悪化で自身が編纂の権威ある美術評論誌執筆が出来ず、若い助手アポリネール(後にローランサンの彼氏。詩「ミラボー橋」、小説「若きドン・ジュアンの冒険」)にマティスの画論を聞き取らせた。アポリネールはこれを卑劣にもライバル誌に発表して前衛美術評論家としてデビュー。(彼はちょっと狡い所がある奴らしく、ローランサン関連書を読んだ時も、そんな記述があったような) 経緯はどうあれ、これによって印象派に次ぐ逞しく激しい革新の波が渦巻くことになった。

●1906年、マティスはアルジェリアに約2週間の取材旅行からコルウールに戻って「青い裸婦、ビスクラの思い出」を描いた。アフリカ美術の影響で、その裸婦は野性味・生命力・逞しさが満ちていた。一方、ピカソ(26歳)もアフリカ美術の影響からキュビスムの原点になる「アヴィニョンの娘たち」(1907年夏)で注目の存在になる。

●スタイン家の夫妻(マイケルとサラ)がマティス作を蒐集し、スタイン兄妹(レオとガードルード)がピカソを応援。またマティスはロシアの繊維業界の雄シチューキンがパトロンになって生活一変。マティスはシチューキンを〝洗濯船〟に案内(1908年、マティス38歳)して「アヴィニョンの娘たち」を見せ、ピカソ作の蒐集も薦めた。かくしてマティス、ピカソ両雄の人気急上昇。

●マティスはモンパルナスの廃修道院に移住して、やっと家族一緒に暮らせるようになった。教室も設けて後輩を指導。だがすぐに自分がグループ・リーダーには向かぬ資質だと認識して教室を閉じることになる。リーダーになるには内省的過ぎたのだろう。彼の声に耳を傾ければ理論的・分析的で明晰なことを言っているのに気付くが、如何せん人を引っ張って行くパワーと魅力がなかった。比してピカソはヤンチャなガキ大将的資質だ。

●それでもマティスはピカソを応援し、若い画家らがサロンに入選し、作品が売れるように尽力した。マティスとピカソの違いについて「マティスは戦火の町で怯え育ち、〝家業を継がぬ・法律の勉強を途中放棄・10年経ても画家として眼が出ぬ〟と嘲笑を浴びてきた。一方ピカソは子供時代から称賛を浴びて育った」と分析される。40歳にならんとするマティスと20代半ばのピカソによる絵画革新のムーブメント。

●ここで両者の違いを自分なりに把握すべく、次回はマティス「青い裸婦、ビスクラの思い出」とピカソ「アヴィニョンの娘たち」から二人の不思議な関係を探ってみる(続く)。●カット絵はフォ―ヴの第一波、マティス「帽子の女(マティス婦人)」の一部簡易模写。


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