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光子⑬ 第一次世界大戦中の子らと~ [牛込シリーズ]

mitsukoura_1.jpg 光子の次男リヒャルトは、徴兵を免れた第一次世界大戦中ずっとイダと深間の暮し。詩人リルケが、イダについて「素質の瑞々しさ、身振り、着想、演技の盛り上がり方は絶えず新しく生まれ出で、澄み切って、泉のように清らかな水を湧き出している」と絶賛しているそうな。リヒャルトは自分への財産分与分で、イダのために劇場を買おうとし、光子怒って母子関係が完全に切れた。

 1917年(大正6年)は、ロシア革命(写真下はレーニン。『レーニンの生涯と事業』昭和2年刊。国会図書館デジタルコレクションより)とアメリカ参戦の年。同年にリヒャルトはウィーン大の博士号授与式。イダ参列も光子は出席せず。リヒャルトは舞台興業がなくなったイダと、父の妹(叔母)提供の田舎の古城で戦禍を逃れた暮し3年余。

 光子も戦禍を逃れ、3人の娘と共にボヘミアの山荘暮し。ここで光子は古城暮しで学んだ農業経験から開墾~馬鈴薯作りで大収穫。男装して前線守備兵へ馬鈴薯を届けに行ったとか(シュミット村木著は、それも作り話だと記している)。ロンスペルク城を相続した長男ヨハネス(ハンス)もまた光子の意にそぐわぬ嫁を迎えて母子断絶。

 1918年11月、ドイツ系オーストリアとチェコスロバキア、ハンガリーが各共和国成立宣言。どん底まで疲弊した欧州に一条の光となったのが、未だ30歳前の若きリヒャルトの『パン・ヨーロッパ(Pan Eureope)=ヨーロッパ合衆国、ヨーロッパ共同体)構想だった。

lenin_1.jpg 欧州は米国の2/3の広さながら28国家あり。各国で言語も通貨も違う。各国が自衛軍備を備え、国境に要塞も設けている。比して米国は48州あるも言語も通貨も同じで、関税や交通障害もない。

 第一次世界大戦で疲弊した欧州復活もそうあるべきではないか~という提案。その大運動のリーダーに若きリヒャルトが躍り出た。月刊『パン・ヨーロッパ』も発行。一方日本でも岡倉天心が「アジアは一つ」と叫んでいた。(パン・ヨーロッパの形が出来るのは第二次世界多選後になる)

 光子は、息子の「パン・ヨーロッパ」運動を知った1925年に軽い卒中に倒れた。以後は次女オルガが母を支える暮し。息子の著書『パン・ヨーロッパ』が永富守之助(鹿島守之助)によって日本語訳本が出版されてことも知った。

 <『パン・ヨーロッパ』著者の母=日本人のミツコ>もクローズアップされ、母と次男の10年余の別離も溶けて母子対面が実現。写真はシュミット村木眞寿美『ミツコと七人の子供達』裏表紙のミツコ。同著には7人の子らの第二次世界大戦も経たそれぞれの人生も紹介されている。7人のうち3人が博士号。2人有名作家になっている。

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