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光子⑭「パン・ヨーロッパの母」になる [牛込シリーズ]

EU_1_1.jpg 「パン・ヨーロッパ」運動の名誉総裁にノーベル平和賞のフランス首相をつとめたアルスチイド・ブリアンが就任し、昭和4年(1929)に国際連盟に提案。ジュネーブ本部に「パン・アメリカン」の旗がはためいた。翌年には英国チャーチルも「ヨーロッパ合衆国」を発表。

 だが良い事は続かない。NY証券取引所に端を発した世界大恐慌。ドイツではヒトラー台頭で第三次ドイツ出現。第二次世界大戦への不穏な動き。イタリアでもムッソリーニが出て来た。日本では昭和6年(1931)に満州事変。順風宇だった「パン・ヨーロッパ」運動は、荒波に消えた。

hitler_1.jpg 昭和14年(1939)、第二次世界大戦が勃発。ヒトラーがオ-ストリア併合、チェコ略取、ポーランドへ侵攻。フランスが対独宣戦布告も即、占領された。光子は元駐独大使・大嶋中将配慮でメードリングの村荘へ。次女オルガに付き添われて隠棲。また大嶋陸軍中将の庇護でリヒャルト夫妻はスイス~アメリカへ亡命。

 光子は昭和16年(1941)8月の日本軍真珠湾奇襲の4ヵ月前に、2度目の卒中発作で亡くなった。ハインリッヒは後に自著『美の国』で、母について「ミツは自分に課された運命を最初から終わりまで、誇りをもって、品位を保ちつつ、かつ優しい心で甘受していたのである」と記しているそうな。

 こう記す木村毅は、かつてウィーン滞留経験を有す外交官、武官、学者、音楽家などによる「ウィーン会」が、光子の面影を永遠にとどめておこうと執筆者に著者を推された。大戦中なれどイタリア経由でウィーンへと計画中に、真珠湾攻撃で計画断念したと告白している。

 アメリカに渡ったリヒャルトはNY大教授になって、カーネギー平和財団で「戦後ヨーロッパ連合研究ゼミナール」を担当。チャーチル、ルーズベルト、トルーマン各大統領意見の紆余曲折を経て、戦後1948年にベルギー、オランダ、」ルクセンブルグの関税同盟で「EU史」がスタート。1951年、同棲37年の女優イダが死去。1967年にFC(ヨーロッパ共同体)から1990年に仏独がEMU(経済通貨組合)。そして1993年にEUが誕生。EU史は改めて勉強するとして、リヒャルトは71歳の時に来日し「鹿島平和賞」を受賞。

 第二次世界大戦終了(1945)から75年を経た今、2度に及ぶ世界大戦の反省を忘れらしき米国は「自国ファースト」の大統領が出現し、英国でもEU離脱。日本でも大空襲~原爆投下から「こんな恐ろしい兵器が開発された今、二度と戦争などしてはならぬ」の「平和憲法」が生まれたが、今は「自国を守る軍隊なくして何が国家だ」と「軍備拡充・憲法改悪」を叫ぶ輩が蠢き出している。

 戦争の歴史を避けてきた小生だが、かつて事務所があった市ヶ谷・佐内坂近くの納戸町公園で「クーデンホーク光子・居住地」の碑に出会ったことで「日清・日露戦争」を、そして「欧州の第一次・第二次世界大戦」をお勉強することになった。

 コロナ外出自粛&熱中症を避けた冷房装置部屋での読書三昧だったが、これにて一区切り。気候もやっと秋めいてきた。読書で萎えた身体をウォーキングで復活させましょう。写真はEU旗とヒトラー。

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