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吉田「もてなしはいかによし田のめし盛や~」 [狂歌入東海道]

35yosida_1.jpg 第三十五作目は「吉田」。狂歌は「もてなしはいかによし田のめし盛やしやくしつらでもうまくのむ酒」。

 吉田宿は遊女や飯盛女が有名だった。吉田遊女は「伊勢音頭」の十六番に歌われている。♪吉田ナ~エ 通れば 二階から招くアラヨ~イヨイ しかも鹿の子の ヤンレ 振袖で~。狂歌も吉田宿の艶っぽさを詠っている。「しゃくしつら=杓子面=額と顎が阿賀が張って中くぼみの顔(どういう顔のことだろうか?)」

 絵の城は築城当初が「今橋城」で、江戸時代は「吉田城」、明治からは「豊橋城」。城手前を流れるのが豊川で橋は「今橋」「吉田大橋」「豊川橋」。当初は東海道三大橋のひとつ。だが今は「豊橋」。この地は江戸時代の名をことごとく変えている。過去を否定せずにはいられない何かがあったのだろうか。

35yosidauta1_1.jpg35yosidaup_1.jpg 保永堂版「吉田・豊川橋」。吉田城の普請中の職人らが、眼下の豊川、豊川橋を見下ろすユニークな図になっている。

 吉田宿は、昔より「菜飯田楽」が名物で、今も老舗「きく宗」が腰板連子格子、白壁の建物で営業中とか。弥次喜多らが吉田宿へ入って直ぐに詠んだ一首が~

 「旅人をまねく薄のほくちかと爰もよし田の宿のよねたち」。「吉田遊女の二階から招く」から「旅人を招く」。「招く」となれば「招く薄」で秋の季語。「ほくち=薄のほくち(火口)=吉田名産で江戸時代には専門店が多かったそうな=火打石が発する火を移す燃えやすい材」。

 膝栗毛には吉田宿に入る前に「火うち坂をうちすぎて~」の記述あり。火打石も採れたのか。マッチ普及まで「火打石・ほくち(火口)」セットは生活必需品。「よねたち=よね(女郎、妓、娼)たち」(古語辞典)。

 弥次喜多らは当宿から御油宿へ向かう途中で「大雲寺(大恩寺)」へ、「いや高き御寺のまへの名物はこれも佛になれしあまざけ」。寺~尼さん~甘酒。そういえば神社仏閣の門前にはなぜか〝甘酒屋〟が多い。この狂歌は、寺前の名物・甘酒は佛に慣れた尼さんみたに甘みがでていると詠っている。

 ここからくたびれた弥次さんを置いて、喜多さんは「赤坂宿でいい宿を確保すべく」ひとり先に歩き出した。


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