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光子⑩ 夫亡き後~ [牛込シリーズ]

IMG_3590_1.JPG ハインリッヒは自著『意思の世界』執筆中の明治37年(1904)に日露戦争勃発を知った。「オーストリア・ハンガリー帝国」はロシアと反目しているが、力不足で威伏状態。同じ小国・日本が超大国ロシアに宣戦布告し、誰もが日本惨敗を思って同情していたらしいが、ハインリッヒだけは日本勝利を予言。光子は壁に貼った地図に、勝利地をピン止めし、その都度、貴族仲間や領民らがお祝いを言いに訪ねてきたとか。

 そして明治38年(1905)の旅順陥落に、ハインリッヒは旧知の柿崎博士に慶祝書簡を送った。「日本がまた功名を遂げた。欧州も米国も驚くのみ、だが安心してはいけない。この無謀な戦争は、やがて廻り廻って自分に襲ってくる~」と警告。(忠告通り後、日本は太平洋戦争で無残な結果になる)

 翌・明治39年5月、ハインリッヒは執筆前の散歩途中で胸の痛みを覚えて47歳で急逝(シュミット村木著は他殺、自殺説に言及)。ややして庭に煙が上がった。「私が死んだら、その日に焼却せよ」の遺言通り従僕が彼の40冊余の日記を焼却していた。

 それまでの母を次男リヒャルトは自伝で「母は日本人形に似ていた。忍従と諦め、強い自己抑制。母は絵を描き、和歌を詠っていた」。南川三治著『クーデンホーク光子』は写真集で、光子が庭でスケッチをしている姿、また10数冊のスケッチブックの絵を多数紹介。なかなか達者な作品です。

 夫の死で、光子は一変した。遺書はロンスペルグ領地を長男ヨハンへ。他の全財産と子供らの後見を光子に託していた。これに家族親戚は異を表して告訴。だが光子は目覚めた雌獅子の如く立ち上がり、鉄の意思・魂で法廷論争で勝つ。そして夫の専制的管理者の姿勢も見習ったそうな。

 光子は子らを南チロルで教育を受けさせるも、子らが田舎じみるを嫌ってウィーンのオーストリア最高の学校テレジャヌス・アカデミーヘ入れ、自身もボヘミアからウィーンへ移住。末娘イーダは吉沢・元大使への書簡に「母は社交界ウィーンで優雅に美しく装い、快活で機智に富み、魅力的な花形としてサロンの中心だった」と認めているとか。松本清張の記述のはかなり違う。「母は乗馬、泳ぎ、テニス~あらゆるスポーツもこなし、劇場やオペラに足しげく通った」。光子36歳~40代前半の時期だろう。

 次男リヒャルトによれば、母の社交界の花形振りは、古城で読み耽っていた英文恋愛小説ゆえだろう」と記し、木村毅は、少女時代に「紅葉館」で働いていた素養があってのことだろうと記している。

 大正2年(1913)、次男リヒャルトはウィーンの大学へ。専攻は哲学と世界史。ウィーンは世紀末の文化爛熟期で、光子は当時人気絶頂の新女優イダ・ロ-ランの芝居に長男次男を連れていった。リヒャルトがイダに夢中になり、イダも彼に熱を上げた。彼は未だ大学1年生、イダは母・光子に近い歳。二人の大恋愛が始まった頃、第一次世界大戦が始まった。

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