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儒者の墓(11)林羅山の前半生 [朱子学・儒教系]

razanbon_1.jpg 儒者の墓シリーズ最後は「林羅山」。時代を遡るので整理する。11代家斉(老中松平定信、寛政の三博士)、10代家治9代家重(老中田沼意次)、8代吉宗(室鳩巣)、7代家継6代家但(新井白石・間部詮房)。そして徳川家康・秀忠・家光・家継がらみが林羅山になる。なお家光・家綱は保科正之が補佐。保科は朱子学の徒で神儒一致を唱え、他の学問を弾圧した。

 堀勇雄著『林羅山』の「はしがし」の概要。~羅山の単行本は一冊もない(初版は昭和39年)。その理由は戦前・戦中において皇室中心主義・国粋主義・皇国史観が横行も、羅山はその物差に当てはめると失格者。戦後において儒学は時代遅れの旧思想。羅山の学説は取るに足らずと考えられ、さらに羅山の人格・品格が立派ではなく魅力に乏しいゆえ~

 これでは読む気も失せる。そこで平成24年(2012)刊の鈴木健一著『林羅山』を併せ読むことにした。同著「序章」では小林秀雄の文、~羅山の功績は、徳川幕府の意向に従って四民を統制するための道具として朱子学を加工したことで、それは単なる御用学問で、真の学問ではない~を紹介。さらに司馬遼太郎の小説『城塞』より、~林道春(羅山)は、家康にとって都合がよかった。出世欲がつよく、権門のためなら物事をどう歪曲してもいいと~(略)彼は幕府意向で人間の諸活動を制限したり、その身分を固定する悪魔的な仕事に従事し、後世の日本人にはかり知れぬ影響をあたえてしまった~を紹介。それでも両氏は羅山の学識を認めての執筆。両著から林羅山の人生まとめです。

 羅山は天正11年(1583)、京都生まれ。父の兄の養子へ。養父は米穀商。幼少期は病弱で学問好き。13歳から健仁寺で学ぶ。15歳、優秀ゆえ禅僧になるべく剃髪を勧められるも、学問好きだが信仰心なしで、家に戻って勉学に励む。

 18歳、学問は五経研究の「経学」(朱熹)にありと朱子学を選ぶ。当時は朝廷許可なしに自由読法や自由開講禁止。羅山より22歳年長の藤原惺窩が法衣なし(儒者として)で家康に進講。独自和訓で四書、五経もテキスト化。

 羅山は公然と禁を破って自分流講義を市中で展開。同時期に幾人もの学者が、公家独占の『百人一首』『徒然草』『太平記』講釈で学問開放が同時進行。その権威の明経博士(清原家)が告訴するも家康は無視。学問が朝廷・寺院から解放、儒教も民間学問になった。

 羅山22歳。藤原惺窩に会う。惺窩一門の深布道服姿で講じ、惺窩を師として学識を深める。両者に思想的差異多く、かつ惺窩は羅山の出世欲に「名利を求めて学問をするのならしない方がまし」と叱るも、学問の自由をもって懐広く関係を続けたとか。

 慶長10年、羅山23歳。惺窩紹介で初めて徳川家康に謁見。家康は羅山の思想はどうでもよく、該博な知識から〝百科辞典代わり〟に側に置いた~が定説らしい。(続く)

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