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ロブスターに手こずる [暮らしの手帖]

homard3_1.jpg 我が家のクリスマスは息子らの好みでステーキで、元旦はカニだそうな。あたしらの両親が健在だった頃の正月は、実家に戻って年に一度の着物姿になってお屠蘇、お節料理、お雑煮だった。あたしの代になって江戸時代からの伝統歳時・習慣・食事を失った。崩壊した。責任重大なり。

 門松もなし。節分はマンション中に響く大声で「鬼は外、福は内」と叫びつつ豆をまいたが、子が独立してから止めた。お盆はマンション廊下で〝迎え火〟を炊いたが、管理人に怒られそうで止めた。今は住民の1/3は異国の方になっている。

 で、今年はクリスマス前の22日に、新聞折り込みチラシで見た「ロブスター」を買って食った。食う前に淡彩スケッチと思ったが、上手く描けずにグリグリ描き込んでしまった。来年は「絵画教室」に通って少しは腕を上げましょうかねぇ。

 さてロブスターは、爺さん婆さんで「あっ痛ぇ、危ない」と絶叫しつつ料理ハサミで格闘。〝あぁ、面倒臭い。二度と喰わねぇ〟と決まった。後で「イオン」サイトに紹介されていたロブスターの裁き方を見た。やはり軍手は必要で、非力な爺・婆では無理だと知った。我ら亡き後の子、孫らはどんな正月を迎えるのだろうか。


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お散歩スケッチ用具を整える [スケッチ・美術系]

kokeisuisai1_1.jpg 寒いが晴天なり。新宿御苑へ散歩と思った。今までは概ねカメラ+望遠レンズ持参だが、コレが次第に重くなった。歳だな。最近のコンデジ進化は著しく、ポケットカメラで600~1200ミリ望遠も可能とか。コンデジカメラに切り替えましょ、と思っていた。

 そんな折に絵を始めたから、今はカメラよりスケッチブックを携帯したくなった。公園で画架を立てるなんてことは恥ずかしくて出来ないから、ポケットからスケッチブックをちょいと取り出しての早描きがいい。最も小さいサイスのスケッチブックは「F0」とか。B6 よりやや大きい142×185㎝ほど。

 「F0」サイズを検索すれば、これにセットのように「携帯固形透明水彩」が絡んで来た。これまた調べればスマフォ程の大きさ(厚みはある)の12色セットあり。これに「水筆ペン」使用ならば筆洗容器・水なしでも彩色できるらしい。

 そこまで調べたら欲しくなった。新宿御苑散歩はやめて新宿世界堂まで歩いた。スケッチブックは「ヴィファールブック中目F0 S20W」を買った。あたしの冬用の小汚いジャンパーのポケットにギリギリ入った。

 次に携帯固形透明水彩絵具。チューブ式「ホルベイン」を使っているから、同メーカーの12色セットを入手。これであたしは自転車だろうがウォーキングだろうが、気が向けばいつでも右ポケットからスケッチブックを、左ポケットから固形水彩絵具が取り出せるようになった。

 後日、準備万端で新宿御苑へ行った。人が多かった。あたしには人前でスケッチするなんてこたぁ~、やはり出来なかった。絵よりまず先に〝図太い神経〟が必要らしい。絵の道は、遥か遠く厳しい。


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いつかは〝海〟のスケッチを~ [スケッチ・美術系]

umi3_1.jpg 小松崎茂の幾冊かを図書館より借りているので、「ゼロ戦」に続いて他に何かを模写してみようと思った。だが人殺しの戦車・戦闘機・軍艦などを描くのは気が進まない。そこで軍艦に描かれた〝海〟部分を模写してみようと思った。

 波は、昨年春に山東京伝『江戸生艶気蒲焼』原文(くずし字)・挿絵(浮世絵)の筆写をした時に、同じ筆ペンで葛飾北斎『神奈川沖浪裏』を模写したことがある。伊豆大島の磯沿いにロッジがあるから〝海・波〟は馴染んでいる。何時間眺めていても、飽きない不思議さがある。

 いずれは波主役のスケッチ(写真では何度も撮った)もするだろうから、小松崎茂の絵を参考に〝海・波〟の描き方にも慣れておこうと思った次第。最初は模写だったが、描いているうちに原画から離れて、勝手に荒れた海になって行った。(波の脈筋を捉えると海が描けるような気がした。今度船に乗ったら、その脈筋を素早いスケッチで捉えてみよう。)

 芝浦~大島間のジェット艇船窓から海を見ていると、こうした波間に海鳥が、時にトビウオが飛び交う光景を観ることができる。写真・動画は別にして、絶え間なく変化する(表情を変える)海・波のスケッチは〝描いても・描いても〟切りが無いだろう。


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ベランダに付けるメジロ餌台 [私の探鳥記]

mejirodai1_1.jpg 今年は12月2日にメジロが来た。例年は繁茂したローズマリーに来るのだが、それは今夏の酷暑で根こそぎ枯れた。何もなくなったベランダの植え込みに来たメジロが「アレッ」と首を傾げて飛び去った。

 かかぁが風邪で寝込んでいたので、その慰みに「ここは一丁メジロを呼んでやろう」と、ミカンを刺すメジロ寄せ台を作った。カマボコ板より大きい平板に、和菓子に付いていた竹ヘラをボンドで付けた。これを手すり上部と平行につけられる着脱式にした。

 メジロが二羽来た。背後を気にしつつ餌を食べていたので、背後を守るべく枝の垣根状を追加した。昼間っからのんびりとメジロを観ているってぇと、改めて〝隠居っていいなぁ〟と思う。ワーカホリック時分は花鳥の名を知らず。今は東京近郊で見られる野鳥は概ね知っている。隠居して花鳥を知り、読みたかった江戸文学も古文書勉強で少しは読めるようになり、今は絵を描き始めている。

 今はまず〝自分が愉しむ〟が第一。いや、世のため・人のために献身しましょうか。どうも、そういう立派なことは出来そうもない。そんなことを呟きつつメジロを見てるってぇと、ミカンの実を食いちぎるのに、綱引きで引きずられるように足をズルズルッと滑らせていた。

mejirodai_1.jpg 「そうか、小鳥の足は枝をしっかり掴むようには出来ているが、平らな板は苦手なんだ」と初めて気付いた。世のためになることは何も出来ないが、せめてメジロが心地よく餌が食えるように平板の上に枝を付けてやろうと、公園に枝拾いに出かけた。


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芭蕉旅立つ千住にて小松崎展 [スケッチ・美術系]

komatuzaki2_1.jpg マティス関連書を読んでいた11月某日、「荒川ふるさと文化館」開催「小松崎茂展」を観に行った。上野京成駅から「千住大橋駅」下車。ここから隅田川を渡ると、そこは芭蕉旅立ちの地(奥の細道矢立初の碑あり)だった。「行春や鳥啼き魚の目に泪」。〝魚の泪〟はそれまで世話になった日本橋魚河岸の鯉屋「杉山杉風」の別れの泪と解釈したい。

 さて同展は小松崎茂の少年雑誌の口絵・挿絵、プラモデル箱絵など。それらは概ね原寸ゆえに、その緻密な描写を知ろうと思えば、顔を近づけての鑑賞になる。だが作品保護でえらく暗い照明。入念に筆触などを鑑賞したかったが叶わなかった。「観終わった後で購う図録でじっくり鑑賞」と思ったが、図録は全作品縮小掲載で目論見は外れた。

 帰宅後、図書館で改めて「ロマンとの遭遇~小松崎茂の世界」(図書刊行会)、「小松崎茂と昭和の絵師たち」(学研刊)、「SFメカニックファンタジー 小松崎茂の世界」(ラピュータ刊)を借りた。氏のプラモデル箱絵「零式艦上戦闘機ゼロ戦52型」を簡易模写。面相筆を動かしつつ、若かった頃を思い出した。

 小生はずっとフリーだが、会社員生活が2社計4年ある。最初の1社目にアクリル絵具でメカニカルイラストを描くフジノ君がいた。エンジン断面図や巨大タンカーなどカタログ用イラストを描いていた。2社目にカット絵のイノちゃんがいた。その後は多くのカメラマンと仕事をしたが、〝絵を描く仕事〟の人との付き合いはこの二人だけだった。彼らはどうしているかなぁと思った。もし彼らがこの零戦模写を見たら「ダメだよ、ゼロ戦はもっとシャープに描かなければ~」と叱責するに違いない。

 追記)戦争中に㈶機械化国防協会が編纂の雑誌「機械化」で戦闘機、戦艦、戦車などを描いていた小松崎茂は、昭和18年の第一回陸軍美術展に「ただ一撃」を出品。陸軍美術協会理事長から賞賛され、それを後年まで自慢していたとか。その理事長こそ、あの藤田嗣治だった。


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娘とリディアに看取られ84歳で没 [スケッチ・美術系]

kirie1_1.jpg<マティス・メモ11ラスト> ●1945年、75歳。「これから装飾をやる」と切り絵コラージュ「ジャズ」に専念。ピカソと共に当時のマティスを訪ねたフランソワーズ・ジローは、こう記している。「彼の滑るような指の動きと切り出される絵に息も出来なかった。凝縮と省略を特徴とする切り絵」。そしてリディアの秘書としての有能さに感心。

●マティスとリディアの関係はまさに一体。他画家らの羨望の的。すでにマティスは妻と最後に会ってから6年余も経ていた。●1947年、生涯最後の油彩画「青いテーブルのある赤い室内」「ザクロのある静物」「ヴェネチアン・レッドの背景とザクロのある静物」。

●この頃になって「フランスが無条件で誇れるのは芸術だけ」と、マティスを国宝級存在にする動き。●1947年、英国にピカソとマティス作品を貸し出す。サロン・ドトーヌはマティスを称える特別室を設置。●1949年、南フランス、コートダジュールのニースの北の山裾、ヴァンス村に礼拝堂造りに着手。ステンドグラスはパリで制作。●1951年、「ロザリオ礼拝堂」完成。●1954年11月3日、娘とリディアに看取られて84歳で没。

●リディアは15年前から用意していたスーツケースを持ってアトリエを去り、代わって妻アメリーがアトリエに入って遺品整理。●シミエの教会で告別式。リディアは呼ばれなかったとか。

 1954年と云えば昭和29年。マティス没の日に東宝「ゴジラ」公開。力道山の活躍でテレビ普及。そんなに昔のことではない。これにてマティスのお勉強はひとまず終わり。最後のカット絵は、車椅子で切り絵をするマティス写真を、万年筆でコピー紙に描いた。

  なお他に読みたい書は「マティス画家のノート」(みすず書院、6480円)、ジェームス・モーガン「マティスを追いかけて」(アスベクト刊、3024円)。後者は60歳を迎える初老夫妻(編集者から作家)が、家を売ってマティス足跡を旅するドキュメント。あたしには家を売ってまでマティスの旅をする程の気持ちはなく、これら本も古本屋で巡り合ったら買いましょ、という程度。晩年マティスの姿を想像すると、なぜか荷風さんの隠棲暮しの方がいいなぁ~と思ってしまった。うん、絵だって荷風さんが「断腸亭日乗」に時々描く程度の絵が描けたらそれでいい、とも思った。


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妻と娘がゲシュタポの手に安否なし [スケッチ・美術系]

musume2_1.jpg<マティス・メモ10> ●1939年、ヒトラー、ポーランド侵攻。フランスは英国に次いで宣戦布告。マティスはリディアに戻ってくれと懇願。裕福な老人画家と若く美しい女の二人暮し。リディアは屋根裏部屋の寝泊まりで一線を画す。

●ヒトラー、フランス侵入。フランス降伏。●戦時下にモデルを40回も使って「夢」を1年かけて完成。(かなり抽象っぽい絵で果たしてモデルが必要だったや?)●1941年、71歳、リヨンで結腸手術。昼夜交代の看護婦を雇い、新しいモデルを何人も雇う。静物画連作で「マグノリアのある静物」。ピカソは「マティスは魔術師だ。超自然の色彩ではないか」(赤い敷物、黄色の貝と花瓶と花、紫と緑の花瓶)●1943年、絵具も入手できず。

●1943年7月、連合軍がイタリアを支配下に。翌日、ドイツ軍がニースに侵入。娘マルグリットが共産党地下組織の密使として活躍。妻アメリーも地下組織から英国諜報部へ渡す報告書を作成。●1944年4月、娘と妻がゲシュタポ(ドイツ秘密国家警察)に逮捕される。マティスはボードレール「悪の華」挿絵を描く。8月24日、パリ解放。

●アメリーはフレンヌの刑務所で6カ月収監。娘マルグリットはレンヌで投獄され、家畜用トラックでドイツのラーフェンスブリュック強制収容所へ送られ、連合軍上陸情報を得んと死に追い込むほどに厳しい尋問を繰り返し受ける。10月初めに釈放。

●ピカソは共産党に入党していたことを公表し、再開されたサロン・ドートンヌはピカソを称賛する場になった。ピカソは政治的発言でさらに人気を高めたが、本物の苦しみをなめたマルグリットは覚めていたとか。●カット絵は、マティスが描いた若い頃の娘マルグリット(先妻の娘)の簡易模写。


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輪になって裸体踊れと軽さ増し [スケッチ・美術系]

dance1_1.jpg <マティス・メモ9> 飽きてきた(マティスも好きじゃなくなってきた)ので端折る。●1909年、パリ郊外イシーに移転。翌年「ジャズ」「音楽」出品。巨大キャンバスに「ダンス」●1911年「茄子のある室内」。後にモダニズム第一歩と言われる。●1912年、夫婦でモロッコへ。

●1913年、米国3大都市で個展。パリで不人気も米国では絶賛。(同年は大正2年、藤田嗣治渡仏)。●パリのアトリエに版画のプレス機導入。●ドイツがフランスに戦線布告。パリから外国人が消えた。イギリスも参戦。イシーのマティス家は陸軍本部として接収され、南仏コリウールへ。

●1915年、戦争画家として前線へ(どんな絵を描いたのだろうか。藤田嗣治はロンドンに避難)。●1916年末に休戦。●1918年「マティスとピカソ二人展」。●1919年、ニースへ。70代後半のルノアールを訪問。ルノアールは最後の力で「浴女たち」完成。マティスはロシアバレエ団の舞台・衣裳を担当。

●1920年、故郷の母死去。(●1922年、藤田嗣治「寝室の裸婦キキ」で一躍人気画家へ)●1923年、娘が結婚。次男はコルシカ島の娘と結婚するも2ヶ月で離婚。先方の父が銃を持ち、次男をNYに逃がす(後にNYの画商として成功)。●1925年(55歳)ドヌール勲章。●1927年、カーネギー国際展でグランプリ。

●1930年、タヒチへ。同年再びカーネギー賞審査のため渡米。ピカソを選出する。●1935年、65歳。24歳リディアをモデル・秘書として雇う。●1936年、パリで10年振り個展をするも〝ピカソの時代〟。「マティスは軽い、軽薄、退廃芸術の典型」などのレッテル。ドイツでもマティス作は退廃にて全美術館から追放。

●1938年、ニースに2部屋購入。ドイツはオーストリア併合しチェコを狙い出す。●妻の主張でリディアを解雇。リディア自殺未遂。●1939年。妻が別居契約書と所持品二等分手続き。 戦争あり、栄誉と不人気の上下動、子らの満足できぬ結婚、リディア解雇と妻の別居。まぁ波乱の30年で、心乱れ乱れたろうに裸婦を描き続けた。


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画家と野鳥 [私の探鳥記]

inko1_1.jpg <マティス・メモ>が飽きてきたのでブレーク。机に向かっているってぇ~と聞き慣れぬ鳥の声。「ハハァ~ン、来たな」。実は数日前にも同じことがあって、ベランダ手すりに見慣れぬ鳥が止まっていた。ガラス窓+網戸越しに写真を撮ったが、それではハッキリしない。

 「また来る」と思って、網戸なしにしておいた。その鳴き声が聞こえて、ガラス戸をそっと開けてベランダに出て撮ったのがこの写真。インコで野鳥的認知されているのは大きな「ワカケホンセイインコ」だが、これは逃げた「飼い鳥インコ」(コザクラインコ?)だろう。常緑樹の緑と赤く染まった紅葉に見事に溶け込んでいる。

 ここは新宿大久保。背伸びすれば歌舞伎町が見える地のマンション7Fだが、実に多くの野鳥が飛んでくる。先日はオオタカ〝幼鳥〟(それはチョウゲンボウと指摘されたが、オオタカの幼鳥にも同じような縦斑あり)が、前の建物換気函に止っていた。

 概ね双眼鏡や望遠レンズで観る・撮るが、我家ベランダまで飛んで来るのはスズメ、ヒヨドリ、カラス、メジロ。それにインコが加わったってことになる。マンション管理人は白い鳥も極彩色の鳥も飛んで来ると言うが、鳥は撮らなきゃ証拠にならない。

 先日記した画家・熊谷守一翁は極貧で食い物もないってぇのに、20数種の野鳥を飼っていた。故郷の知人がカスミ網で獲った野鳥で、金なし暇ありゆえ自作鳥籠を作って縁側にズラッと並べてクロジ、アオジ、ヤマバト、イスカ、アカウソ、クロウソ、ジュウナイスズメ、ベニマシコ、カワラヒワ、イカルを飼っていたと自著に記していた。

 マティス晩年のアトリエは熱帯植物園みたいで、観葉植物と鳥がいっぱいだったとか。野鳥は多い時で300羽とか(ホントかいなぁ。美術書は余り信用できない)。そう云えば私は未だ鳥を一度も描いていない。コザクラインコはこの冬を乗り越えられるのだろうか。スズメの群れと一緒にいて、飛ぶのも達者だった。


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華麗なるマティスのモデル遍歴 [スケッチ・美術系]

model1_1.jpg<マティス・メモ8> マティスは妻も娘も裸体モデルにすれば、マティス家には常に家族同然で暮すモデルがいた。だが彼は常に妻の夫、子らの父だった。一方、ピカソは好きになれば抱きたい。結果妻二人・恋人五人。だが彼女らに全裸ポーズをとらせて描くなぁ~んてこたぁなかった。

●ピカソの恋人フランソワーズ・ジロー著「マティスとピカソ」には両巨匠のアニマ、アニムスを分析。マティスにはマザーコンプレックスがあったらしい。以下はマティスの主なモデル遍歴。ここから画集を見れば、制作年からどのモデルを描いたかがわかる。他にも〝何か〟が見えてくる。

●1910年頃、画家とモデル・メルソンの関係に、妻アメリー不快感で夫婦間に溝。妻最後の「マティス婦人の肖像」。●1916年、イタリア女性ロレッタ。阿吽の呼吸。描くこと50回。長男ジャンが彼女と結婚したいと言うも招集令状で結婚に至らず。●1919年、49歳の時のモデルは19歳アルノー。打てば響く知性あり。2年間、彼女を描き続ける。

●1921年、アンリエット・ダリカレールと出会う。ダンサーでヴァイオリンも弾き絵の才もあり。(1926年にアンデパンダン展出品で1点買上げ)。7年間続く。●1927年、17歳のリゼットがモデルに。●1935年から24歳のリディアを雇う。黒髪、青い眼、妻の付き人、マティスのモデル、秘書もこなした。

●1938年、リディアに嫉妬したか、妻の主張でリディア解雇。彼女は自殺も図るが一命を保つ。マティスが請うてリディア復帰。●1939年、妻が別居契約書作成。所持品二等分。●1954年11月3日、娘とリディアに看取られた84歳で没。

●リディアは15年前から用意してあったスーツケースを携えてアトリエを去り、その後に妻が入って遺品整理。他にマティスのモデル数知れず。全裸体モデルで、舐めるほど近づいて描いたマティス。彼の〝男〟はどうなっていたんだろう。あの小難しい顔は、内なる欲望を抑圧し続けたゆえでもあり、と思えてきた。小生はなんだかピカソの方が好きになってきた。

●カット絵はリディアを描いた「夢」の簡易模写。広角レンズっぽい微妙なデフォルメがいい。舐めるほど近寄って描いているゾ、「あぁ、舐めたい」とマティスが言っている。舐めりゃいいのにね。


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裸婦描き原初探りて明日を見ゆ [スケッチ・美術系]

model2_1.jpg<マティス・メモ7> セザンヌ、マティス、ピカソのトライアングルに絡む〝性〟の意を解明する隠居遊びです。

●そもそもセザンヌはなぜに「売春婦たち」(1871年頃)を描いたや。当時のパリは荒廃して淫らな性が氾濫。子供時分からの友人ゾラは、堕ちる女たちを書いたことから(永井荷風も最初はゾラに影響されていた)、セザンヌの関心も頷ける。だが女たちは虐げられ堕ちた後は反逆する、従属する女から雌豹となり、性を武器に攻撃に転ずる。オズオズと覗き見する男たち。そんな図を描けば当然ながらアカデミズム絵画への、キリスト教影響下の絵画への反逆になる。同作は高らかに絵画の革新・反逆の狼煙だったと推測したい。

●「売春婦たち」から35年後、今度はマティスが1906年のアンデパンダン展に、北アフリカから戻って描いた「青い裸婦」を出品。「極端に歪んで、驚くほど醜いく、不快で最低だ」と悪評。してやったり。彼はアフリカ美術注目で、女の原初的な性(出産・繁栄・母)の逞しさ・野生・生命力に気が付いた。アカデミズム絵画の女性像の裏側の真実をアピールして、絵画革新の道もここにありと訴えた。●彼はフォーヴィスム数年にして裸体へ舵を切った。「私が惹かれるのは静物でも風景でもなく人体です」。平たく言えば「女体宣言」。

●ピカソは、マティスと違って女にポーズをとらせた絵は描かなかった。だが、いい女がいれば抱きたい。結果、妻二人・恋人五人の修羅場で、女の怖さ・強さをイヤと云うほど知った。これまたアカデミズム絵画に描かれる女性像の裏を見た。伝統を拒否するならば遠近法も写実法も糞くらえ。かくしてセザンヌ「売春婦たち」を剽窃してキュビスムの狼煙を上げた。裸体ポーズを描かなかったピカソだが、死ぬまでエロスを描き続けた。

●これにて隠居遊びのセザンヌ「売春婦たち」、マティス「青い裸婦」、ピカソ「アヴィニョンの娘たち」のトライアングルの裏に秘められた意図解明を終わる。カット絵はマティスとモデル。こんなに近寄って描くなんて、どこか変、病気っぽいのです。(続く)


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セザンヌとマティスとピカソの関係や [スケッチ・美術系]

katateage2_1.jpg <マティス・メモ6> ●ピカソのキュビスム原点作「アヴィニョンの娘たち」(1907年)には、アフリカ美術の影響があって、彼のそこへの関心経緯に二説ある。

●まずマティスがアルジェリア旅行でアフリカ美術へ興味を持ち、スタイン家でピカソに会う時に小さなアフリカ彫刻を持参。するとピカソは、その彫刻が気に入って手放さなかった。もう一説は、マティスがアフリカ彫刻のことをドランに話し、ドランが熱をあげてピカソを民族博物館へ連れて行って、ピカソも夢中になった。

●いずれにせよピカソはアフリカ美術にヒントを得て「アヴィニョンの娘たち」を描いた。遠近法を無視して、立体を平面化して分解・再構成。キュビスムの意図は別にして、同作はマティス「青い裸婦~ビスクラの思い出」の横寝の女を縦にすれば同じポーズになる。

●また同作は、セザンヌ「売春婦たち」の女性ポーズにも似ていると言われる。「アヴィニョンの娘たち」のアヴィニョンは、バルセロナのアヴィニョン通り=売春通り。セザンヌ同作と無縁であろうはずもない。

●マティスが極貧時代に大枚を投じて購い、30年余も持っていたセザンヌ「3人の水浴の女たち」は、「売春婦たち」に端を発したシリーズで「水浴を覗く男達」(池田満寿夫はよく〝覗く男〟らを描いていた)を経た作品。ここからセザンヌ・マティス・ピカソのトライアングルが、見えない糸で繋がっていると推測される。

●マティスは彫刻「横たわる裸婦」を二度も作っている。最初は歪み切った裸婦。時を経て写実的な裸婦を作った。最晩年83歳の「青い裸婦Ⅱ」になると、模様化された感じ。セザンヌの水浴シリーズも晩年の「大水浴図」になると裸像群が自然に溶け込んでいる。

●カット絵は、マティス「青い裸婦~ビスクラの思い出」、ピカソ「アヴィニョンの娘たち」、マティス最晩年の「青い裸婦Ⅱ」の一部簡易模写。次はセザンヌ「売春婦たち」も加え、それら作品群の裏に秘められた謎を解いてみたい。(続く)


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