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浦沢直樹:描いて描いて描きまくる [スケッチ・美術系]

urasawa1_1.jpg 世田谷文学館「浦沢直樹展~描いて描いて描きまくる」へ。同館へは昨年の「植草甚一展」へ行った。小生には〝漫画体験〟がない。かかぁは若い時分に「ガロ」を読み、結婚当初は「マーガレット」を買っていた。

 過日、息子の家のトイレに入ったら「パタリロ」の魔夜峰央「翔んで埼玉」あり。読み始めたら「お爺さん、倒れたんですか」と息子嫁の声でトイレから出た。そう、息子が子供時分に漫画単行本を揃えてい、それらをちょい読みしたことがあった。

 昨年、偶然観たテレビ「漫研」に釘付けになった。同番組は浦沢直樹が人気漫画家の仕事場を訪ね、漫画誕生の秘密を探る内容。彼らの線画の妙に感心した。かつ同番組に満ちる熱気に惹き込まれた。今どき、これほど熱く仕事をしている人々は珍しい。

 かくして「浦沢直樹展」へ。彼は長編連載漫画大ヒット作家。そのなか「YAWARA!]と「MASTERキートン」は息子の書棚からちょい見した記憶がある。同展ガイド本購入。12時間のロングインタビュー収録。5歳で漫画を模写。小2からコマ割り漫画を描き始めた。「オタク」と思いきや小学3~6年は学級委員。中学は陸上部でギターも覚えた。高校は軽音楽部。大学は経済学部でバンド活動。小学館採用試験ついでに編集部へ漫画原稿持ち込み。これが同社新人コミック大賞入選でプロ漫画家へ。以来ヒット街道まっしぐら。単行本149冊。

 同書には、画塾でデッサンをしたなぁ~んてことは一言も語っていない。5歳からの漫画模写・創作であの画力を得たらしい。壁面一杯の下書きから完成原稿展示は圧巻も、一点絵を額装の「ギャラリー」コーナーは特別な感動なし。漫画はタブローではなく、コマ割り(物語展開の構成・演出)で読ませるものゆえだろう。

 人気漫画家ゆえ会場は平日でも満員かと思ったが、入場者はパラパラで拍子抜け。帰宅後に漫画好きの方々のブログを拝見したら彼の漫画には賛否さまざまな意見。漫画家も多い。さらに今の若者は皆さんが評論家で、かつての少年らが漫画に夢を託したような状況ではもないらしい。

 先日、出版業界データが発表された。出版物は20年前の40%減。漫画単行本は横ばいも、漫画雑誌は激減。世界に誇る日本漫画の明日は大丈夫かしらと心配した。一世を風靡した「大友克洋」は漫画のペンを置いたとか。浦沢直樹はこれからも「描いて描いて描きまくる」のだろうか。これを機に、漫画にも注目してみようか。だが漫画は図書館にはない。えっ「漫画喫茶」「スマホマンガ」?。あたしには未知の世界がまだまだありそう。カット絵は同展チラシ写真から。少しは似ているかなぁ。


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ピカソ:描いて描いて描きまくった [スケッチ・美術系]

picasso152_1.jpg 絵を描き始めて水彩画入門書を読み、併せて十数名の内外画家の関連書を読んできた。だがその先へ進めない。図書館の「美術系棚」には入門書・鑑賞ガイド本・画集の他は僅少。読みたい本がない。画家らは「描いても書かない」らしい。画家には文章を書けない人が多い。それは失礼ゆえ彼らは「文章以上の世界に棲んでいる」と解釈した。

 そんなワケで余りに厚い(5㎝)ので敬遠していた『ピカソⅠ 神童1881~1906』(ジョン・リチャードソン著の翻訳評伝書)を手に取った。少年期の記述に「描いて描いて描きまくった」という文あり。画家にはそんな時期があるのだろう。

 「描いて描いて描きまくった」と呟いていたら、世田谷文学館で「浦沢直樹展 描いて描いて描きまくる」開催中を知った。美術館ではなく文学館開催がミソか。ちなみに世田谷美術館では何をやっているかと調べたら、ピカソに鉄彫刻を教えた「フリオ・ゴンサレス展」。ついでに雑誌「美術手帳」を見れば、画家ではなく同じく漫画家・浦沢直樹特集だった。

 漫画に押されて、日本現代絵画はどこに行ったやら。素人なりに推測すると、かつて絵描きらを支えていた「パトロン」は死語に近く、「画家と画商」の関係も旧態依然の感じ。今の絵描きらは、どんなシステムで絵を換金しているのだろう。純粋絵画(ファインアート)ゆえ、極貧生活に耐えつつ絵筆を握っているのだろうか。

 過日観たテレビで、某新人画家の絵が上海だったかのアジアンオークションで初めて値が付くシーンが紹介されていた。脳裏に「中国バブル」や「資本主義の終焉」やらの言葉が浮かんで来た。なんだか曖昧で胡散臭い感じもした。一方、漫画家は原稿料や単行本印税で、それはそれでハッキリしている。

 浦沢直樹は5歳から漫画模写を始めて、たぶん画塾でデッサンもせずに経済学部卒業と同時に人気漫画家一直線らしい。同じく「描いて描いて描きまくった」ピカソは、15歳でデッサンを極め、早や娼家に出入りし、修道院より依頼の宗教画を売ったらしい。

 以上、純粋絵画と漫画、デッサン力と漫画の画力、出版業界と画商やオークションなど諸テーマ〝ちゃんぷる〟で記した。カット絵は15歳のピカソ。微妙に似ていない。どこかの線をちょっと直すと似るのだが、どこを直せばいいのか分からなかった。


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植草甚一と谷岡ヤスジのヘタウマ [スケッチ・美術系]

uegusayasuji_1.jpg 北斎の足を模写しつつ、ピカソ「足」のデッサンを思った。ピカソは美術教師の父の元、14歳でデッサンを極めたとか。「絵の基礎はデッサン」は常套句。これは「ゴルフの基礎はスウィング」に似ている。一流ゴルファーも子供時分からクラブを握って10代でシングルへ。他スポーツや器楽演奏でも幼児教育が肝心。カラオケ番組を観ているとプロ歌手より上手な子らも登場する。

 それら子の技に舌を巻くも、彼らに魅力は感じない。概して優等生にも同じ感がある。だが絵には他分野にはない「ヘタウマ」が存在する。「ヘタウマ」系の人は「ヘタ」ゆえに〝人間味〟があるのか、文章面やキャラクター面でも人気者が多い。

 例えばあの蛭子さんは「絵がヘタ」と言われると、決まって「上手になるよう努力はしているんですがねぇ」と言うが、真っ赤なウソだ。上手に描いたら蛭子さんの絵ではなくなる。「ヘタウマ」の人は〝より上手に描きたい〟という自然な欲求を絶った「諦観の達人」のような気もする。

 「ヘタウマ」元祖の一人に谷岡ヤスジがいた。小生は1970年に某PR誌で「植草甚一氏と谷岡ヤスジ氏」に対談していただいた。こう記して時代確認をネットですれば、なんとその4年後の1974年の植草甚一編集「ワンダーランド」改め「宝島」2月号(B4変型の第6号休刊告知号)表紙を谷岡ヤスジ氏が描いていて、ちょっと驚いた。あれから二人の交流が続いていたんだ。

 その休刊号の古本は、今でもネットで買えるが、小生の企画・編集でお二人に対談していただいたPR誌はもう探しようもない。あの時、二人は「ヘタウマ」の楽しさ、境地を語り合っていたような気もするが、天国に行かないと確かなことはわからない。


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北斎の足に伺う江戸暮し [北斎・広重・江漢他]

hokusaiasi1_1.jpg 「手」を描いたら「足」も描かねば〝片手落ち〟。日常で女の素足を見るは滅多にない。概ね「靴や靴下」。だが足を描く勉強は、やはり素足だろう。

 今回も北斎の足を模写。また気付いたことがあった。北斎の女の手はえらく艶っぽいのに、足は男女の区別がない。男女混合で足の模写をして、どれが女の足かわからない。(歌麿の女の足は、手と同じくぽっちゃり描かれている)

 江戸時代の女の下肢を想像する。襦袢から覗く太腿や脛が白く、筋肉質でなければ、それだけで艶っぽい。だが足には生活が拭えない。素足と足袋と草履と下駄。よく歩いただろう。外反母趾はなかっただろうが「タコ・ひび割れ・しもやけ・硬質化・鼻緒擦れ~」。娘時分のふっくら・つやつやな足の維持は、湯屋で踵を〝ぬか袋〟で磨く程度では叶わない。

 だが絵はフィクションぞ。北斎は何故に艶っぽい足を描かなかったのだろう。「北斎の足」をネット検索すれば「6本指」の考察はあるも、何故に艶っぽく描かなかったか」の疑問はない。以前、浅草寺の大絵馬寺宝展を観た。「この絵は足の描き方(デッサン)がおかしいと、若い絵師等がわざわざ観に来ました」と解説された大絵馬があった。足は手に比して描くのが難しい。

 足の部位各称を調べたがハッキリしない。例えば足裏の親指・小指付け根と土踏まずの間のぷっくりした部分。小指に続く外側、親指に続く内側など、説明者によって名が異なる。谷崎潤一郎はなぜに〝足フェチ〟で、足のどこが良かったのだろう。

 私事だが、、足に痺れを感じて病院へ行った。MRI検査で老化による「脊柱狭窄症」と判断された。また歩くと外側足根少球?がチクチク痛む時がある。そう医者に訴えたが無視された。かつてウォーキングのし過ぎで踵が痛めた。友人も同症状ゆえ弊ブログに記した。だがテレビでは執拗に〝爪先を上げて踵から着地を〟を繰り返す。何年も経って、やっと〝踵の痛み〟が注目され始めた。足は描くに難しく、整形外科の足も遅れているような。


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北斎の描く手の艶あやし春 [北斎・広重・江漢他]

hokusaite3_1.jpg 絵を描こうと思わなかった一昨年の秋、暇にあかせて筆ペンで「手」を描いたことがある。改めて「手」を描いてみた。漫画家は数千・数万と手を描く訓練を経て、漫画原稿を書く時は実際の手を見ることなくスラスラと描くんだろうな。

 あたしのように20回ほどしか手を描いただけでは、お話にもならぬ。だが浮世絵の手の模写を数回した後で、藤田嗣治の乳白色の裸体画を見た時に「あっ、浮世絵の手だ」と気が付いた。ってことは数回でもやらないより、やった方がいい。

 画狂人が描く女の手を模写した。さすが北斎。その手の艶っぽさよ。だが彼だけではなく、浮世絵の美人画の多くが同じように描かれていた。ポイントは小指球(しょうしきゅう)、母指球(ぼしきゅう)、指腹部、甲をふっくらと描くことで、女っぽい柔らかさ、艶っぽさを表わしていた。

 ついでに手の構造・部位名もお勉強。先日の鳥の絵の際に勉強した「尺骨・撓骨」も登場。さらに技法的試みもした。水彩の白を塗った地に「墨+面相筆」は艶やかな質感が出た。水彩紙に直に「墨+面相筆」は墨が掠れ気味で枯れた感じ。耐水性ボールペンはスラスラと描けて、やはり便利だなぁと思った。だが鉛筆あたりを消そうと消しゴムをあてたら、インクが擦れた。そしてプラチナ・カーボンインクを入れた万年筆で描いたら、その直後に消しゴムを強く擦っても黒インクはビクともしなかった。

 これで我が生涯「手」を3~40回ほど描いたことになる。数千・数万の域には到底辿り着けない。死ぬまで隠居の〝手慰み〟です。


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小松崎茂と藤田嗣治、池田大作や [スケッチ・美術系]

komatuzaki5_1.jpg 昨年末に小松崎茂が描く零戦や戦艦の〝海〟を模写アップ。その時は画集参考だが、今年は評伝『異能の画家 小松崎茂』(根本圭助著)を読んだ。面白かった個所をメモ。

●映画館でクロッキー:昭和10年、20歳。挿絵画家を目指した彼は、映画「油地獄お艶殺し」他を手許も見えぬ映画館内で毛筆クロッキー訓練。凄い努力です。●クロッキー会:音羽町の瀬戸物屋二階を岩田専太郎がお金を出して若手挿絵画家のクロッキー会場にした。後に挿絵画家として大活躍する青年らが集っていた。皆さん、しっかり腕を磨いていた。

●藤田嗣治は偉かった:小松崎は昭和17年、日本橋三越で開催「陸軍美術」に『ただ一撃』(50号油彩。敵機を追撃の隼)を出品。藤田嗣治が同美術理事長で「よく描けている」とほめた。後日の陸軍美術主催スケッチ会に出席すると当時の大画家らが勢揃い。モデルは麻布三連隊の重装備兵士。宮本三郎がくわえ煙草でスケッチをすれば、藤田「宮本君、煙草を消しなさい」に宮本「ハイ」。日本画家がモデルを写真に撮れば「君は写真屋か。絵描きは絵を描きなさい」。それほど藤田嗣治は偉かった。

●長者番付の画家の部で第2位:30歳、終戦。戦意高揚作を描いてきた彼はGHQに睨まれていると、出版界に戻るのをためらった。再び仕事復帰すればまた大人気。三日徹夜で仕事をこなす。編集者らも泊まり込みで原稿待ち。そのなかに日本正学館発行「冒険少年」あり。社長は戸田城聖で青年を伴っていた。彼の名は池田大作。

●もうひとつの戦中戦後史:評伝だが、上記例からも伺える通り、彼が出会った人々の多彩さ。東京大空襲の体験記や復興の姿。同書は挿絵史でもあり、さらにもうひとつの戦中戦後史。「松岡正剛の千夜千冊」にも取り上げられていた。読み応え充分です。●なお小生は「小松崎茂の絵に夢中になった世代」よりやや下の世代で、プラモデル趣味なしゆえ、彼の絵は完全スル―だった。


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新春に黒の遍歴定まりぬ [スケッチ・美術系]

carbon2_1.jpg 図書館でかつて借りた本を、また借りてしまった。印象少なくも興味あるテーマゆえに再び手が出たのだろう。山田浩一著『楽しい万年筆画入門』。

 同書で万年筆の黒インクで水彩にも使える(その上から彩色しても滲まない)顔料インクがあると知った。セーラ―「ナノインク・極黒」とプラチナ「カーボンインク・ブラック」。後者は使わぬと固ってオーバーホールが大変だとあった。

 それを読んで、今までのパイロット「色彩雫・竹炭」からセーラー「極黒」に入れ替えた。「よし、これで万年筆で絵を描こう」と喜び勇んで水彩を乗せれば「アァ~」って感じで黒が滲み出て線は墨ボカシに、色は黒の混色へ。「なぁ~んだ、ダメじゃん」。

 それで「万年筆+水彩」を諦め、以後は耐水性ボールペンを多数試みたが、まだ〝お気に入りペン〟は決まっていない。万年筆はふと思い立って、ン十年振りに持った。安価な「ラミーサファリ」を3本。通常の文字書きに「パイロット・ブルー」を、校正用赤に「色彩雫・躑躅」を、そして3本目のサファリは黒インク「竹炭」から「極黒」に替えたが前述通りで使用頻度が減った。

 だが黒インクを入れたサファリは、ペン先がひっかかるので砥石で何度も砥ぐなど手を入れて愛着もある。再び『楽しい万年筆画入門』を手にしたのを機に、今度は本に頼らずにネットで調べた。案の定「〝極黒〟は滲みます」と断言のサイトがあり。一方「プラチナ・カーボン」はマメに使う、キャップを忘れないに留意して使っている方々がいた。しかも「専用クリーナーセット」までちゃんと発売されているのを知った。

 あたしの万年筆は安物ゆえダメになっても惜しくない。早速「カーボンインク」に入れ替えた。1年も経ずに黒インクは「竹炭~極黒~カーボンインク」への遍歴也。カット絵の左二つのインク瓶を「極黒」で描いた。やはり滲む。文字の上に水彩を乗せると黒が滲んで汚くなっている。比して右の「プラチナ・カーボンインク」は微塵も滲まぬ頼もしさ。なんだか良さそうなので、細字のサファリをもう1本欲しくなってきた。

 追記)後日アップするが北斎の手を面相筆、耐水性ボールペン、カーボンインクで模写した。この際、ボールペンは後で鉛筆あたりを消しゴムで消そうとしたらインクがすれた。一方「カーボンインク」は描いた直後に消しゴムを強く当てたがそんなこともなかった。よほど速乾性・定着性共に優れているとわかった。そして4本目のサファリを買ってしまった。インクは別にしてサファリ外装色は黒・青・赤・黄。お爺ながら4本の色違いサファリを見てニヤニヤ。愉しい。


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申年や読むな記すな描くなとて [読書・言葉備忘録]

tosyokan1_1.jpg 昨年末に図書館で借りた本を返却し、また新たに5冊を借りている。本を借りると題名・番号・返却日が記載の〝貸出票〟が発行される。あたしはコレを机脇に重ね貼って、返却日確認と読んだ本の記録にしている。昨年分の約20枚が貼られていた。1回平均5冊で約100冊。過日、コレをガバッと剥がして今年の1枚目を貼った。

 昨年の読書を簡単に振り返る。今年頭はスズメが描けずに悶々としたが、昨年初めは「メジロの季が夏」に疑問を持って「季語とは」の関連書を幾冊も読んだ。次に横井也有『鶉衣』原文解読・筆写。古典文学書と大学のデータベースを活用。また政経怪しく、珍しく政治経済の関連書を幾冊も読んだ。

 そのうちに絵を描くようになって、図書館から水彩画入門書を借りまくった。これまた初めて画集や画家らの評伝書を次々に読んだ。たったそれだけで全109冊+購入本。徒歩圏内に新宿の中央図書館、戸山図書館、大久保図書館がある。自転車に乗って四谷、鶴巻、北新宿、中町、角筈の各図書館へ行く。これほど図書館に恵まれた地はないだろう。

 さて、今年はどんな事に興味を持つだろうか。成り行き任せだが、今年はすでに4冊読了。その中に山田雅夫『スケッチは3分』があったので、ガバッと剥がした貸出票の束を1分で描いた。


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水仙や芽吹け伸びろと腰伸ばし [花と昆虫]

suisen2_1.jpg 昨年末、プランター二つに水仙の球根を各十個ずつ植えた。以来、ベランダに座り込んで、虫眼鏡で土からの芽吹きを今か今かと探した。今は球根の数だけしっかりと伸び始めている。一度座り込むと、立ち上るのに「ヨイショ」の掛け声で錆び付いた足腰に気合を入れる。立ったら痛い腰をそっと伸ばしてみる。歳だな。<水仙や芽吹け伸びろと腰伸ばし>。季重ねだが、まぁいい。

 球根包装紙に「ミックス」とあった。植えた時期が遅かったから、春になったら白や黄色の花が咲くかもしれない。こんな観察が、隠居のささやかな歓び・愉しみ。もしこれが、宝籤で何億円でも当たっていたら、この「ささやかな愉しみ」なんぞはどこかに吹き飛んでいただろう。あぁ、今年も貧乏隠居で「ドンマイ・ドンマイ」と痩せ我慢。宝籤は1万円で300円が2枚当たった。


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雀らを見つめ覚えてクロッキー [私の探鳥記]

uzumesokusya1_1.jpg 動く対象を描くのは神技だな。ヌードクロッキーは3分や10分の静止体を描くそうで、ゆっくり動く人体を描くのが〝ムービング〟とか。さて、スズメは片時もジッとしていない。これでは写生もクロッキーもできるワケがない。北斎はいかにスズメを写生したのだろう。

 動くスズメを写生できぬ小生は、こんな法を考えた。撮った写真を数分しっかりと観る。頭に叩き込んだら写真から眼を外し、記憶像が脳裏から消えぬ前に素早く描いてみる。脚や翼の構造も多少勉強したので頭に入ってい、それが手助けになろう。面白そうだからやってみた。15分ほどで7羽のスズメを描いた。

 先日、動画ネット「アニメーター講座」なるを見た。「まずは模写が大事」と説明。模写は「正確さ」が大事。模写するってぇのは作者との対話、歴史に触れることにもなる。「正確な模写」ができたら、省略することで「スピード」も可能になる。早描きも可能になると説明していた。

 新年早々、スズメが描けなかったことで、スズメ描きに執着してしまった。これがスズメだったからいいので、「人」ならば骨格、関節、筋肉も複雑無数で描けたものじゃない。人体をサッと描く。それはもうプロ領域だろう。スズメの〝欣喜雀躍〟を描き終えて、やっと年明け気分。だが世の中は雀躍気分とは逆で、さらに嫌な感じ。日本や世界の少年・若者らが夢を持てる社会になりますように。


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動かずに居れよと願ふ老ひの筆 [私の探鳥記]

yokosuzume1_1.jpg 小林重三もスズメを描いた。遡れば浮世絵師らもスズメを描いた。「北斎漫画」にスズメのスケッチがある。彼らはどうやって飛ぶ鳥をイキイキと、かつ正確に描けたのだろうか。望遠レンズや高速シャッターで撮った映像ならば容易にその姿を捉えられようが~。

 彼らはまず先達らが描き遺した図を見た(学習・模写)だろう。飼い鳥、標本、死骸を手にとって観察しスケッチをした。そして野に出て、ふわふわと膨れる柔毛、逞しく風切る翼、鮮やかな飛翔の瞬間・瞬間を鋭い眼で繰り返し観察し、スケッチを重ねたのかもしれない。

 小生は何年も前に、荒れた海の波を望遠レンズ・高速シャッターで撮ったことがある。波が砕け散る瞬間写真に、あの浮世絵にある〝波の形〟があった。浮世絵師らは、あの〝波の形=雪村波〟を捉えるまで、どれほど波を見つめ続け、スケッチを繰り返したのだろうか。

 スケッチには観察力や記憶力も必要らしい。それらすべてが足りないあたしは〝雀躍〟を諦めて、羽根をたたみ大人しく止っているスズメの横姿を描いてみた。


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小翼羽広げた下の落穂かな [私の探鳥記]

tubasahone2_1_1.jpg 前日の〝雀躍〟図に脚の骨格を添えたが、翼の骨格を描き忘れた。その絵に骨格を描けばこんな具合になるか。これがスズメではなく鶏ならば「手羽元=上腕骨」で、「手羽先=尺骨から先まで」だろう。今度、両方を食って骨標本を作ってみようか。

 上腕骨/尺骨・撓骨/腕掌骨を真っ直ぐに伸ばせば飛翔時の翼になり、全てを畳めば止まった姿になる。椀掌骨(わんしょうこつ)は腕骨と掌骨が一緒になった骨。ここからがよくわからないのだが、尺骨につながる腕掌骨の先端に第2指があって、ここが初列風切上部付け根の「小翼羽(しょうよくう)」になるらしい。

 「小翼羽」は、普段はに初列風切の上にピタッと付いている。下降・着地する際に速度不足で失う揚力を増すためにココを広げるらしい。また「翼膜前縁」には伸縮の(羽搏くための)「張筋腱」がある。

 さて、江戸時代の絵師らは鳥の着地シーンに、この小翼羽が広がった姿で描いていただろうか。にわか勉強で間違っていたらゴメンナサイ。


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雀躍を描けずに沈む隠居趣味 [私の探鳥記]

suzumehanekouzou1_1.jpg 風景スケッチもスズメも描けない。だが新年早々から諦めるわけには参らぬ。再びスズメを描いた。「雀躍=跳ねるように小躍りして歓ぶ」だが、描けぬあたしは落ち込むばかり。かつて〝鳥撮り〟ゆえ、鳥はもう少し上手に描きたい。今度はペン画に淡彩。脚の骨格、羽根の構造も再確認した。(この絵では翼の骨格がまだ理解出来ていない)

 ところで鳥類画家・小林重三(しげかず)をご存じだろうか。小生の鳥撮り開始はデジカメ普及初期の頃。手許の鳥図鑑は写真。それもあってか迂闊にも小林重三を知らなかった。江戸時代の鳥図譜(図鑑)に関しては、弊ブログでも何度か記したと思うが、そのひとつ馬琴『禽鏡』は娘婿の絵師・渥美覚重が描いた。林鳥3巻・大鳥・湿鳥・水鳥の計6巻(300種)。

 そして明治20年、小林重三が生まれた。24歳で〝水彩画普及〟の大木藤次郎に薦められて鳥を描き始めた。明治45年に日本鳥学会設立。昭和8・9年刊の図鑑3巻『鳥類原色大図鑑』(黒田長禮著)1092種のうち1079種の鳥を原色で描いたのをはじめ、多数図鑑で活躍した。昭和50年、88歳で亡くなるまで鳥を描き続けた。

 下手なスズメ絵を描きつつ、彼の生涯を記した『鳥を描き続けた男 鳥類画家・小林重三』(国松俊英著)を読んだ。鳥が描けぬ小生に励みになる一節あり。端折って紹介。~風景や建物写生が上手かった小林だが、鳥は描けなかった。小林は標本の鳥をただ描くだけではダメと気付いた。大木藤次郎『水彩画の栞』に〝骨格を知れ〟とあり、別の本に〝動くものを瞬間に写生して記憶力を発達させろ〟とあった。彼は上野動物園に日参して鳥の写生をした。「もっと苦しまなければいい絵は描けない」。4年目、彼が描いた原色図版一枚が一頁掲載された。

 絵を描き始めて1年に満たぬ小生に鳥が描けるはずもない。スケッチブックを持って上野動物園に通おうかしら。


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諍ひも小躍りのやう群雀 [私の探鳥記]

murasuzume3_1.jpg ベランダに飼い鳥インコ(コザクラインコ?)が飛んで来る。メジロにミカンなら、インコにも餌(殻むき麦)をあげようと思った。Y字枝の天辺にドリルで穴を開け、そこへ鳥籠用餌箱の針金を差し込めるように細工してベランダに取り付けた。

 インコが来る前にスズメが来た。群雀(むらすずめ)。観ていると序列があるらしく餌を独占する個体、ちょっかいを出すのがいて、大人しく待っているのがいて、落ちた餌を拾うスズメもいる。誠に騒々しい。その騒ぎはまさに〝欣喜雀躍〟。

 スズメ減少が報じられることもあるが、この辺では殖えている感がする。街のスズメの天敵はカラスだろうか。先日、電柱の機器内にカラスが執拗に嘴を突っ込んでいた。それら機器内にスズメが出入りしているから、ソコが繁殖場所の一つかも。カラスはきっとソコで親鳥・雛を捕え食ったことがあるのだろう。

 そんなカラスを見た後で、米屋が店先で餌(クズ米だろう)を撒き、スズメの群れが舞い降りる光景を見た。高層ビルが次々に建つ街にあって、なんだか大昔から続いている懐かしい光景を見たような気分になった。

 あたしは未だ「鳥」を描いていない。この機会にベランダで雀躍のスズメを描いてみた。「飛ぶスズメ」の難しいこと。また「あぁ描けない」と嘆いてしまった。今年のブログは描けない苦悶・苦闘で終始しそうだ。なお、インコの餌は「スズメが群れてベランダが糞で汚れるよぅ」とかかぁが言うので、1週間ほどで撤去させられた。


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更地の国立競技場と混浴の思い出 [新宿発ポタリング]

kokuritusarati5_1.jpg 正月三日。暖かい陽気に誘われて自転車の初乗りへ。ミニスケッチブックをポケットに突っ込んだ。あたしには運動不足対策に、お気に入り自転車コースが幾つかあって、昨日は<新宿~信濃町~青山外苑~青山墓地真ん中~六本木>コース。途中で更地の国立競技場あり。工事塀の隙間から早描きスケッチ。

 「おや、スケッチかい」おばさんが背後から話しかけてきた。「下手ですからスケッチの真似事です」。「ははっ、絵なんて下手の方が面白いんですよ。あら、上手くもないし下手でもない。それはいけません」。ムッとしたが、その通りだと思った。

 おばさんは続けた。「更地になったら、富士山が見えるんですよ。ずっとこのままがいいのにね。このゴタゴタを見ていると、日本の明日の凋落が見えるよう。やらなければいけないことが他にいっぱいあるのにね」。おばさんは吐き捨てるように言った。

 東京オリンピック(1964年10月)の時、あたしは生意気盛り。うるさい東京なんかフンッと「東京脱出組」。友人と伊豆半島へ逃げた。滞在した河津村(町)の銭湯(温泉)に入ったら混浴だった。もう、そんな〝いい時代〟を知っている人は少ない。

 追記)1月15日の東京新聞朝刊1面に「富士望む神宮外苑」の見出しで、国立競技場工事壁向こうに聳える富士山の写真が載っていた。絵画館辺りから工事塀左方向に富士山。2月3~6日頃の夕方に「ダイヤモンド富士」が見えると記されていた。


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箸置きを筆に下ろして春よ来ひ [スケッチ・美術系]

hasioki2_1.jpg 昨五月の「初スケッチ」からブログの写真を絵に替えて後悔しきり。描く習慣が未だに身に付かない。ブログで池田満寿夫、竹久夢二、藤田嗣治、佐伯祐三、マリー・ローランサン、モネ、五姓田義松、熊谷守一、マティスと初めて画家関連書を読む記もアップし、「絵の練習は模写から」とソレも試みたが半年では修業にもならない。

 絵を描くのはボクサーが日々トレーニングを怠らぬと同じで、練習を怠ると手が動かないらしい。マティスは寝起きにクロッキー十枚程とか。「クロッキー」を検索してみた。

 まぁ、男女絡みヌードクロッキー公開サイトもあって「ヌードを描くのはスピリチュアルゆえ(マティスと同じようなことを言っている)、老人もクロッキー会参加で元気になりましょう」と呼びかけていた。そりゃ~最もだ。小生と同年輩ご婦人が、若い男性の勃起を目の当りにしたら描く手も震えようぞ。またヌードクロッキーが各所開催で驚いた。これは漫画・アニメ系を目指す若者が多いためだろう。大型書店の絵画コーナーには人物画のためのヌード集、男女絡み写真集がズラッと並んでいた。

 絵画系ブログの多いこと。それらネット巡りをしていたら、初心者のあたしは何をどう描いていいのか完全に迷ってしまった。絵はとにかく〝描く習慣を身に付ける〟ことが肝心らしい。とりあえず机にある箸置きを描いて〝描き初め〟にした。これは机上で彩色の際の絵筆置きに利用。今年は絵が少しでも上手く描けるようになりますように。


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