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光子⑫ 第一次世界大戦(B) [牛込シリーズ]

hikousen1_1.jpg 光子と第一次世界大戦②は1915から終戦までをまとめる。まずは1915年。ドイツ軍が西部戦線で史上初の毒ガス使用。ドイツ潜水艦「Uボート」が英国大型客船を撃沈。イタリアがオーストリア、トルコ、ドイツに宣戦布告。ブルガリアがドイツ、オーストリアと秘密同盟。セルビア軍がギリシャへ退避。

 大戦3年目の1916年。2=12月「フランス・ヴェルダンの戦い」では両軍死傷者70万人。フランス軍前線にドイツの砲弾が雨霰。ユトランド沖(北海)で英独主力艦隊の最初で最後の大海戦。ドイツ27隻(11隻損傷)、英国37先(14隻損傷)。

 東部戦線ではロシアが大攻勢。1週間でオーストリア軍20万人を捕虜。フランス北部では英軍は隊列崩さぬ進軍で、退避壕からのドイツ兵機関銃で1日5万7470人死傷。ルーマニアがオーストリアに宣戦布告も、反撃されて首都ブカレスト陥落。ロシアでは祈祷師ラスプーチンが暗殺される。国内もストライキ頻発。

bakudantouka_1.jpg 1917年、ドイツが無制限潜水艇作戦再開。Uボートがアメリカ商船3隻を撃沈してアメリカも参戦。「マタ・ハリ」がドイツのスパイとしてフランスで処刑。1月、ロシアで飢え・反戦・専制政治妥当の5万人デモ。3月にはデモ・ストライキの「三月革命」。オーストリアでも秘密講和交渉(失敗)。ドイツ軍ゴータ爆撃機でロンドン空爆。開戦当初はツェッペリン〈気球船)で爆撃も、イギリスが高性能の対空砲、戦闘機改良に対して誕生したのがゴーダ爆撃機。

 フランスも軍内部の反乱。各国、大戦の疲弊で吹き出した。イギリス軍がフランダース地方のドイツ前線の地下に張り巡らせた坑道に仕込んだ500トン地雷を爆発。1万人余のドイツ兵が亡くなり7千人が捕虜。

 ロシアでは「レーニンとトロッキー」登場で連合国を離脱。ロシア革命時には「サマセット・モーム(小説家)」が英国諜報員として工作活動を行っていたとか。

 同年にリヒャルドはウィーン大卒業で、博士号授与式にイダ出席も、光子は拒否。イダの舞台も無く、二人はアルプス連山の麓メーレン地方の古城で隠棲。光子は長男次男が戦場で、4男は高校寄宿舎。3人の娘と静かなストッカウの村荘へ避難。光子は古城時代bakuha_1.jpgの農業管理の知識を生かして開墾~馬鈴薯作り。大収穫で前線兵士へ男装して届けたとか。

 1918年、大戦は収束へ動き出す。年頭に米国大統領が「平和のための14ヶ条」。中央同盟軍でもドイツ離れで、オーストリア軍では6~9月の脱走兵40万人。ロシアは離脱も、アメリカ軍が西部前線に140万を集結。アメリカ軍の死傷者32万人(戦死者11万6千人)。イタリア戦線でアメリカ赤十字の救急車運転手「アーネスト・ヘミングウェイ(18歳)」が負傷とか。アメリが軍による「スペイン風邪」が世界中に蔓延(全世界の推定死者2700万人)。

Uboat1_1.jpg ロシアでは元皇帝一家(ニコライ夫妻と子ら11名)が処刑さる。ブルガリア、トルコが休戦。オーストリア、ドイツも休戦を模索。4年3ヶ月の大戦の軍関係の死者推定900万人。民間人を含めると1600万人とか。1918年11月、ドイツ休戦協定調印、ドイツ系オーストリア、チェコスロヴァキア、ハンガリー各共和国成立宣言。

 1919年1月、パリ講和会議開始~ヴェルサイユ講和条約調印。戦後処理の不満がくすぶったか1939年9月にはヒトラーのポーランド侵攻で、再び第二次世界大戦へ。

 写真は『大戦争写真帖』(大正4年刊)国会図書館デジタルコレクションより。

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