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藤川「行過る旅人とめて宿引の~」 [狂歌入東海道]

38fujikawa_1.jpg 第三十八作目は「藤川」。狂歌は「行過る旅人とめて宿引の袖にまつはるふち川の駅」。まつわる=つきまとう。絵は坂上から眼下の藤川宿の雪景色。

 保永堂版から約二十年後(「狂歌入東海道」から約十年後)の広重刊『東海道風景図会』(嘉永四年・1852年刊)の「藤川」を見ると、この絵の横後方俯瞰から藤川宿を描いた図になっている。この絵から想像して描いたのだろう。画力恐るべし。

 一方、保永堂版「藤川」は「棒鼻ノ図」。幕府から朝廷への「八朔御馬献上」を〝棒鼻〟で宿役人らが平伏して迎えている様子、と解説されている。「八朔御馬献上」と「棒鼻」を知らずゆえ勉強した。八朔=旧暦八月一日(新暦九月上旬)に豊作祈願や贈答の風習あり。これは徳川家から朝廷への恒例の馬献上らしい。

 広重はこの「八朔御馬献上」に帯同(派遣団員の一人)したことで『東海道五十三次』を描いたと言われているが、その絵は司馬江漢図「藤川」とまったく同じ内容・構図。広重は本当に東海道を歩いたのだろうかか? さらにはこの地に雪は積もらない等々、何かと詮索喧しい藤川宿の絵です。だがこの狂歌入東海道の「池鯉鮒宿」では〝八朔御馬献上〟の様子が詳細に描かれていて、やはり〝同行説〟を採ってみたい。

38fujikawauta1_1.jpg 次は「棒鼻」です。すでに「沼津宿」で「傍示杭=境界標柱」の説明をしたが、傍示杭=棒鼻でもあるらしい。江戸から上方に向かって〝棒鼻=傍示杭〟があり、見附があって宿場内に入るという順なのでしょう。

 さて弥次喜多らは、赤坂宿を出て藤川宿に向かって歩き出せば「昨夜は新婚部屋を覗いて襖ごと倒れ込んだ馬鹿な男らがいた」と笑いつつ歩く勇み肌の三人連れがいた。弥次さん、思わず彼らに立ち向かって袋叩きになるところを、からくも逃れている。

 やがて宝(法)蔵寺(家康が幼児時期を過ごした寺)辺りへ至ると、ここはあみ袋・早縄などの産地。「みほとけの誓ひと見へて宝蔵寺なむあみぶくろはこゝのめいぶつ」。

 藤川宿の〝棒鼻の茶屋〟では、軒ごとに生肴を吊るしたり大皿に並べて売っていた。「ゆで蛸のむらさきいろは軒毎にぶらりとさがる藤川の宿」。ゆで蛸の紫・藤の紫にかけている。また彼らは若い女性に手をだそうとして失態をさらすが、それは省略して「岡崎宿」へ。


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