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激変中の渋谷の思い出 [散歩日和]

scramble_1.jpg 江戸時代で遊んでいると〝今〟に疎くなる。テレビが「渋谷激変中」と報じていた。かつて街が余りに激変し、何が何だかわからなくなった事がある。

 高校2年、「恵比寿ビール」でアルバイトをした。それで当時4、5万円程の登山靴を入手したが、後に同地が「恵比寿ガーデンプレイス」になって、高校時代の記憶と今の風景がどうしても結び付かない。

 平成3年に大島にロッジが建った際に、幾度も車で「豊洲ふ頭」まで荷物を運んだ。23年後に豊洲へ行くと、あの時の「七島海運」が何処にあったかわからず、全く別の街が広がっていた。記憶寸断の同地だが「豊洲市場」は、造成中の脇を幾度も自転車で走ったから、そこに何が建とうが土地勘は揺るぎない。

 そうか、激変過程を一度でも眼に入れておけば、後で〝きょとん〟とすることもないと気付いた。そんな某日のウォーキングを、激変中渋谷の〝我が青春巡り〟とした。

 渋谷の最初の思い出は10代の頃。東京オリンピック前で、渋谷西口のバスターミナルの向こう側の露地奥にあった喫茶店「リルケ」のバイトだった。『リルケ詩集』を読みつつドリップコーヒーの淹れ方、サンドイッチの作り方を覚えた。

 当時の喫茶店はどこもそうだったと思うが、ネル(布のフランネル)ドリップで何十杯分も抽出し、オーダー毎に一杯ずつ温め直して出す方法。ドリップの技を仕込まれた。初めて棒タイを結んだ。後でベン・ケーシー風の白衣姿になったように記憶する。やがて店長に誘われて、新宿西口の大喫茶店に移ったが、あの頃の「リルケ」は今どうなっているのだろう。

 それから10数年後の30代最初に、再び渋谷に通った。「銀座ヤマハ」の会報編集を請け負っていて、その担当者がヤマハ音楽振興会・宣伝部への人事異動に小生を連れ込んだ。当時の宣伝部は「渋谷エピキュラス」にあって、未整備だった所属アーティストのプロフィール資料や、彼らの活動紹介の定期ニュースリリース、新曲宣材のコピーなどを書き始めた。

 「エピキュラス」のスタジオと宣伝部を、裸足の中島みゆきが走り回っていた。彼女の『魔女の辞典』シリーズは、エピキュラスから同社宣伝部が目黒に移った直後だったか。小生が設問を出し、彼女がちびた鉛筆をなめなめしつつの感で書き込んでくれた。

 小生ずっと新宿暮し。遊びも買い物も新宿中心で、隠居すれば仕事で渋谷へ行くこともなくなった。御無沙汰の渋谷は今どう激変中なのだろうか。昔々の喫茶店「リルケ」や「エピキュラス」はどうなっているのだろうかと歩いてみた。写真は渋谷駅の上に建つ「渋谷スクランブルスクエア」。来年秋頃に開業らしい。(続く)

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